心身~意味世界へ  

 

今回は「心身~意味世界へ」がテーマで、記号論的観点をメインに東西の質の異なる思考の型で考察しています。

 

数年前のジョナサンの暖簾「和牛の旨味! 豪州牛100%のハンバーグ」という矛盾的なるものは成立しうるか? これは「和牛」の定義と「豪州牛」との関係を知っていれば可能で、制度改正等の時代の流れの文脈を理解すれば、何故このように表記したのかも理解できます。

しかしそれらを知らない場合は完全な矛盾に思えるのが面白いですね。

 

 

下の「オープン記念 閉店セール」の方は哲学的に考えてしまうと「閉店と開店が同時に存在することは可能か?」みたいになりますが、一見矛盾しているように見えても閉店と開店(オープン)の定義とセールの概念において「オープン記念 閉店セール」は両立可能です。

こういうものは「錯視」と似ていますね、言葉の意味・解釈における錯覚です。

 

自由意志と心身問題

ところで「自由意志」に関しては過去にも幾つか書いていますが、よく知られたアメリカの生理学者ベンジャミンリベットの自由意志の実験は、「自由意志は全くない」ことの証明ではなく逆なんですね、「自由意志はある」ということの証明。

今回は自由意志による「制御」の部分を「パースの情報記号論的観点」からみていきます。

アメリカの哲学者、論理学者、数学者、科学者であるチャールズ・サンダース・パースは、プラグマティズムの祖として知られている人物です。

脳の方が「私」より先に意志決定をしている「無意識」のプロセス、そして意志決定~動作の間にはわずかに「是認や禁止」の自由意志が入り込む隙間(0.1~0.2秒)がある。 「自由意志が入り込む隙間」とは何か?

そして「私」より先に意志決定をしている「無意識」のプロセスはどうにもならない確定された何かなのか?というところを考察しています。

以下に引用・紹介の論文は「パースの記号論における2系列の解釈項の三分法から構成される解釈項の場に依拠した無意識過程の脳活動のシステムを、パースの情報記号論的観点から考察する」という内容です。

無意識過程の脳活動のシステムには、情動的解釈項活動的解釈項論理的解釈項をすべて含む直接的解釈項の領域が深く関わるものと考えられる。」とありますが、残された「0.1秒(100ミリ秒)」の「制御」に作用する「力動的解釈項」の起動確率を高めるものは何か?

論文では「銃の引き金を引く/引かない」の意志決定~動作までの流れ、どちらを選択するかの確率等をパースの情報記号論で説明しています。

 

「パースの情報記号論:無意識過程における脳活動への脳-記号論的アプローチ」 より引用抜粋

パースは、「非還元主義」に立ち、認知という意味の統合(unity)の集まりを物理的過程と精神的過程との間の相互作用について論じている。 「したがって、事物についての精神的(psychical)と物理的(physical)側面とを、絶対的に異なる二つの側面として考えることは間違いであろう。

ものを外から見て、他のものとの作用や反作用の関係を考慮するとき、それは物質として現れる。内側から眺め、情態(feeling)の直接的性質を見ると、ものは意識として生じる」(6.268) この引用から、以下のことが考えられる

① 「物理的」と「精神的」は、同じ統合(unity)の二つの側面。 ② 世界は、物理主義者や精神主義者がするように一方から他方へと還元されるのではなく、それらの両側面でみなぎっている(cf. 4.551)。

さらに、このパースの非還元主義によると、物理的過程と精神的過程はその論理的構造を異にするという。物理的過程は二項的(dyadic):(01, 02)であり、精神的過程は三項的(S, Oi, I)である。これらは相互に還元することはできないが、後者(知性)の法則は必然的に前者(神経系)と密接に関連があると考えられる。
(中略)
(2)情動的・活動的・論理的解釈項 第二の解釈項の3分法は、前述したパース独自の現象学(phaneroscopy)に基づき、記号の固有の意味作用の効果として解釈項を分類する。

(1) 情動的解釈項(Emotional Interpretant)とは、記号により作りだされる感じ(feeling:一次性)。 (2) 活動的解釈項(Energetic Interpretant)は肉体的あるいは心的な努力(effort;二次性)。 (3) 論理的解釈項(Logical Interpretant)は思考や心的な記号から習慣形成・変更である(habit change三次性)。

(中略)

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ パースの情報記号論:無意識過程における脳活動への脳-記号論的アプローチ

 

行動を決める「先天的な気質の差異(DND次元)」とは別に、身体化される次元の記憶は「身体の思考」に作用すると考えます。それをパースの概念でいえば、経験や学習等によって直接的解釈項の起動・力動的解釈項自体の確率が変化する、

つまり、無意識過程の脳活動のシステムも静的に固定化された決定論ではなく、さらに「意識的な力動的解釈項」も変化しうる。ゆえに行動は変えられる、自由意志はあるということです。

