無形のウニオ・ミュスティカ
世界・自然界は大きな変化の時を迎えています。とても大きな今までにはなかった流れに向かっています。人によっては今の流れがとても苦しいものとして感じられるでしょう。しかしまだこの流れは始まりに過ぎないでしょう。
ごく一部の成功者や、仕事も生活も上手くいっている人々の陰で、疲れた心、荒んだ心、悲しみ、虚しさ、無力さ、これら「名もなき他者」の心の声を聴くことが増えた今日この頃です。
ではここでまず一曲紹介です♪
baobab + haruka nakamuraのコラボレーションアルバム「カナタ」より タイトル曲”カナタ“です。 ぼーーっと海や空を見ながら何も考えずに聴いていたい、そんな声のゆらぎがとても癒されます。MVは写真家の川内倫子さんが手掛けています。
「愛」という記号を使っても「身体」が異なればその「愛」は同じ愛でない。
「愛」だと思って、「愛ゆえに」「あなたのために」でそれをやってる(その人はそう思い込んでいる)ことの中に「愛」を感じず、むしろ逆に「私って自己中心的だなぁ」と自然にそう思う人の心に「愛」が宿っていることを感じることがある。
「愛あるゆえ」に自身のエゴが狡さが冷たさが逆にはっきり見えるのだろう。そしてそんな眼差しが内ではなく外をみれば、無意識に「他者」「世界」の複雑性を見ようとする、そこにモヤモヤした複雑な情動が生じてくる。
私たちは仏陀でも神でもないのだから、モヤモヤして当然で、「愛」の眼差しには明快な答えがない深さと奥行きがある。「語り」には戸惑いが生まれ、ポツりポツりと語るも、それは途切れ、たまに何も言えなくなり、沈黙が訪れる。
激しさはなく、過剰さもなく、目立たず、大きくもなく、美的でもなく、雑音にすぐかき消される。詩それ自体が空間を満たしているが、それ自体が「言葉」で語られることはない。愛とはそのようにひっそりと咲いている。
師は答えた、「マーガンディアよ。『教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、わたくしは説かない。『教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』、とも説かない。それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である)」
引用元⇒ スッタニパータ「マーガンディヤ」
140文字の論争に明け暮れる心、それもまた世情であろう。クソだのクズだの言い合いながら互いに「己と他者の価値」のアゲサゲ合戦&承認合戦。しかし「実存」はそこには咲かない(咲けない)。
842 『等しい』とか『すぐれている』とか、あるいは『劣(おと)っている』とか考える人、ーかれはその思いによって論争するであろう。しかしそれらの三種に関して動揺しない人、ーかれには『等しい』とか、『すぐれている』とか、(あるいは『劣っている』とか)いう思いは存在しない。引用元⇒ スッタニパータ「マーガンディヤ」
森羅万象に宿る何かにヌーメン的感情が沸き起こることがあります。ヌーメン的感情とは、人間が超自然的な存在や現象に触れたときに起こる感情のことです。「ヌミノース」ともいいます。
ヌーメンとは、ラテン語で「神威」や「神の意志」を意味する言葉で、神話や伝説に登場する神や精霊などを指します。
ヌーメン的感情について詳しく説明したのは、ドイツの神学者ルドルフ・オットーで、彼は『聖なるもの』という著作で、合理的な理解にかなう部分を除いた「聖なるもの」の概念をヌーメン的なものと呼びました。
ユングもまた「元型」へ触れることでヌミノースが生じること、そしてその作用は「言語」による記述では伝えられない質があるとしています。
「元型」という概念について考察すること、記述することは誰にでも出来ても、「元型に触れる」ということがなければけっしてわからないものがある。そして「元型的なるもの」はユングが分類したものだけではなく、とても多元的な領域です。
無意識の領域は「触れること」なしには「ない」とされるか、あるいは「ある」と「仮定」して考察たり「あると信じている」という信仰スタンスで言語化だけをしても、それは「わかからないまま」であり、「ない」と変わらない。
ヌミノースは目に見える対象に帰属しうる性質でもあれば、目に見えない何ものかの現前がもたらす影響でもあり、意識の特異な変容を引き起こす (ユング)
「言語的に理解するようなものではない」ものを言語的にとらえることで「それ自体を殺す」というのは、「ヌミノース」にしても同様で、「神は死んだ」という現象は「学者的な理解の仕方(主知主義的な作用)」とも関連している。
