「愛」の多元性 

 

そもそも「愛とは何か?」すら絶対的な基準があるわけではないから、本当の愛は○○とか、○○は愛とはいえないとか、そういう基準自体、信仰告白のようなものでもあるけれど、

「○○は本当の愛ではない」とジャッジするには、「ほんとうの愛」を知ってなければできないが、あまりそれを突き詰めると何も語れなくなるので、何かの「前提」を切り口にして語らざるを得ない。

しかし「前提」は絶対基準ではないため、「前提」を変えて問いなおすということもできる。

たとえば「子への愛こそ絶対的な何かのように断定して語る人」は、少なくとも「並外れた執着の強さ」を自分の子供には向けてはいるのだろう。相対的なものとはいえ、その「前提」は確かに強固だから、確信的に断定的にそう言う(言えてしまう)のだろう。

しかし「愛」の捉え方を変えて逆説的にいうならば、もし仮に愛があるなら「その確信や断定が排除しているもの」を見る(見てしまう)だろう。「他者への愛」とはそういう陰陽、両義性の質を含み、ただ無条件に肯定される子供への愛と同質ではない。

 

ではここで一曲紹介♪ 前回の記事に続き、haruka nakamura さん。今回はピアノソロで即興演奏です。音の流れがなんとも心地よいです。

青森県立美術館 アレコホール 「ミナ ペルホネン/皆川明 つづく」展のフィナーレを彩る公演としてのピアノソロ。画家マルク・シャガールによるバレエ「アレコ」の舞台背景画4作品が展示されている。

 

古代ギリシャでは、愛には様々な種類や形があると考えられていました。その中でも、最も有名なのは、エロス、フィリア、アガペー、ストルゲーという4つの愛の概念で、これらの愛の概念は、聖書や哲学などにも影響を与えてきました。

エロスとは、情欲的な愛や恋愛のことで、ギリシャ神話の恋愛の神エロスに由来します。エロスは、相手に対する強い欲望や魅力を感じる愛で、情熱的で刺激的ですが、不安定で移り気な面もあります。

フィリアとは、深い友情や友愛のことで、ギリシャ語で「友人」を意味するフィロスに由来します。相手に対する信頼や尊敬を感じる愛で、忠実で安定していますが、自己犠牲や忍耐が必要な面もあります。

アガペーとは、無償の愛や神の愛のことで、ギリシャ語で「愛する」を意味するアガパオに由来します。相手に対する慈悲や思いやりを感じる愛で、無条件で寛容ですが、自己否定や依存に陥る危険もあります。

ストルゲーとは、家族愛や親子愛のことで、ギリシャ語で「抱きしめる」を意味するストルゴに由来します。相手に対する親近感や安心感を感じる愛で、自然で本能的ですが、束縛や執着になる可能性もあります。

このように、古代ギリシャでは、愛は多様で複雑な現象として理解されていました。しかし、それぞれの愛には長所と短所がありますし、一つの愛だけでは完全ではありません。人間はさまざまな人とさまざまな関係を築きながら、さまざまな愛を経験していくものだと思います。

これ以外にも、ルダス(遊びとゲームの愛)、プラグマ(永続的な愛)、フィラウティア(自己愛)、マニア(偏執的な愛)がありますが、原初的な思考の型として、近代社会にあるもの全ての元がギリシャにある、という感じです。

 

「子供への愛」をやたら絶対的なもののように語る人の言動を見聞きしたりすると、「身内以外の他者」にたいして、「(その人の言う)ほんとうの愛らしきもの」を感じることは少なかったり、むしろ「否定」「防衛」の方が強く現れていることも多く見受けられる。

「否定」「防衛」の境界内にとどまる人の「大人仕草」というのは、一見すると「落ち着いた保守的な感じ」をみせ、世間体としては格好はつく。その境界を守るなら、とりあえずカッコ悪い感じの逸脱は起きないからであるが、見方を変えればそれこそが一番カッコ悪く、失敗ともいえる。

また、「家族」への愛によってむしろ「境界」がより強固になっていて、遮断と排除を伴う特定他者への選択的な集中ゆえに、外部に対しては冷たさ、無自覚な攻撃性が増していることもある。

そのような親子の親密圏では、「悪」は常に「外」だけにあり、「外」にある「悪」なら遮断・排除も容赦なくできる。そういうものを「愛」だと互いに確信している姿は「無自覚な信仰者」の集まりともいえる。

歴史を見ていると昔から「家族と権力」は常に結びついている。「自分の子供」は特別であり、なかでも「カルト教祖の家族」とかを見ていると非常にわりやすい、教祖の妻や子供は必ず他の一般信者よりも上位存在として扱われ、身内を神としたりもする。

しかし権力構造が変わり、力関係が変わると一族丸ごと排除されたりもする。つまり「家族という単位」がそれだけ強力な繋がりであり、同時に「強力なエゴ集団」でもある両義性を持っているからそうなったのでしょう。

「親の子への愛」は生物学的な本能に由来する。その意味で「家族の幸せ・子孫の繁栄」とその守護に目的化された生物的な「普遍的なエゴ」の一種ともいえるでしょう。しかし生物学的な根源的な本能であるからこそ、大地に根差した並外れた強さがあるともいえる。

 

それに対して「赤の他人同士」の場合はそうはいかない。生き物としての情だけでは続かないことが多い。そもそも結ばれてはいない状態で出逢い、その後どうなるのかわからない状態で進んでいく。

そこには「性的なもの」「差異」「(その他の)条件」が含まれている。なぜその人を選んだか?「愛」があるなら「誰でもいい」はずない。では「現代の愛」とやらはどんなものだろうか?