そして「認知行動療法の哲学」で指摘される「古代哲学が持ち合わせていた実践的性格」、ストア派的な「長期にわたる訓練」「頻繁に熟慮を繰り返すこと」などが、「無意識」のプロセスに作用しうるもので「身体の思考」に変化を与えると考察できます。

「知識」ではなく「それ自体を生きる」こと、そして「生き方それ自体が思想」という在り方によって「身体化されていく知」は、「宿命と自由」というゆらぎを生み出す。だから「宿命」は破れうるものでもある。

 

19世紀のフロイトより遙か前の5世紀に、無意識を瞑想によって発見した仏教の学派がある。唯識学派という学派だが、日本では奈良の興福寺、法隆寺、薬師寺、京都の清水寺を抱える法相宗がこの学派である。この学派は人々の経験は意識の奥底に蓄えられるが、ほとんどは意識されないまま蓄えられているとする。

このことを「 現行薫種子」と表現する。現行とは経験のことで、それ種子として香りが布地に染みこむように意識の深層部にため込められる。何かのきっかけで、無意識の記憶はよみがえって、認識や感情に影響を及ぼす。このことを「種子生現行」と表現している。 ⇒ 梅原猛と仏教思想 ―東洋思想の持つ意味―再訪

 

 

パースのプラグマティズムの記号論を継承したデンマークの分子生物学者ホフマイヤーはさらにそれを、「遺伝」や「進化」の力学も含めて発展的に考察しています。

DNAですら完全に固定されたものではなく、ゆらぎが生じるわけですが、ホフマイヤーの捉え方でいえば「遺伝・DNA」とは「記号論的な存続」であり、そして『自由の欠如としての「宿命」』の破れが「突然変異(記号論的な自由)」ということです。

ここで話が変わりますが、哲学の伝統的な問題の一つに心身問題(物質である脳・身体からどのように「心」が 生じるのか?)」がありますが、原初的な「心」の発生はホフマイヤーの生命記号論がひとつの解釈として挙げられます。

 

「プラグマティズムの記号論の発展―― パースからホフマイヤーへ ―」 より引用抜粋

(5)心身問題の記号論

精神と身体の問題、精神の活動がいかに体内の生化学的活動と結びついているかという問題を、ホフマイヤーは生命記号論の観点から論じている。脳内で生じる電気化学的現象さらには身体で起こる化学反応は記号過程により統御されている、というのがその要点である。
(中略)
体内の記号交換は「レセプター」(受容器)によりなされる。「レセプター」とは、本来、感覚器官に見られる神経末端を意味するが、今日では、分子レベルの現象に対しても使われるようになった。

つまり、生体の周囲あるいは細胞の周囲の環境からの信号を受け取り反応する「装置」であり、例えば、生体では皮膚、細胞では細胞膜がレセプターに該当する12。また、神経細胞と免疫系の細胞との間には、高いレベルのコミュニケーションが存在する。

ところが中枢神経系に特有であるとみなされてきた細胞表面のレセプターが、血流中を移動する免疫系の細胞表面にもあることが判明している。これらのレセプターは、中枢神経系で作られる「神経ペプチド」というホルモンを認識し反応する。

すなわち、「神経ペプチドとそのレセプターを介して、脳、分泌腺、免疫系は脳と身体とのコミュニケーションのネットワークに参加しており、おそらくこれが感情の生化学的基礎であろう」と考えられている。

こうした考えは、心と身体とを二つの別々の物とみなすのではなく、「心の身体=身体の心」という一つのダイナミックなシステムの存在を予感させるのに十分であろう。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ プラグマティズムの記号論の発展―― パースからホフマイヤーへ ―

 

「わかりやすさ」というのは認知コストにおける効率化で、そして最近は「効率化するのはよいこと」という流れで動いていますが、技術的なものを汎用化するなら合理的ですが、不合理なものや複雑なものを効率化しようとすると失われる質がある。これは「文化」も同様です。

ico05-005 文化とは不合理なものである ー 司馬遼太郎

司馬遼太郎さんの著書『アメリカ素描』で、「文明」の定義を「だれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」とし、文化の定義は「不合理なもの・特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの・他に及ぼしがたいもの・普遍的でないもの」としています。

そして「文明」は「多民族地帯」におこりやすいと捉えていて私も同様にそう考えているのですが、司馬遼太郎さんの考察の鋭いところは、

「アメリカとは文明だけでできあがっている社会」とし、同時に、人は文明だけでは生きれない複雑性を持っているから「個人」は不合理なもの = 文化 を求める、という「文明を追いかける国々」とは逆のベクトルを生きるアメリカの姿を観ていたこと。