宗教の事は世のいわゆる学問知識と何ら交渉もない(西田 幾太郎)
たとえば、ニーチェは単純にルサンチマンとしてのキリスト教、というだけの宗教批判をしたわけではなく、「宗教自体が学者宗教に堕している」ことを批判しました。
そして「美的であるためには理知的でなければならない」という美的ソクラテス主義がそれをもたらしたと考察し、「宗教」や「芸術」が、理性や知性や論理、アポロン的なものに偏り、ディオニュソス的なものを「劣ったもの」として排除したことで、逆に人々は「生や苦悩や世界を肯定する力」を失ったと考えたのです。
近代の宗教自体が、その根底において学者宗教に堕し、したがってあらゆる宗教の必然的前提ともいうべき神話は、すでにいたるところで、半身不随にかかっている。このことは、ギリシア人の中で最も深く感じられたことであった。 なぜなら彼らは、神話を生み出す力を失ったことを自覚したからである。 ニーチェ『悲劇の誕生』
「アポロン的なるもの」は、理性、秩序、調和、美しさ等を表し、「ディオニュソス的なるもの」は、感情、本能、混沌、狂気等を表していますが、ニーチェは、「アポロン的なるもの=×、ディオニュソス的なるもの=〇」と言っているわけではありません。
「A対B」、「AかBかどっちがいいか」というような二項対立、二元論の文脈ではなく、「AとBのどちらもが働いていることでAとBのどちらもが生かされている」という相互依存の関係と、そのバランスが保たれることよって、AとBの融合したひとつの全体が生きている、ということです。
話を戻しますが、「ディオニュソス的な神話」が、ソクラテス以降の理性的思考によって破壊されたという力学は、「言語的に理解するようなものではない」ものを「言語的に理解しようとする(それしかできない)者」が「それ自体を殺す」にも通じます。
この力学と作用は「創造性」にも関連し、「それ自体を生きたままにしておく」というのはどういうことか?とも関連します。
「触れる」ことなしに「記述」する、言語的考察だけをする、そうすることによって彼らは「神話を生み出す力を失った」「自ら神を殺した」ということ。そしてそれは「魂の力」を失うことに繋がっているということ。
ウニオ・ミュスティカとは、神秘主義において、人間が神との完全な合一を体験することを表すラテン語の言葉です。ウニオ・ミュスティカは、神秘的合一や神的合一とも訳されます。
ウニオ・ミュスティカは、様々な宗教や文化において、異なる方法や表現で追求されてきました。
キリスト教では、ウニオ・ミュスティカは聖霊によって可能になるものです。聖霊によって、人間はイエス・キリストと一体化し、父なる神と親しく交わり、神の家族の一員となります。聖霊によって、人間は神の国の市民となり、神の栄光を分かち合います。
仏教では、仏陀の悟りや菩提心や般若などを通して、人間が仏性に目覚めることがウニオ・ミュスティカの目標とされました。また、仏教の禅宗では、坐禅や公案などを通して、人間が仏性と一体化することを直接的に示そうとしました。
ヒンドゥー教では、ブラフマンやアートマンなどを通して、人間が宇宙の根源的な真理に帰一することがウニオ・ミュスティカの究極とされました。また、ヒンドゥー教のバクティ運動では、クリシュナやシヴァなどの神々への献身的な愛や奉仕などを通して、人間が神々と一体化することを求めました。
ウニオ・ミュスティカは、「人間が自分自身や他者や世界や神とつながることができる最高の方法であり、人間の幸福や平和や道徳に貢献するものだ」と考えられてきましたが、
「自己超越」をもたらすヌーメン的感情とウニオ・ミュスティカは、必ずしも「宗教」を必要としません。今では死語となった「社会貢献」というのは、「(無形の)ウニオ・ミュスティカ」とも繋がっているんですね。
しかし「自己超越」ではなく「自己肥大」に向かうなら、それは最悪の場合はカルトやブラック企業のような姿になったりもします。カルト教祖に無私の帰依をしたり、ブラック企業で全人格労働することは「(無形の)ウニオ・ミュスティカ」ではありません。
「ウニオ・ミュスティカ」は「自己犠牲」ではありません。(まぁこのようなテーマは過去に様々な角度から書いているのでここでは詳しいことは省略します。)
そして「自己変容」をもたらすヌーメン的感情も必ずしも「宗教的な神秘」を必要としません。「自己変容」をもたらすヌーメン的感情は、人間の心の深層にある無意識という異質なものに接触することで生じます。
主知主義に偏りすぎると形式主義や合理主義に陥りやすくなり、人間の多面性や創造性を無視してしまう。だから『「反知性主義」とレッテルを張られた反動』が生じてくる。