 

ico05-005 ふつう恋愛対象は、自分と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。だから私は「お買い得商品」を探す。

ico05-005 ふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。

エーリッヒ・フロム「愛するということ」より

 

「存在の耐えられない軽さ」のような世界。フロムは「性的モノ化」なんてとっくの昔に見抜いていた。男女に拘わらず、多くの人々がそうしているでしょう。「婚活」やら「マッチングアプリ」なんてほぼそれって感じですね。

「私はそうではない」とか思っている人でも、ではなぜ相手が「同性」ではだめだったのか?それはその人の「性的なもの」がその選択のうちに含まれているから。

なぜ、デブスやチー牛ではだめなのか?「選んだもの」だけでなく「選ばなかったもの」にも「(その他の)条件」が自ずと含まれている。

「誰でもいい」ではないゆえに「特別な人」なのであり、「特」に「別」であるということ、つまり「その他大勢の他者」とは明確に分けられた他者、ということでもある。

「明確に分けられた他者」であるということは、その人にしかない何かがあり、「理由なく無条件に愛している」とかなんとか言ったところで、そこには「性的なもの」「差異」「(その他の)条件」が「前提」にある。

この種の「他者への愛」は「他者を選別するもの」であり、無条件、理由の不在はありえない。

 

全ての人を愛するには「誰も愛さない」ことによってしかなしえない、という矛盾が生じてくる。しかし仏陀は、条件をもつ「愛」や「執着」を超えている存在とされています。人間の愛の次元でいうなら、仏陀は「誰も愛さない」のです。

それは「どうでもいい」ということではなく、無条件の慈悲なんですね。「無条件に理由なく全ての人を愛する」なんていうことは、仏陀の次元でなければできないことなのでしょう。

 

アタッチメントスタイル

子供は「特殊な他者」であり、愛ある関係を結ぶ以前に絆が先にある。無条件で生き物的な情からスタートするため、「関係への自意識」、「関係を得ようとする欲求」が必要なく、すでに結ばれている。

この世に現れた時点ですでに目標が達成されてしまっている関係。だから無条件の情だけで関係は成立する。

とはいえ人間の子供は他の生き物とは比較にならない高度なコミュニケーションによって意思伝達し、徐々に自我を形成していくので、その過程で「親の人格」の影響を良くも悪くも受けることになる。

「親の愛」が社会的な文脈で相対化され問われるのはその過程に対してであり、

「親の人格」といわれるものは、もともとその親の有していた親自身のアタッチメントスタイルや気質などの生まれつきの性格要因と、親自身が受けた養育環境や社会的経験などの後天的な性格要因、これらの複合的な要因が親の人格形成に大きく関わる。

アタッチメントスタイルには、大きく分けて以下の4つのタイプがあります。

安定型自分に自信があり、他者を信頼しやすい。適切な距離感を保ちながら、安定した人間関係を築くことができる。

不安型:自分に自信がなく、他者に嫌われることを恐れる。依存的でベタベタした人間関係になりやすい。否定的な感情に敏感で気分の浮き沈みが激しい。

回避型:他者と深く関わることが苦手で、自立的で冷たい態度をとる。人間関係を面倒くさいと感じやすく、自分の悩みを相談しない。

恐れ型:不安型と回避型の特徴を併せ持つ。他者との親密さを求めつつも、拒絶されることを恐れて距離を置く。自分や他者に対して否定的で不信感が強い。

 

アタッチメントスタイルは、固定的なものではなく、環境や経験によって変化する可能性があります。また、異なるアタッチメントスタイルの人同士でも、コミュニケーションや理解を深めることで、良好な人間関係を築くことができます。

安定型」の人を観察していると、断定的な語りをあまりしない。そういう人は言動が極端にならず目立たないので、良い意味で「不可視化されているサイレントな人たち」ともいえる。

フィリア(友情・友愛)における「他者への愛の形」となるアタッチメントスタイルをしっかり持っているのは、「不可視化されているサイレントな人たち」だったりするが、これは「アポロン的なるもの」の作用が優位ともいえるでしょう。「過剰さ」が抑えられている。

それとは異なり、エロス(情欲的な愛・恋愛)における「他者への愛」には「ディオニュソス的なるもの」が優位に作用しています。不安定な対象である「他者」に恋するとき、あの熱に浮かれたような変性意識状態が生じるが、「情熱」とは可能性へ向かう衝動でしょう。