現代でいえば「グローバル化」「多様性」とかそういう力学が働く社会では、文化よりも文明的なものが優位になる、ゆえに機能としての効率化・均一化が進み「文化」が貧しくなるともいえますが、この本は30年以上前に書かれた本なのに、すでにグローバル・スタンダードの問題を予見しているのです。

司馬遼太郎さんは色々と矛盾の多い人とも言われますが、まさに「不合理なものを内在化した世界」を多元的に捉えようとしたからこそでしょう。

本質的なものを見抜く直観力が凄いんですね。あと日本の仏教のありかたに対する批判や宗教に対する捉え方は納得できるものがあります。しかし司馬遼太郎さんとは異なる視点の梅原猛さんの仏教観というのも納得できます。

〇 司馬遼太郎の世相論 その「保守精神」の顕在化

グローバルな先進国において働く力学は、様々なものが多様な人が利用しやすくアクセスしやすい普遍的なもの、平準化された「わかりやすいもの」へと均一化されていきます。

ところが「非合理的なもの」「文化」は複雑性を有し「わかりにくいこと」それ自体が「厚み」であり意味・価値を宿しているのですが、グローバルな文明の圧はそれに対して否定的・対立的な作用として働きます。

理系知と人文知、文明と文化には質の差があって当然で、一方から見て一方が不十分だからといって全否定するようなものではないんですね。どちらもが必要です。

しかし右と左に分かれたイデオロギー運動は、時に人文知を、時に理系知を政治の道具にして対立構造を深め、「わかりにくいこと」を双方が単純化していきます。

そうやって世界はわかりやすい悪と善に分けられ、そしてお互いに「お前が悪だ」と言い合うだけになっていきます。「左」は「右の信仰」を「陰謀論」とよんだりもしますが、左もまた別の信仰で世界の厚みを見失っている点で同質なんですね。

 

「ジェスパー・ホフマイヤー 生命記号論  宇宙の意味と表象」 より引用抜粋

近代以降のわれわれ、もっとはっきりいえば欧米文明とともにつくられた「われわれ」は、実は本来の記号双対性を摩滅させたか、見失っているか、ないしはその再発見の感知力を失っている。
(中略)
 ホフマイヤーは3つの断絶がおこったからだと考えた。最大の断絶は「言語であらわすわれわれ」と「イメージにとどまっているわれわれ」とのあいだの断絶だ。ついで「社会に属するわれわれ=自己」と「個人に属するわれわれ=自己」が断絶された。地球と生命と社会に切断面は入れようにも入らなかったはずなのに、である。
(中略)
ホフマイヤーはこんなふうに反省している。また、大きな責任を感じているようだ。「西欧文明が世界をまちがった方向に導いたのは、支配ということに興味をもちすぎたからだろう」と。

 こんなふうにも書いている。「西欧が残りの世界を支配する、政府が社会を支配する、医者が患者を支配する、教師が生徒の学習を支配する、人間が自然を支配する、自然選択が進化を支配する、脳が肉体を支配する、DNAが胚発生を支配する。こんなふうに考えてしまうのは、つねに二元論が頑強になっていたからなのである」- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ジェスパー・ホフマイヤー 生命記号論  宇宙の意味と表象

 

人間は動物の一種です。しかし動物は動物として扱われ家畜として扱われても餌をあげて身体の欲求を満たしてあげれば特に抵抗することもなく従順ですが、人間の場合は動物であってもただの動物のように扱われることに抵抗します。そして動物は言葉では傷つかない。

それは人間には「記憶された意味世界」と感情が連動した「心」=「私」があるからであって、それはさまざまな喜怒哀楽の表現として現れる。「心なんてない、私なんてない」のであれば、言葉でどれだけ侮蔑されても傷つきの感情は発生しない。

文章それ自体には「笑い」の実体などどこにも存在してはいない。「ある言葉を聞いて笑う」「ある言葉を聞いて怒る」「ある言葉を聞いて悲しむ」という現象は、「言葉・文字のみ」では引き起こせない。

だからといって「意識のみ」があれば引き起こせるわけでもない。意味以前の生命現象だけを観ていても人間はわからない。

 

「プラグマティズムの記号論の発展―― パースからホフマイヤーへ ―」 より引用抜粋

「偶然論」は、自然法則の成立を説明するためには、非決定論的要素、自発的行為や純粋に偶然の要素が自然界に持ち込まれる必要がある、とする考え方である。ホフマイヤーがパースに共感するのは、まさにこの点においてである。

「この世界では、支配できないところにこそ自分の意志が可能となり、それゆえに、根本的に新しい何か、すなわち、本質的に予想できない何かを生み出すことができる、と考えられる。
(中略)
進化はよく「創発」という語で説明される。創発とは、個々の部分からは予想できない性質を持つ「実体」の創造を意味する。ところが、この「創発」という過程は物理数学的モデルでは合理的に説明できないという。