それは全体性としてみれば、分裂した一方の側だけに偏り過ぎている状態から、バランスを取り戻そうとする運動に過ぎない。
しかし、無意識との予期せぬ出逢いが生じやすい状態を良しとせず、全てを理性と合理的な思考のコントロール下に置くよう教育化した去勢過剰社会では、ヌーメン的感情は生じにくい。それは非言語的で非合理的な無意識のゆらぎだからです。
現代社会の多くの領域において「魂」が不要になっているんですね。だから「魂」が揺さぶられる機会がなく無意識の活力は鈍麻化し、「個人の心理」の快と不快の表層のゆらぎを生きる「閉じた個人」が量産されていく。
「活力ある共同体」は何らかの無私なる働きが集まって生み出されるものだが、もはやそれが生じうる「無形のウニオ・ミュスティカ」に力はない。
魂なき現代社会は、自己超越も自己変容も生じにくいため、多くの人々は徐々に「ゆらぎの少ない管理しやすい家畜」となっていき、それらの「閉じた個人」らの快不快を基準に合理化された管理社会は、今後ますます強固になっていくことでしょう。
それは『「善きこと」とされた「暴力」』ゆえに無自覚に行われ際限なく進んでいくため、それへの「反動」はより凶暴・凶悪さを高めていくでしょう。『「善きこと」とされた「暴力」』と「反動的なるもの」というのは、真逆の姿をしているようで、実際には「双子の兄弟」なんですね。
このような流れの中、久しぶりにSalyu の歌「星のクズ α」を聴く。haruka nakamuraさんとコラボしていたんですね。やっぱりSalyuの声は落ち着く。haruka nakamuraさんとの相性も抜群。旋律、メロディもよくてお気に入りです♪
石川勇一さんの著書『修行の心理学―修験道、アマゾン・ネオ・シャーマニズム、そしてダンマへ』は、公認心理師である著者が、「自らの修行体験」をもとに、修行とは何か、どのように心に影響するのか、どのような意義があるのかを探求した一冊です。
著者は、修験道、ネオ・シャーマニズム、原始仏教等の修行体験を心理学的に分析し、修行が人の心に与える影響を整理します。修行は、自己認識や自己変容、自己超越の三つの段階を経ることで、人の心を変えていくと述べます。自己認識とは、自分の心の状態や問題点を客観的に知ることです。
まぁこのテーマは過去にいろいろな角度で書いてきたので、私にとっては古いテーマではありますが、今の時代があまりに合理的&唯物的過ぎるので、あえて逆方向へ振った記事を書いています。
修行における自己変容とは、自分の心の問題点を改善することです。そして自己超越とは、自分の心の枠組みや制約を超えること。著者は、修行が人にこれらの段階を通して心の成長や癒しをもたらすと結論づけます。
また、修行には様々な種類やレベルがあることを指摘し、それぞれに応じた修行法や指導者や環境が必要であることを強調します。修行は、個人の性格や嗜好や目的や能力に合わせて選択するべきであり、一概にどれが良いとは言えないと述べます。
しかし、どのような修行であっても、以下の四つの要素が重要であると主張します。一つ目は、自分の心に向き合う姿勢。二つ目は、異次元の世界にアクセスする方法。三つ目は、異次元の体験を理解し、日常生活に活かす知恵です。四つ目は、修行仲間や指導者などのサポートです。
この「異次元」というのは「無意識領域」ですね。
ところでニーチェは、アポロン的なるものとディオニュソス的なるものが、どちらか一方だけではどちらもがスポイルされてしまうと捉え、そうではなくその対立と融合を芸術の原理として捉えていましたが、
この捉え方は「自己統合」にもいえます。ディオニュソス的なるものが過度に抑圧される社会・環境において、硬直化した自己は、全体性としての存在から切り離され、魂の力をスポイルされてしまう。
「動的で調和的な自己統合」とは、アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの動的な調和にあるとも表現できます。
ではラストに、【LIVE】「nan dava」ミロコマチコ × haruka nakamura を紹介です。私の母は美術の人、老いて病んでなお作品を生み出している。周囲のプロの芸術家も同様に。「芸術について、作品について」云々の語りより、作品そのものに私は触れていたい。
ミロコマチコ × haruka nakamura、このライブペインティングは身体に強力に響いてくる。う~ん、魂の力あるなぁ~。
ミロコマチコとharuka nakamuraのライブペインティングは長年に渡り継続されている。福島では地元を代表する詩人・和合亮一を迎えた。初めて「言葉」がこの即興セッションに混ざる。 それは新たな化学反応を生んだ。音源はLIVEのラストシーンをノーカットで使用。