有限性を生きる「性」と「私」の救いと罪
SNSでは、「性」に関連する話が溢れかえっている。今日も明日も延々と性、性、性、性、人間はあまりにも性的。やはりフロイトは正しかったといえるでしょう。
まぁとはいってもフロイトの全てを肯定しているわけではなく、令和になっても人間は変わらず「性」に囚われている、その意味で「性」は人間の本質的な力学であるということですね。
「生命の誕生」は「性」の力学なしにはあり得ず、万物の生成消滅は、陰と陽の二つの性質の差の対立の力学が在り、陽だけでも陰だけでも成立しない。本質主義的な「生き物としての男女」もまた陰陽の力学で、それを解体した先には「滅亡」が待っています。
『「身体」を忘れた「私」の理想』は、万物の生成消滅の理(有限性の循環)を忘れた無限性(再生なき死)に分解されていく。
ところで、キリスト教も「性的」です。「聖なるもの」も「性なる者」から逃れられない、聖職もまた生殖の理から逃れられないのです。
「性」を軽く観ているから「性」に飲み込まれる。「性」の力学は宗教や芸術より歴史が遥かに古く、根源的な力学のひとつであり、「性的なもの」を完全に抑え込もうなどと考えないことです。
「ヒトの身体」は遥か昔から存在し、今、「無意識」として実の領域を生きている。それは「私」に簡単にどうこうできるような生半可なものではないのです。
フランスで21万人以上の未成年者が「聖職者」の餌食になった、という記事を以下に紹介していますが、これも「性」の力学を知らないゆえの結果といえます。膨大な数の未成年者に深刻な心の傷を与えているようでは、人の心を救うとか何とかいっても説得力ないでしょう。
聖職者からの性暴力を受けた男性が、その後に自身の弟を性虐待したというショッキングな例もある。自身が所属するコミュニティが絶対的な存在として信頼する聖職者たちから受けた性暴力は、被害者の心に甚大な傷を残すのだ。被害者のなかには、信仰心を失うだけでなく、何十年にもわたってトラウマを抱え、自殺をした人もいる。
⇒ https://bunshun.jp/articles/-/53457
「神」への信仰が「私」を鬼や悪魔に変える両義性を観ること、そこに神性が宿る。
「口だけでない事を口だけで証明する」のなら、神学者や聖職者よりもラッパーたちのコトバの方が説得力ありますね。以下に紹介の動画は「ID.vs.輪入道.凱旋MC battle Specialアリーナノ陣2021」です。両者とも切れ味抜群、お気に入りのバトルです♪
ID 『紙食わなきゃ何もできない馬鹿共に教えられた 神はいない 俺の人生 俺が振るう 俺のフルパワーをぶち込む 土手腹 多分昔だったら勝てなかった アンバランスな人生に感謝』
輪入道『どうせ叩き上げだ ブン曲がってなかったら真実にたどり着けつけねぇ奴の言葉なんて信じるな 神はいるんだ どこにいるか教えてやる ここ(ID の胸を突く)にいるんだよ』
『敵味方関係なく俺は愛する 覚えてろ これが本物のバイブス』
先日、テレビで「ショーシャンクの空に」が放送されていていました。もう何度となく放送され沢山観た映画のひとつなので内容はよくわかっているのですが、やっぱり最後まで観てしまう。
刑務所の所長「ノートン」は、新入りの囚人たちに向かってこう語る。「私は2つのものを信じている。規律と聖書だ。ここでは両方が君たちに与えられる」と。
しかし「規律」というのは一体誰のためのものだったか?