「愛」が身内以外の外部の他者に深く接続されるには、「赤の他人」との融合的な体験が必要になる。そのためには「境界」を突破していく力が必要になるから「過剰」になる。

もうかなり古いテーマで過去にも書いていますが、フロイトの「愛」の発展の仕方で「自体愛 ⇒ 自己愛 ⇒ 対象愛」という流れがありますが、フィリア(友情・友愛)やエロス(情欲的な愛・恋愛)にしてもそれは「対象愛」ではあるが、その愛の質は異なります。

ディオニュソス的なるもの」はある種の狂気。しかし「ディオニュソス的なるもの」なくして「アポロン的なるもの」も生きてこないのです。

ico05-005 愛するということは、何の保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望を信じ、自身をゆだねることである。 エーリッヒ・フロム「愛するということ」

フロム先生はこのように語るがしかし、現実とはなんとも理不尽で狂った世界である。

 

 

この上のツィートにこのようなコメントがついていました、『自分を卑下 →自分に自信を持て!と言われる 自分に自信を持つ →身の程を弁えろ!と言われる どうすればいいんだ?』という内容ですが、

まさにこういうことが起きるわけです。「こんな世界は狂っている!」と思うこともあるでしょう、まさにその通りで、この世界は狂ってもいるわけです。

 

「健全な自己愛と病的なナルシシズムの見分け方は?」 より引用抜粋

病的なナルシシズムに陥った人は、相手が自分の尊大な自意識を肯定してくれるかどうかで関わる相手を選びます。そして、その肯定感を得ることがナルシシストの人間関係の原動力となるため、ナルシシストは一般的に相手には興味がありません。

そのような人間関係についてIlkmen氏は、「ナルシシストを引きつけるのは相手の特徴でもなければ、関係から生まれるつながりでもありません。相手が評判のいいステータスを持っていて、その人が魅力的だと感じれば関係を深めようと突き進みます。しかし、残念ながらナルシシストの相手に対する関心は表面的なので、突然関心を失ってしまうことがあります」と説明しました。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 健全な自己愛と病的なナルシシズムの見分け方は?

 

このような「狂い」に遭遇したときの「どうにもならなさ」というのは、「アポロン的なるもの」では解決できなんですね。「ディオニュソス的なるもの」で突破していく。「狂い」には狂気で応答しつつ超えてゆく。

「狂い」に対して「真面目さ」で応答していくと、それが限界点を超えたとき燃え尽きてしまうんです。そして「正気」が燃え尽きてしまうと「狂気だけ」しか残らない。そうやって真面目な人は発狂し自滅していきます。純真で真面目な人ほど狂った環境下では壊れやすいのです。

だが断る!」「でも、そんなの関係ねぇ! はい、おっぱっぴー!」のモード。しかし、常にそれだけだとそれはそれで脱線していくので、「アポロン的なるもの」も同時に働いてる必要がある。この動的なバランスの中で「信念」をもって進んでいく。

ico05-005 愛とは信念の行為であり、信念を持たない人は愛することもできない。 エーリッヒ・フロム「愛するということ」

「自己愛」という言葉にはネガティブなイメージがありますが、それは自分を過大評価したり他人を見下したりするような偽りの自己愛のことです。フィラウティア(自己愛)とは、自分を正しく認識し受け入れることであり、自分の価値や幸せを大切にすること。

「衣食足りて礼節を知る」もそうですが、自分を愛することができれば、他人を尊重し理解しようとする余裕が生まれやすくなり、余裕があるほうが他人からも愛されやすくなります。

もちろん、人は愛について学ぶことはできるので、自分を愛せなくても他者に親切に応答することは出来ます。ただ、「意識して頑張っている状態」には余裕がない。安定感が乏しいので、長続きしなかったり何かの拍子に壊れやすいということ。

そして自分を粗末に扱い適切に労わることが出来ず、その状態で他者に奉仕し、理念・理想ばかりを追いかけ続けていると壊れてしまう。たとえば、カルト教祖だけでなく「カルト宗教に取り込まれる人々」の中にも「自分自身が愛せない人」がいます。

自己愛性人格障害って、「ただ自分で在ること」を愛せない人なんですね。「中心」が空虚・虚無だから肥大する。「自分が嫌いでそこから逃げている人」ともいえますね。自分の不安や劣等感を隠すために他者からの賞賛や特別扱いを求め続ける。

よって「自己愛」は「他者愛」のベースだと言えるでしょう。

これらのことが統合され調和した状態が「成熟した愛」。それを表すフロムの有名な言葉に、『未熟な愛は言う、「愛してるよ、君が必要だから」と。成熟した愛は言う、「君が必要だよ、愛してるから」と。』がありますが、

「必要だから愛しているのではなく、愛しているから必要」というのが「成熟した愛」というのは、「現実的で合理的な人」とっては何かロマンチックな浮ついている感じに思えるかもしれませんが、

『合理的に考えて必要で役に立つ「お買い得商品」を選別する他者への愛の形』のほうが未熟、というところがフロムの深いところでしょう。そしてこのような「成熟した愛」は人間に最初からあるものではない、とフロムは語りますが、このあたりはコフートの「健全な自己愛」にも通じますね。