見えないものを見る  虚実と強さの創造性

 

今回は、前回までテーマにしてきた「ヒトとニンゲン」の補足です、これに関しては今回で一旦終わりにします。

 

記事の前半で「見えないものを見る」、後半で「虚実と強さの創造性」をテーマに書いています。

 

ではまず、「ヒトとニンゲン」のテーマに関連するものとして、霊長類研究の世界的権威であり、京都大学総長を務める山極寿一氏の外部サイト記事を紹介します。

 

「人間はゴリラやチンパンジーよりも幸福だとは思えない」 より引用抜粋

山極はこうも言う。「時間や空間を超える力をもつ『言葉』の登場で、わたしたちの人間関係は身体のつながりから離れていってしまった」と。

「情報革命は、人間の身体を取り残し、脳だけでつながる状態を可能にしました。脳の知能を司る部分は情報を処理するものですから、あらゆるものを情報としてみなしてしまう。

それを拡大したものが、AIですよね。情報にならないものを五感で感じる脳の部分を軽視し、情報になるものだけを集めて分析機能を高めたのがAIだと捉えています。

21世紀に入り、人間は五感により身体で共鳴する感性と、情報を扱う脳が分かれてしまった。もともとそのふたつは切り離すことができないものとして人間は機能させていたんです。

でもいま、身体と脳の分離が始まっています」

だからこそ山極は「身体的なつながりを回復せよ」と提言する。「脳でつながる人間の数を増やせば増やすほど、身体のつながりが失われ、人間は孤独になると思うんです。時間と空間を同時に感じさせるつながりが重要なんです」

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 人間はゴリラやチンパンジーよりも幸福だとは思えない

 

 

ニンゲンは言葉・言語とその概念がメインで構成され、ヒトは自然界に属するイキモノであり、双方が調和的であるときに「幸福」な状態が自然に感じられ、逆に不調和な時にサインとして様々な「辛さ」の質が自覚される。

 

それは「無意識からの問いかけ」であり、それへの応答を間違えるとさらに辛くなる、ということですね。

 

ここで少しずれますが、特定の思想や価値基準でまとまり、集団で物事を一方的な圧力をかけて変えたがる者達がうるさい今日この頃の社会状況を鑑みて、

 

まず、TED権力を理解する方法 ー エリック・リュー」 を紹介です。

 

 

エリック・リューは、「権力」とは あなたがさせたい事を他の人にさせ力の事です。と語ります。非常にシンプルですが本質を突いています。

 

そして6種類の権力があり、最初の政治的権力警察富の力などはわかりやすいが、権力の多面性、それは第4~第6の権力だと思いますね、特に最近はそうですね。以下、動画より引用・抜粋です。

 

第4の権力とは「社会的規範」、つまり人々が良しとするものです。規範には中央集権的な政治機構はありません規範とは人から人へともっとソフトに成り立っていくものです 規範は確実に人々の行動を変え法律さえ変えてしまいます。

 

第5の権力の形態は思想です、そして第6の権力の源は です 大勢の人です 多くの人が集団的に関心の高さを示したり 合法性を主張することで群衆の声」が力を発揮するのです。

 

 

まさにイデオロギー活動家をはじめ、様々な思想、「己が正しさ・価値基準」で団結して集団化し、過剰に感情的・攻撃的な言動によって個人や特定対象を追い込む」、

 

それこそが権力=「あなたがさせたい事を他の人にさせる力」の主体であり、己が価値基準に合うように社会規範を集団的圧力をかけて変える、「特権」に無自覚な権力の行使者なんですね、

 

これはその行為自体、目的が良いとか悪いとかとの話ではなく、構造として権力の一種であるが、当人たちはそれを権力とは思っていない、というその無自覚さが危険であるとは感じますね。

 

「自覚なき力」は「自覚のある制御された力」よりも時に破壊的になる、ということです。 さて、本題に入ります。

 

見えないものを見る、ということ

 

 

 

 

この記事↓もう7年も前に書いたのか、月日の流れが恐ろしく早いことを感じさせます。西欧的自我観の「ぼく」がベストピープルへの違和感、ですね。まぁ今は二元論でなく別の角度から色々と考察していますが。

発達心理と進化の矛盾と錯覚

 

ドイツが~、北欧が~、台湾が~、とその国の長所・短所を見るのはよくあることで、これは「人」でも同じですが、どこかの国、特定の人間だけが全的に進歩的で善良で正しい、ということはありません。

