「私」と「他者」 調和的な統合と「咲くもの」

今回は前半で「私」と「他者」、途中に過去のテーマの補足等も挟みつつ、後半で調和的な統合と「咲くもの」をテーマに動画や論文等をいくつか紹介しつつ考察しています。

 

 

「身体」が繋がっている結合双生児は、下肢、座骨、肩など結合している箇所が様々ですが、その中でも頭部・脳が繋がっている場合、 例えば独我論のような捉え方が否定される現象が生じてきそうですね。

通常、「私」は「他者」と分離しています。しかし「私と他者が同時に在る」という状態において、どちらが「私」でどちらが「他者」でしょうか? 相手側の思考・感情が同時に「私」に生じている、私の思考・感情も相手側に同時生じている。しかし身体は二つある。

内言が同時に存在し、 外言は二つに分かれている。  内言:音声を伴わない内側の思考   外言:外部に発される言葉(声)

「私」とは何か?「他者」とは何か? 自分の精神現象と同時にもう一人の精神現象が存在し同時に「私」と「他者」が認識される。そして手術して分離された場合、「かつて私と同時に在った他者」が「私」と「他者」に分離されるという稀有な体験が生じるわけです。

 

 

前回、「量子コンピューター+AI」の可能性について少し書きましたが、AIのみでもかなり進化してきています。量子コンピューターは汎用化されるのはまだこれからですが、いずれ実現するでしょう。

 

ハーバード大学が開発した新しい診断用人工知能(AI)モデルは、ラベル付けなどの大量の人手を必要とするデータセットを用意することなく、未加工の胸部X線写真と症例報告から人間の専門家と同等の診断ができる。
(中略)
博士は言う。「あのレベルの性能に到達するのは、並外れた功績です」。医用画像と症例報告で訓練したAI、「医師並み」の診断力

 

追加更新でもうひとつの研究結果を紹介です。完全ではないですが「AI+MRI」によって人間の思考をおおまかに読むこともできるようになってきているとのことですが、こういう技術も今後ますます精度が上がっていくでしょう。

米国のテキサス大学オースティン校(The University of Texas at Austin)で行われた研究によれば、脳活動を測定するMRI装置からのデータをもとに、人間の思考を「かなり」正確に読み取れるAIを開発した、とのこと。MRIで「頭に浮かべた文章」を読み取れるAIが登場!逆に思考盗聴を防ぐ方法も検証される!

 

量子アニーリングによる組合せ最適化」と「AI(機械学習)」と組合せることで、「熟練工の経験頼み」とされていた作業で1時間かかるものが数秒に短縮できる、ということです。⇒ 量子コンピュータが「ベテラン従業員の勘頼み」の企業を救う!? AIとの相乗効果がもたらす未来

 

とはいえAIに出来ることはまだまだ限られていて、量子コンピューターも始まったばかりなので過剰な期待はできませんが、今後その可能性の幅は大きくなっていくだろうと思います。

そしてこれと「ボディーシェアリング技術」を接続すると、「他者」と「私」が身体を共有する、という体験の深さ、精妙さの質がどんどん上がって、結合双生児とまではいかなくても、私と他者の身体における境界がかなり壊れ、

他者の痛みや苦痛を身体で感じ、「他者を身体で知る」という体験ができることで、世界観が全く変わるかもしれません。

そして脳の活動を同期するような技術が進化した場合、通常はごく親しい人の間にしか生じない同期が他者にも生じることで、かつて人類に出来なかった「隣人を愛せよ」がかなり出来るようになるかもしれませんね。

また量子コンピューターによる「モンテカルロシミュレーション」によって、これまで予測不可能と思われていたものが高精度で予測可能になり、今までは解決が不可能、あるいは膨大な年月がかかるとされた問題が高速で処理され最適解が導き出される日がくるかもしれません。

 

以下、研究者の玉城絵美さんの「ボディーシェアリング技術」の動画です。

 

 

「人類学の父」とも呼ばれるタイラー『宗教がアニミズム ⇒ 死霊や精霊の信仰 ⇒ 多神教 ⇒ 一神教へと進化する』というこの進化論的な解釈の仕方は過去記事で批判的に書いていますが、

そもそもこのタイラーの捉え方は当時から批判されてきたものでもあるわけですが、まぁ文明の技術的な発達や知識の蓄積の面に限定すれば、「知」の発達は線的に捉えられる質であり、「縦方向の一本の道」で発達していくともいえます。

しかしフランスの哲学者・社会学者・文化人類学者であるレヴィ=ブリュルは、「無文字」「前産業化」「科学以前」等の文明以前の「原始的心性」を、それ以後の「論理的心性」や「科学的思考」で知ることはできない、その根本的な質的差異を問いかけたわけですね。⇒ レヴィ=ブリュル『原始心性』「序」と「緒論」

またエルンスト・カッシーラー(ドイツの哲学者)の主著『シンボル形式の哲学』において,シンボル形式を「神話的形式」,「言語形式」,「理論的認識(自然科学)の形式」の三つに区分していますが、