「ノートン」はアンディに聖書を渡すときこう語る「救いはこの中に在る」と。皮肉にも聖書をくり抜いてその中に隠したロックハンマーが彼の救いとなった。
生真面目な銀行員だった彼の創造性はむしろ刑務所の中で「規範から外れる」ことで開花する。希望を失ったレッドとは全く逆に。アンディは諦めることなく現実を分析し続け、道具を使い、地道な努力と試行錯誤で地獄から抜け出す。
アンディはレッドに言う「単純な選択だ。必死に生きるか、必死に死ぬかだ」と。自由を勝ち取ったアンディの手紙には「レッド、希望は良いものだ。多分最高のものだ。素晴らしいものは決して滅びない」と書かれていた。
情動・共感商法
「性」に関する運動が、かつては自由・解放に向かう運動であったのに対して、最近は抑制の方向性、禁止令の増大にむかっています。
左の運動もグローバル資本主義に絡めとられた共犯関係であり、運動自体が資本を生む構造になっているため、需要と共有、顧客のニーズに合わせたセールスコピーライティングとしての「情動を揺さぶる概念」の創出に明け暮れ、
情動マーケットの商品開発と「共感」による顧客の新規獲得のための営業能力に優れた巧妙な売り手もいれば、飛び込み営業で強引な顧客獲得をする者もいる。
情動マーケットでも宗教型⇒カルト型⇒オンラインサロン型と、顧客獲得方法は変化してきたが、いずれも賞味期限は短いところが現代の特徴である。急激に満ち潮に向かうが、引き潮に反転するサイクルも早い。
「共感疲れ」を起こした顧客離れと、「情動・共感商法」に対する冷笑の増大、批判的な口コミの増大よって、情動マーケットのブランディング化は難しくなり、より強い権威を利用したり、より過激なキャッチコピーを使ったりと、やり方がえげつなくなっているが、
「傷つき商品」が市場に溢れすぎたため、「私の傷つき」はどんどんデフレ化が進んでいる。もはや「傷つき100円均一」として薄利多売で叩き売られている。そのうちだれも買わなくなるかもしれない。
大人になると有限性に閉じ保守的になるのは、「生き物として弱ってくるから」、そして「ライフステージの質が変化するから」ともいえるでしょう。
これは単純に「政治的正しさが右側」という意味ではなく、「保守的なもの」≒「加齢による有限性の強まり」「ライフステージの質」という力学で観た場合、それは「右であれ左であれ作用しているもの」ということですね。
1960年の「日本の全人口の平均年齢」は何と「約29歳」、若い! 民衆が若いからこそ活気、パワーがあったが、同時に揺らぎも大きいので脱線もしやすく、運動・逸脱性も過剰だった。
1980年もまだ「約34歳」で、そこそこ若いし元気一杯、暴走族もまだ元気一杯だった頃ですね。カルト宗教もこの辺りに集中して出来たのも(他の複合的な背景もありますが)ひとつは「若さゆえ」ともいえます。
ところが2008年時点では「約44歳」になる。もう有限性を自覚し始め、羽目を外したり逸脱する余剰のパワーも少ない年ごろです。 そして2020年、遂に50歳に届きつつある。もはや未来の可能性に己を賭けるような年齢でもない。 参考 ⇒ 第1節 大きな変化の中にある日本
つまり「思想」や「可能性へ向かう力」も加齢で変化するという、何だかんだいって所詮「ニンゲンだもの~」案件なんです。「平均年齢50歳」の日本社会、もはや生き物としての若々しさ、過剰さを失って腰も重くなり保守化していく一方。
「グローバル資本主義の力学に右も左も絡めとられていく」という力学だけでなく、かつて若者が多く全人口の平均年齢も若かった時代、左の運動は自由、無限性へと向かう力が強かったのは生き物としての過剰さ・パワーがその集団に優位だったからで、
その過剰なパワーを「秩序を守ろうとする抑圧的な保守的な力学」が抑えることで、「自由と秩序のバランス」をとっていたのに対し、
世界はどんどん高齢社会へ向かい、その中でも日本は世界トップの高齢社会であり、無限へと向かう過剰性よりも有限性の力学がますます強まり、左の運動もマクロな規模で変化し、
「何が重要か」の優先順位のウエイトが変化したことによって、「抑圧的」な保守的な力学に変質していった、ということですね。
再び「性」に戻りますが、医学がどれだけ進歩しようとも、そもそも「身体」はニンゲンが造ったものではなく自然界が生み出したもの。医者が造ったわけでも科学者が造ったわけでもない。
身体は現代社会以前から常に変わらずに在り続ける主体(実)ゆえ、「後から構築されたものに過ぎないニンゲン意識」にそのあり方の是非の全てを決定できるようなものではなく、
そして自然界が生み出した「身体」の元々持っている能力のひとつに「性的能力」があるのであって、「人間が性的で在ること」は社会が構築したのではなく、自然界が物凄い時間をかけて創造したんですね。
その製造責任及び「人間が性的で在ること」を「私」に負わせることはあまりに不条理です。文句があるなら「自然界」に言ってください。DNAやホルモンの影響まで意識化してコントロールすることは「私」には出来ません。
「身体が無意識にそうする」ことを「私」は身体に遅れて後から知覚することしかできないのです。「身体の意志」より先に「私」が動くことは出来ない、意志決定の構造はそうなっています。
そして「神」と「私」、地獄と天国のループを終わらせるもの、それが仏の教え。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。そうすれば死を乗り超えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、〈死の王〉は見ることがない。『ブッダのことば』