疎外の化身

 

今回は「疎外」をテーマに考察しています。

 

このブログは「差別の心が無く、誰も傷つけたことがない人だけ」が読んでください。(皮肉)

 

ちょっと前にネットの一部で話題になった「中村キースヘリング美術館の注意書き」ですが、ニルヴァーナのカートコバーンも似たような発言したのを記憶しています。キースヘリング美術館の方が表現がキツい感じでしたが。

 

返しとして「上手い」と感じたツィートを紹介します。

 

 

話は変わりますが、以下に紹介の動画もそうですがデビットボウイの先見性は凄いですね。カートコバーンもロック界のイノベーターの一人ですが、感性の質は異なる二人です。カートコバーンの原動力はシンプルに「疎外への感受性」ですね。

「まだ明確になっていない段階の時代の変化の兆し」を感じ取る力、通常の人よりも十年先の未来を捉えているような感覚、通常の人が見逃すものを感じ取る感性が凄いんです。

 

 

 

 

 

もし聖書や仏典の「まえがき」に、「この聖書はいい人だけが読んでください、悪人は読まないでください」「この仏典は心が綺麗な人だけ読んでください、煩悩まみれの人は読まないでください」とか書いてあったらどうでしょう?

なんて力のない愛のない不寛容な宗教だろう、と思うことでしょう。「人を救う教え」であるのであれば、この世で最も救いがたい悪人や愚か者にも開かれているべきでしょう。

あるいは、「この学問は馬鹿以外の人だけが学んでください」とか書いてあったらどうでしょう。無知な人や知に偏りがある人が少しでも知を深め広げていくのが学問でしょう。

「いい人しか観ちゃいけない、聴いちゃいけない、来ちゃいけない芸術」ってなんですか?

 

結局、今の欧米(日本もそうですが)のアーティスト・芸術家とか文化人等を観ていればよくわかりますが、左翼的な思考の型の人が多く、社会運動と結びつきやすいんですね。まぁたまに保守の人もいますが。

どちらにせよ、「右とか左とかの運動と創造性それ自体は異なる」ということ。『「私」以前にあるもの』である創造性の文脈に『「私」の政治』を持ち込むとき、それは既に『別の運動(「私」の価値基準に基ずく正しさ)』に変質している。

「別の運動」は何らかの社会的価値や政治的正しさに基づいた目的と方向性のある「二項対立的な運動」ですが、それは創造性そのものとは異なるということですね。

アート作品の鑑賞は、○○が良いとか○○が悪いとかそういう社会的・政治的な価値判断は不要です。誰もが入ってOKです。そして多様な他者の生にただ触れる。

「触れること」を通して何かが変容していく、それが芸術の持つ力の質。「入り口」で人を「正しさ」で振り分けたり「内心へ干渉する」なんていうのは創造性そのものとは無関係の別の運動ということです。

ただ、社会の文脈では評価(良い悪い、優れている劣っている等の価値判断)」が生じるため、「別の運動」も何らかの社会的価値を持つ。

それが時代のニーズと合えば多くの人に共感され人気が出て売れたりして、高い社会的評価を得て権威ある賞とかもらったりして「私」の承認欲求を満たすわけですが、

優れた評価と承認を得た「私」が大きな社会的影響力を持つ=「出世する」ことで、それを羨望する後続のアーティストも「承認」と「出世」を求めて活動自体がプロパガンダ的なプラクシスとして量産される。(これは文化人らも同様)

しかしデビットボウイの予見通り、彼等・彼女たちの社会的影響力はかつてのような絶対的、圧倒的なレベルではなく、『相対的なひとつの「私」のプラクシス』になったわけですが..。

 

私はカフカを「疎外の化身」と感じます。カートコバーンのような「疎外への感受性」というよりも、「疎外それ自体を生きている詩」。

ここでカフカの「道理の前で」という短編小説を紹介します。以下のリンク先にて読めます。(読むのに10分かからない非常に短い小説です。)

「道理の門」は多元的な解釈が生まれる小説です。「門」はあちこちに見えない形で存在しています。そしてこの種の「掟」は『それに囚われた「私」』にだけに作用します。

 

道理の前で

 

別の言い方でいうなら「道理の門」は『「心」と「身体」が分離している人』に強く作用するんですね。またそういう性質が強く作用する集団内においては、常に存在は根源的に「疎外」されているのです。

「門番」に「あなたは通って良い」と承認されようとする「私」。この時、「私」は既に「掟」を内面化しており、内面化した「掟」に阻まれているのですが、「私」には「門番」や「掟」に実体があるかのように感じられていて、

「私」をジャッジするのは「門番」であると錯覚する。しかし「掟」には実体はない。それは「私の心」が囚われることで生み出した「虚」であり、「私と結びついて在る」ため「私」には通り抜けられない。

「門」をひとつを通り抜けても心の囚われはますます強化され、「私」をより強固に支配する。

「私」は「道理そのものの体現者としての善人」になれない。何故なら「道理そのものの体現者としての善人」など存在しない(できない)。「私」は最初から永遠に実体を持たないから「実体としての何か」に成れない。