なぜなら、生命の営みを等式の両側に配置した量に置き換え、生命を数学的な法則や等式の中に閉じ込めるとき、そこには創発性が排除されてしまうからである。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ プラグマティズムの記号論の発展―― パースからホフマイヤーへ ―

 

心身~意味世界へ

「原始的心性」の次元はホフマイヤーの捉え方でも説明がつくといえますが、「生命記号圏」だけで「人間」は捉えられない。「生命記号圏」に加えて「文化記号圏」を設定したのがエルンスト・カッシーラー(ドイツの哲学者)です。⇒ ホフマイヤー生命記号論とカッシーラー文化記号論との対比が示す情報解釈の多様性(2010)

 

ico05-005 内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である ー カント

意味以前の生命それ自体を生きる「動物」には身体・自然界のシステムの先天的な有限性はあっても、法律や宗教のような構築された有限性は生じないし、文化や芸術も生まれない。歌や文学や漫画や映画や小説や他者の言葉で感動することもない。

意味世界を生きる「主観」と「感情」の大事さ、「人間らしさ」は科学的思考・客観性・理性だけでは永遠に触れられないものであり、「脳それ自体」には「人間」はいない。

「脳・身体」は意味以前に社会以前に存在する実体としての生命体だが、「人間」は後から構築された意味世界(虚)と共に在る二次的生命体だからである。「脳・身体・DNA」の内部をどれだけ探しても文化も法律も人間も存在しない。そこでは生命体(ホモ・サピエンス)がいるだけで、「人間」は見つからない。

進化心理学も同様に、ホモサピエンスについて本質主義的な理解はできるが、構築的な意味世界を生きる「人間」は理解できない。

認識論においてはふたつの危険がある。ひとつは,感性的経験のうちに,悟性のはたらきを入れ込んでしまうことによって,知覚を知性化してしまうことである。ここから,伝統的な主知主義が帰結する。もうひとつは,感性的経験の中性性,自立性を一面的に強調することによって,認識システムからまったく独立した所与としての感覚与件(センスデータ)を想定してしまうことである。

ここから,伝統的な経験主義が帰結する。カッシーラーは,カントの批判哲学は,この両者の限界を乗り越えるべく,両者のあいだの隘路をぬって歩みを進めているものと解釈する。E・カッシーラー『シンボル形式の哲学』第3巻「認識の現象学」における「シンボル」概念 : その現代的意義についての予備的考察

 

脳科学や身体医学や生命科学だけでは「人間」はわからない。「人間」は理系的な知だけでは理解できず、文系的な知(意味・価値)が必要。

「意味世界」と感情が連動した「心」=「私」は、観察されうる客観的な生命現象として捉えられるものではなく、「それ自体を生きるもの」の主観の中に生じる。実在として捉えられない「虚」ではあってもそれは第二の生命である。

あらゆる「価値」は虚の力学によって構築された非実在物であり、たとえば「人権」だろうと「憲法」だろうと科学的な実在ではなく、「虚」としての価値に支えられた構築物に過ぎない。しかし証明・実証が出来ない「虚」の基準を人は善悪の基準として現実に生きている。

「人文科学」という表現それ自体がパラドックスともいえます。「人文」とは脱魔術化できない質をもともと持っているからです。合理化できないものを「科学的」にしようとすれば逆に自らその質を切り落としてしまい貧弱化させる。

人文を科学的にしてしまってはもはや人文ではなくなる相殺の構造になっている。

人間の生はどこまでいっても「神学的なるもの」と切り離せない。根底において人間社会は「証明・実証が出来ない宗教的なるもの」を基盤にしている。

一般的に近代を脱魔術化した世界とはいいますが、しかしそもそも「言語」の本質はどこまでいっても魔術の質から脱することはできず、古代であれ現代であれ「人間意識は魔術的に生み出されている」ことの普遍性においては同じともいえる。

その意味において、「還元的自然主義」を否定する哲学者ジョン・マクダウェル「第二の自然」という概念も「人間」にとっては事実であるともいえますね。

だから「人文」の役割はなくならない。人間がみな野生動物に戻るか、生~死までの全過程を科学のみに完全に管理された家畜になれば人文系はいらなくなるだろう。

 

言語学」には音韻論(言語の構成要素である音声)意味論(記号が表す意味について) 語用論(言語表現とそれを用いる者や文脈との関係) 統語論(文法・形態論)などがありますが、

たとえば自閉症スペクトラム障害(ASD)においては「語用論の障害」が鍵徴候とされています。

以下の動画では「認知意味論」に従って「プロトタイプ」と「フレーム」という概念を使って「単語の意味」を分析しています。言語表現というのは「記号」の一種で、記号というのは形式と意味のペアです。