カリスマ自由人と命軽き者たち

カリスマ自由人みたいな人たちが、「勤め人なんて会社なんてさっさとやめて自由に生きろ」的なことを語ることがありますが、その手の言説にも多元性があるため、全てを否定・肯定するわけではないのですが、

カリスマ自由人の言説の傾向は、己の自由が他者の不自由に支えられていることに無自覚というところですね。まぁその手の考え方は、ネオリベとアナーキストのいいとこどりみたい思考もそうですが。

この手の思考が生じる背景には現代社会の問題も関係しているでしょう。例えば、労働環境の悪化や不安定化、仕事への満足度の低下、自己実現の欲求などが挙げられます。

しかし、「自由な生の全肯定と不自由な生の全否定」の二元論は、「勤め人」や「会社」が提供する社会的なインフラやサービスに依存しながらそれらを否定するという矛盾と、「支えているもの」に対する軽視を含んでいることが多いです。

「自由に生きてる俺スゲー、俺は自立している!」という思い込みは、「世界は他者の仕事で支えられている」ことを忘れた人なんですね。みながそれぞれにある程度の不自由さを生きることで、人の生は互いに支えられている。

これは「多様性」も同じ。みながそれぞれにある程度の不快さを許容することで、自分も許容される。よって「不快ゼロ、不自由ゼロ」という在り方は、「自分とは少しでも違和感のある異質な他者」を日常から排除しただけの「愛なき生」の結果に過ぎない。

「愛なき生」の免罪として他者へ気前よく奉仕する者を、「愛ある者」と勘違いする人も多いが、「愛の働き」は自らを不自由さにおき、不快さを排除せずに生きる身体そのものの奉仕にある。

不快なもの嫌なものを全排除して自由で気楽な人が元気なのは当然。

しかし、命の軽さに泣き言すらいわず、疲れた顔でたまに見せる深みのある笑顔は美しい。自己肥大化した「星もどき」がたくさん輝いている時代だから、地上を支えている「地上の星」は以前より見えにくくなった。

「上」ばかり見ている人は、カリスマ自由人が救いであり星の輝きに見えてしまうだろう。しかし、「何でも思い通りで笑いが止まらん」のあの軽い笑顔にはまるで美しさがない。

 

 

 

アナーキスト的なるもの

国というものがあって、生活インフラ、交通インフラ、エネルギーインフラ、空間インフラ等を支える仕事、様々な会社に勤める人々の働きが土台にあって、その上に様々な有形無形の必要な働きがあって、そうやって相互依存的に「場」が支えられ維持されている。

「そこから離れる自由」は「そこ」に支えられている。

 

 

「勤め人なんて会社なんてさっさとやめて自由に生きろ」という人の生は、「不自由を生きている人々の働き」が前提にあって成立し支えられているが、アナーキスト的なる思考はそういうものを「害悪」のようにして語りながら、「己が害悪と呼ぶもの」に支えられた上での「自由」を生きていることに無自覚。

「命が軽く扱われている勤め人なんてやめろ」ではなく「命が軽く扱われている状況を何とかしろ」であり、それは非常に面倒くさく大変なことだから、いちばん楽な自由人となり「こっち、あっち、そっちにいけばいいんだよ」という安易な解決法しか提示できなくなる。

「誰かがその仕事をやっているから自分がやらなくていい」、「その仕事は必要だから需要があるから存在している」のだから、その仕事に対して、そこで働く人に対して、「そんな仕事なんて○○してしまえ」では何も解決しない。

こっち、あっち、そっち、どこに逃げようが、「場」が成立しているのは、その土台を支えている不自由な人々の働きである。

「誰かにそれを押し付けてそこを離れた人」が楽になったというだけ。だから『「そんな仕事」といわれている状況』を変えることにエネルギーを向けつつ、「そんな仕事といわれている環境で働く人」をエンパワーメントすることが大事。

そこから離れて自由に生きている(と思っている人)は、不自由な人々に支えられて生きているのだから、ことさら称える必要はなく、「自由でいいですね~」くらいでちょうどいい。

自由で楽しく生きているならもうそれで十分な報酬を受けているでしょう。人よりも稼いでるなら尚更。

むしろ命が軽く扱われているにも拘わらず、まだバランスを失っていない勤め人の働きこそ「どうでもよくない」ものなんですね。「狂気」も「正気」に支えられている。「逸脱」も「健全な働き」に支えられている。

だから土台となるそれが壊れてしまわないよう、それらの人々の環境を整えていくことが大事。

「誰からもカッコいいとも素敵とも言われず、カリスマ自由人たちからダサいといわれる地味な働き」、全くオシャレではないものを応援する人で私はありたい。

コミューンのような小さな単位でしか成立が難しい理想を、一億人以上の個人が暮らす国、あるいは数十億人が生きる世界に投影するだけなら、それも「理想の暴力」と変わらない。

「世界がもし100人の村だったら」という視点から見えるものも確かにありますが、100人の個人の生は一億の個人の生と同じではない。それはあくまで「類型」における考察であり、一億いれば一億の多様な生があり、遥かに複雑な社会を形成するため、それを支える構造も複雑化する。

 

以下、「第3節 社会インフラの維持管理をめぐる状況」を参考に

インフラの維持管理には多額の費用がかかります。国土交通省の調査によると、現在の技術や仕組みを前提とすれば、2013年度に3.6兆円あった維持管理・更新費が、10年後は約4.3~5.1兆円、20年後は約4.6~5.5兆円程度になると推定されています。

このような費用をどのように調達するかが大きな問題です。国という枠組みがなければ、税金や公債などの徴収や発行が困難になる可能性があります。

その場合、インフラの利用者から直接料金を徴収することや、民間企業やNPOなどに委託することなどが考えられますが、それらにはそれぞれメリットとデメリットがあります。例えば、料金徴収では利用者の負担が増えることや、公平性や透明性が確保できるかどうかが問題になります。

委託では、品質や安全性を担保するための契約や監督が必要になりますし、委託先の選定や評価も重要です。

次に、インフラの維持管理には高度な技術力やノウハウが必要です。社会インフラは多種多様であり、それぞれに特有の特性や課題があります。

例えば、道路の維持管理には舗装の点検や補修・修繕だけでなく、街灯やカーブミラーといった道路施設の点検及び補修・修繕、街路樹や植え込みの除草・消毒・剪定、公衆トイレの清掃、歩道橋にエレベーターが設置されていればその管理等、多岐に及ぶ業務が含まれています。

また、供用中のインフラについて実施されることが多いため、作業時間や作業環境に制約がある場合も多くあります。このような維持管理業務を行うためには、土木工学や電気工学などの専門知識や技能を持った技術者が必要です。

しかし、地方公共団体では技術的ノウハウを持った職員が限られており、近年は緊縮財政や行政改革の中で土木関係職員数も減少しています。国という枠組みがなければ、技術者の確保・育成・配置・移動などがさらに困難になる可能性があります。