そして「無心」は『「私」の「掟の門」』を通らない。ただ無心に動く身体(実)には「門番(虚)」など見えない(存在しない)。

 

立ち留まること―カフカの「門」

 

少し視点が変わりますが、「」というのは、概念に囚われた「私」にだけ作用する。「身体」には作用しない。動物や機械には「門」の作用は働かないように。

無心」というものは「私」を「虚」に放棄することではないんですね。「身心一如」の状態、「実」と「虚」の合一、「主客合一」の状態です。

西洋思想のミームは、元々二項対立的な分離的なロゴス的知性の作用が強く、だからデリダのような二項対立の脱構築の過程や、自己相対化が必要になったともいえるのですが、

東洋思想には非ロゴス的知性、非言語的な直接知覚、「身体の思考(身体性)」によって、そのものに触れていく過程があるんですね。

「私」が触れるのではなく、「門」を通った者が触れるのでもなく、ロゴス的知性が生み出した観念・概念体系のフレームで「私」が思考するのではなく、逆にそれを脱同一化する。これは脱構築とも自己相対化とも違うものです。

 

疎外の化身

「ある集団からの疎外」といわれるものは、「ある集団の掟」と同化出来なかった者に訪れます。その集団が『「神の掟」に従うことをもってして人間であることを認める集団』であるならば、

「その集団が神の掟とするものに従わない者」は「人間であること」から疎外される。(キリスト教が世界規模でそうしてきたように。)

そしてカフカは比喩的な表現を用いてもっと普遍的な「疎外」を描写しています。

カフカの作品にみられる「正体不明の何か」は薄気味悪いほどに生を支配していて、それに全くなすすべもない疎外された人間存在の無力さとゾッとする悲劇的な在り方が、どこか馬鹿々々しい喜劇のようにも描かれています。

カフカを支配した「正体不明の何か」は「掴みようがない非実体(虚)」で、それゆえにどうにもならない絶望が生じる、同時に「存在しないものが実体であるかのように囚われる人間の滑稽さ」も生じる、その両義性が描かれているからともいえますね。

最近の先鋭化した「ある集団の正義」による社会運動やポリコレ等の文脈において、「それに従わないこと」が「人間であること」から疎外され、社会からキャンセルされる傾向性というのは、

これは「資本主義における人間疎外」とは質が異なり、「カフカの実存が触れた疎外」にも通じる、『「虚」に支配された「私」による存在の疎外』ともいえます。

ジョニー・デップ、キャンセルカルチャーは「いまや誰も安全ではない」

「私」は「善人という実体」にも「悪人という実体」のどちらにもなれない「虚」である。しかしロゴス的知性は概念的分割と二項対立によって存在をどちらかに分け、それをあたかも実体であるかのように概念に存在を閉じ込める。

本当は「概念に存在を閉じ込めることはできない」が、「私」は概念に閉じている思考運動であるため、「私」は概念でしか対象が観れないゆえに存在・現象を概念で思考する。

そして価値概念は対立概念を生み出すので、そもそも二項対立的なもので構成されている。「より優れたもの」、「劣ったもの」に存在・対象を分け、ラベリングする。

「悪」の実体とされた「私」は「罪人」とされ、そして罪人には裁きが実行される。善悪の概念によって概念的分割された存在は、その二項対立の思考が「私」に向かえば「自責」となり、他者に向かえば「他責」へと向かう。

価値概念による二項対立を強化するロゴス的知性は自ずからそうなる構造を持っていて、言語的なものが優位になる「他者」との関係性は(例:SNS)は、そういう傾向性を強めやすい。

ポリコレの過激化はSNSと密接に関わっているのは、それが価値概念による二項対立を強化するロゴス的知性であり、SNS(主にツィッター)は言語主体のコミュニケーションで、価値の二項対立が「共感」と結びつくことで感情を揺さぶり、「分断」を過剰に「意識化」して「運動化」する。

 

脱北ヒロインとして知られるパク・ヨンミさんは、米エリート校に広がる「お目覚め文化」が北朝鮮と似ていると語りましたが、エリートというのは基本的にロゴス的知性が優位なんですね。

そしてロゴス的知性優位な状態に「思想」が加わると、思考の概念体系(フレーム)を形成し、物事をそのフレームで解釈するようになっていきます。そこに集団との共感が加わるとある種の宗教化が生じ、信仰の強さに応じた「同一化」の状態が形成されます。

これは「思想」がどのようなものかによっても大きく異なりますが、「お目覚め文化」が「北朝鮮」と似ているというのは、その内容は互いに違っても「思考の型」に共通点があるということです。

「分断」は「元々あった」といえばそうではあるが、「言語に偏った現実の可視化」+「共感」はそれ自体が二項対立を強化する作用があり、「言語に偏った意識化」によって意識高い系が量産され「お目覚め」が生じた。