カッシーラーは「原始的心性」「神話的形式」を前認識論的な「アニミズム」として切り捨てない。

カッシーラーは,上記のシンボル形式の三つの区分「神話,言語,理論的認識(自然科学)」というものが、「あくまで 方法的な区分」で、「これらのシンボル形式は、相互に絡み合いながら不可分の統一、ひとつ の包括的な全体を形成している」ことに注意を促しています。

近代を生きる人の心にも「原始的心性」はあり、それは生き物である以上なくなりませんが、こういうものは心理学的・臨床心理的なアプローチとは異なり、その外部の知に属し、専門の人であれば芸術の分野の一部の人とか、広義の「心」や「無意識」に触れている人々の方が「身体」でよく知っていることがあります。

「シンボル形式としての神話」 より引用抜粋

『 ..だから、ひとつのシンボル形式の領域が抜け落ちたり、ある形式が他の形式を「支配する」ということであれば、それぞれに位置確認が出来なくなり危機は避けられなくなる、「多様なものが多様なままで存続すること」が危機にさらされているのだ、この危機が生活世界のカタストロフィ的崩壊に通じている..』 
(中略)
芸術だけが認識の場面で働く権力を、それが呪術や技術と結びつかないかぎりにおいて取り消すのである。芸術的体験は完全に個人の所有するところとはならず、それゆえにいかなる権力をも内に含まないシンボル的経験が可能となるのである。

美的経験は人間の内的自然(本性)の抑圧に向かうこともなければ、人間に外的自然に対する権力を与えることもないのである。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ シンボル形式としての神話

 

言語による論理的な線的思考や蓄積した知識による結晶性知能では捉えられないものがあるということです。言語的な能力の高さと相関しない別のリアリティの把握能力は、むしろ「知識や言語に依存した知能」に偏り過ぎると見失われるということ。

そしてブリュルもまた文明と非文明の二元論に陥っていたわけでそこを批判されるのですが、彼の提唱した概念や問いかけ自体には、捉え方として多元的な視点が確かにあったといえます。

 

「E・カッシーラー『シンボル形式の哲学』第3巻「認識の現象学」における「シンボル」概念 : その現代的意義についての予備的考察」 より引用抜粋

現代の自然主義は,人間の認識の規範性そのものを否定し,人間の精神活動を神経システムのはたらきとして,つまりは物理的現象として見ていこうとする。カッシーラーの考えは,このような自然主義とは対立する。たしかに,自然科学的な認識は,客観性をめざして前進するという人間の認識の最終的な到達地点である。

しかしながら,それはあくまで,人間の認識システム全体のなかのひとつの段階であるにすぎない。カッシーラーにとっては,「現実」はひとつであり,われわれは「神話」,「言語」,「理論的認識」というシンボル形式をとおして,その現実を認識する。

それらのシンボル形式は,平等に人間の認識の形成にかかわるのであり,どれかひとつを特権的なものとみなすことはできない。哲学的自然主義は,自然科学的知を特権的なものとみなし,自然科学によって記述された自然を唯一の自然と考え,そこに人間の認識をも包摂してしまおうとする。

ところが,本当は,自然主義(物理主義)の自然もいわば「シンボル化された自然」にすぎないのである。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ E・カッシーラー『シンボル形式の哲学』第3巻「認識の現象学」における「シンボル」概念 : その現代的意義についての予備的考察

 

ブリュルの「融即律(ゆうそくりつ)」という概念ですが、『神秘的融即』ともいわれるこの概念は、「因果律」や二元論のロゴス的知性では捉えらない質のものです。

ロゴス的知性・科学的思考は分別知の一種で、因果律に基づく線形思考ですが、「無分別智」や「神秘的融即」は分別知による線形思考では捉えられません。

そしてIQとかロゴス的知性以前に、人生、生命、現象、存在それ自体というのは意味や価値以前に在り、非因果律、非線形の思考でしか捉えられない領域があります。そのような領域を捉えるのがレンマ的知性で、先の『神秘的融即』もそうなんですね。

ここ最近のテーマで書いた「身体の思考」は「無意識」のことですが、これも「それ自体を捉える」というのであればそういう領域の話で、過去に書いた「無意識それ自体が学んでいく」というのはレンマ的知性の働きともいえます。

 

「アニミズム、レヴィ=ストロース、構造主義」 より引用抜粋

二項対立の問題は、西洋哲学ではイデア的世界と感性的世界が分離してしまうことをどう克服したらいいのか、という課題があって、そこからその重要性が前景化してきた歴史があるんです。

二項対立はだからイデアと関わるものなのですが、「内/外」(含まれる、含む)は、分有されるものであるあらゆるイデアに共通した普遍的性質であり、重要ですがそれだけだと抽象的過ぎる。

それをもう少し感性的なものにした二項対立が「一/多」で、後期プラトン、たとえば 『パルメニデス』や『ティマイオス』は、こうしたものに他の二項対立を組み合わせるという議論ばかりやっています。
(中略)
セール自身、自然学の人であり人文学の人でもあった。それはそうだとしか言えないけれど、どちらかというと自然科学と人文科学の対話というのは、セールがやった仕事なので。

その重要さはもちろんなのですが、一方で彼があまりやらなかった部分もあって、それはやはり「東洋」と「西洋」との対話、またいわゆるプリミティブな文化とヨーロッパの文化との対話だと思うんですね。僕はそういうことをもっとやりたい。
(中略)
ところで、この鼎談の冒頭でおっしゃったように、清水さんと私のアプローチはまったく違っているというのは、その通りだと思います。

私の場合、「未開人」たちが考えていることを「一と多、同と異は、その一方を肯定する場合、他を否定する必然を含まない」と表現し、それを「融即律」と呼んだ、ルシアン・レヴィ=ブリュルを導きの糸として、アニミズムを考えました。

これが表と裏があって、表と裏がないという「メビウスの帯」という、私のアニミズムのモデルを引き出してくる元々の流れにあります。 他方、清水さんは、この2500年という人類の思想の系譜から辿っておられます。

古代ギリシアの二項対立の問題検討を踏まえ、それを大乗仏教哲学の集大成としてのナーガールジュナの『中論』と対比しながら語られています。融即律とは、一でもあり多でもあるという意味で「第三レンマ」的ですが、そこからその先に、一でもないし多でもない「第四レンマ」にまで踏み込んで、二項対立の問題を解こうとされている。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ アニミズム、レヴィ=ストロース、構造主義

 

調和的な統合と「咲くもの」

神経解剖学者のジル・ボルト・テイラーは左右それぞれの脳に「思考」と「感情」のキャラをもつ計4つの部位があって、脳は「4つのキャラのシェアハウス」と語ります。

彼女の「右脳」の実体験では、そこには区分がなくカテゴライズしない、対立の概念がない未分離の状態で宇宙と一体化している状態が生じ、これは『神秘的融即』に通じますね。

そして、彼女の「右脳」の体験は瞑想でも生じるものですが、「時間」もなくなる。

そして脳科学の分野の「4つのキャラ」と、ユング心理学の「4つの元型」を対応させていますが、キャラ1~4でユングの原型との対応ではキャラ1ペルソナキャラ2シャドウキャラ3アニマ・アニムスキャラ4セルフに対応します。

キャラ1は左脳の大脳皮質に対応し、真面目な言語的思考が中心、キャラ2は左脳の辺縁系で「私」の傷つき、不安や恐怖などネガティブ感情が中心、キャラ3は「今ここ」の喜びを生きる、遊び心、好奇心が中心、キャラ4は宇宙の一部としてのありのままの自分、形而上的な思考や瞑想、悟りの世界等の非社会的な存在それ自身の感覚。

これらのバランスと「場」の相性で生きづらさが変化するということで、テイラーもまた科学者・研究者という創造性を生かす分野を選びながらも、その「場」における競争の激しさに苦しんだようです。

巷では「ありのままの自分」という表現で語られますが、ユングでいう「自己」というのは一般的に「自分」として意識される表層的なものとは異なります。

それは無意識と意識を含んだ全体です。一般に「自分」として意識される表層的なものはユングでは「自我」に該当しますね。

そしてどのキャラがメインで他のキャラとのバランスがどうか?というテイラーの視点だけでなく、そこに「時間の質」を加えてみます。

クロノスカイロスという二つの質の時間があります。「自己実現」は「場」と「キャラ」と「時間」の動的なバランスに生じるともいえますが、「自己それ自体」はカイロス時間を生きている。⇒  二つの時間意識 : カイロスとクロノス

たとえばカイロス時間のまま「成熟拒否」の姿勢であれば、幼児元型の「永遠の少年/少女」のように社会に適応できず大人になれない姿のままですが、

子供はキャラ3が強く働き、好奇心が強い傾向があるのでクロノス時間よりもカイロス時間を生きていることが多く、大人はキャラ1、2が強く働きクロノス時間生きている方が多い傾向といえますね。

社会的領域・職場等においては必然的に「キャラ1、キャラ2」がメインに機能し、「キャラ1 + ロゴス的知性」が中心のクロノス時間になりがちですが、

そうすると「キャラ3、キャラ4 + レンマ的知性」とか「キャラ3ベースの創造性+非言語性知能」のタイプは分野に合えば適応的ですが、それ以外の一般社会領域では非適応的になりやすい傾向があり、またその知性やキャラの世界の捉え方は理解されないことが多くなりやすい、ともいえるでしょう。

「永遠の少年/少女」をキャラ3の特質として考えれば、それは「なくさなければならないもの」ではなく、他のキャラと調和的に統合されることで生かされるもの、という風にもいえますね。「ひとつの要素だけに偏りそれだけが剥き出し状態なのが子供」ということです。

創造性とは組み合わせ。複雑性も組み合わせです。複数の多元的な要素が組み合わされバランスしそれぞれが動的に生かされている状態、それが成熟、ともいえるでしょう。

好奇心や無邪気さを捨て去る必要などないように、個性化の過程は「ありのままの自分」を失うことでも破壊することでもなく、それを持ったまま全体性としての自己を調和的に統合していくことなんですね。