この「お目覚め現象」は二項対立的な概念との同化の結果なんですね。「無意識を観る」というのは本当はその逆方向というか「脱同一化」の先にあるメタな視野なので、その意味で彼等・彼女たちは本当は目覚めたのではなくより無意識化している

そして「お目覚めした意識高い系」たちが共感で結びつくと、「二項対立の思考運動」を内集団・外集団に投影し、「運動としての分断」を社会に構築化していく。本人は「目覚めた」と思っているので、啓蒙して回るんですね、布教活動のように。

 

「分断」にしても「世界」にしても、「全体性としてのその状態」をどう捉えるか?は本来は二項対立の文脈だけでなく、もっと多元的な捉え方があり、言語的・概念的なものだけなく大らかなものだったのですが、

現在の「分断」は昔の「無意識の分断」と同一ではなく、言語的・概念的に構築されたものの作用を受けて新たに生み出された「意識的な分断」であり、その意味で「分断そのもの」が変化したのではなく、「分断の捉え方」が変質したんですね。

 

善悪二元論、二項対立の壮大な実例のひとつがキリスト教の歴史であり、同時にそれは西洋の元型のひとつでもあります。ではここで宗教学者の石川 明人氏の記事の引用・紹介です。

 

「日本人の99%はなぜキリスト教を信じないのか!?」 より引用抜粋

キリスト教徒は被害者である一方で、加害者でもあった。彼らは世界各地で、信仰の名において残虐な行為もおこなった。キリスト教徒同士で殺し合い、異教徒を攻撃し、侵略や虐殺を繰り返したことも事実である。

ならば、神の「沈黙」はこれまで少なくとも二種類あったと言わざるをえない。すなわち、迫害に苦しめられたキリスト教徒に対する「沈黙」と、残忍なキリスト教徒に苦しめられた人々に対する「沈黙」である。

だが、実際のキリスト教徒のほとんどは、完全な善人にも完全な悪人にもなりきれず、迷ったり悩んだりしながら、誰かを愛し、同時に誰かを傷つけ、それぞれの人生を中途半端にもがいて生きてきたのである。

キリスト教は、全体として見るならば、人間というもののいかんともしがたい現実を示す壮大な実例だとも言える。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 日本人の99%はなぜキリスト教を信じないのか!?

 

この皮肉な構図「人間というもののいかんともしがたい現実を示す壮大な実例」、つまりキリスト教それ自体が「救えない人間そのものの姿である」、という「作品:ニンゲン」のアートともえいるのです。

スケールは小さいですが先の美術館のアートも現代版の「作品・ニンゲン」なんですね。

そして以下の「寛容の博物館」こそ、アートの精神なのです。人を良し悪しで分けるのではなく、人が「そのように在る」ことそのものを観る、ということ。

 

 

寛容の博物館」の入館者は必ず「偏見を持つ人のドア」を通ることになる。右と左の政治的正しさ以前に、まずそれが人間の姿そのものだからです。

宗教者が右と左を分けるなら、それは政治の力学でしかなく、「神」に左翼も保守も関係ない。

「作品・ニンゲン」のアートを「観ること」が「深い変容をもたらす」という意味において、実存を変化させる力は「私」の「外」にある、とも表現できる構造ですね。

カルト信者の在り方を観ることで「人間を観る」、キリスト教の在り方を観ることで「人間を観る」、右や左の在り方を観ることで「人間を観る」、

そして「○○バイアスを自覚しましょう!を語る人の無自覚なバイアスを観る」、「多様性云々を語る人の排除の心を観る」、良し悪しでなく「観る」というアートが変容をもたらす。

 

ところで、遠藤周作の『沈黙』は小説としては面白いですが、史実から観える宣教師たちの姿というのは、結局「神」を持ち出して神性化・権威化しているだけの「政治的正しさ」であり、「人間の姿そのもの」なのです。

ではラストに再び石川 明人氏の別の記事の引用・紹介です。

 

「日本人とキリスト教:なぜ「信仰」に無関心なのか?」 より引用抜粋

宣教師たちは、仏教を悪魔によって考案された偶像崇拝とみなすなど、日本の既存の宗教文化に極めて不寛容であった。彼らはキリスト教こそが唯一正しい宗教であり、他のものはすべて間違ったもの、邪悪なものであると信じて疑わなかった。

一部の宣教師は、日本人キリスト教徒に対して仏教の寺に放火するようそそのかしたり、僧侶たちが洞窟に隠していた大量の仏像を見つけ出して破壊したりもした。これらについては、宣教師自身が書き残した文書からも確認できる。

マーティン・スコセッシ監督によって映画化された遠藤周作の小説『沈黙』からは、迫害されたキリスト教徒が一方的な被害者であるかのような印象を受けるかもしれない。だが、かつてのキリスト教は、他宗教との平和的共存を望んでいたのに一方的に排斥されてしまったというわけではない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 日本人とキリスト教:なぜ「信仰」に無関心なのか?