 

素朴な精霊信仰のアメリカンインディアンより、近代的自我を有した西欧人の方が、遥かに多くの虐殺とヒトや動物をモノのように殺しまくってきたように、人種差別や心無い行動を生み出したように。

 

西欧的自我観が人間の絶対基準であり全的に最良、ということはないのです。コロナ程度の揺らぎで再びその薄皮が剥がされているのを見れば、まぁ言わずもがなですが。

 

 

「ぼく」がベストピープルの一員、という無自覚な驕りと内集団バイアスは、「外集団」を非ニンゲンとして扱い排除・支配し、近代的自我を持たない動物やヒトを、モノと同様に心を持たないと見下げてきました。

 

むしろ素朴な精霊信仰のアメリカンインディアンの方が、貪欲な物質主義ではなく、ヒトも動物もモノも自然も大切に扱ってきました。

 

自然はすべての生命の土台と捉え、自然は「個人」が所有・支配できるものではなく、「命は与えられたもの」と考えるからです。国家神道は異なりますが、太古の神道にも根底には通じるものがありますね。

 

こういったものが科学的かどうか、ということは置いといて、宇宙に行った科学者たちの多くが「地球は生きている」ということを素直に実感するわけです。(この状態を比喩的に「精霊界」と私は呼びます)

 

水が風が森が川があらゆる生命とその運動が、調和して呼吸しているかのように在ることを「見てしまう」からです。これは「観念」ではなく事実、現実として、そうなんですね。

 

意外にトップレベルの科学者や人類学者のような専門家ほど、「私たちは人間のことを生命のことを物質のことを、そして他者をよく知らない」ということを素直に自覚していたりします。

 

変にかじった意識高い系の人の方が、過剰にエビデンス信者だったり、「我は現実、我は真実、我は進歩的」の態度で妙に見下したりします。

 

過去記事で紹介したですが、動画を再び紹介です。

太陽系や地球の誕生を経て生命の誕生と進化の過程を最新の研究成果に基づいて映像化した動画  地球そして生命の誕生と進化 【完成版

 

地球の生命が全体で協力して調和している、その無意識の運動=「魂」を、宇宙というマクロな視野で見て初めて現代人は感じ取るのです。まさにアインシュタインの信じるスピノザの神の現れ、ですね。

 

しかし、無意識を深く知るヒトの感性は宇宙にいかなくてもそれを日々感じている、いたのです。現代はそれを感じ取れるだけの感性が少ないないだけ、ということです。

 

自然豊かなヴィンチ村で育ったレオナルド・ダビンチは、見えないものを見ることができたんですね。しかし彼は小学校にすら通っていません。教えられた概念が先ではなかったのです。

 

概念的な思考の教育よりも、感性による事実の直観と、驚異的な好奇心による事実の観察、それによって物事を深く洞察する力を養っていたのです。

 

その洞察力はダビンチの時代の遥か未来の心臓外科医すら驚愕させたんですね。

 

「見えないものまで見ていたレオナルド」 より引用抜粋

レオナルドは人体解剖を行っていたことが知られており、詳細な人体内部の記録を残している。その内容はプロの心臓外科医か驚くほどに詳細かつ正確なのだという。

動脈と静脈を区別して記載しているのにも驚かされるが、一番驚いたのは心臓の弁の開閉に血管内で血液が渦を作ることが関係しているという、

最近になってシミュレーションの結果明らかになったことまでが記載されていたことだという。これは解剖しただけでは絶対分からない体内のことである。レオナルドはいかにしてこのような思考にたどり着いたのか。

レオナルドが残した5600以上にも及ぶ手稿に書かれている文章をAIに取り込み、そこに登場する単語の関連を調べるという調査を行った。その結果、「血液」という言葉が「運ぶ」や「流れ」から「川」へとつながることが分かったという。彼は若い頃から川に興味を持ち、観察を続けていたという。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 見えないものまで見ていたレオナルド見えないものまで見ていたレオナルド

 

 

例えばガリレオ・ガリレイは、音楽と絵画に天性の才能を有していました。他にも結構いるのですが、関連外部サイト記事をひとつ紹介しておきますね。

 

一般的には、アートとサイエンスは相反するもののように思われている。アートとは感情や表現を扱うものであり、サイエンスとはデータや現実を扱うものだと認識されているからだ。しかし、歴史をたどると、この2つは密接な関係を保ってきたことがわかる。

アート関連の趣味を持つ人が多いノーベル賞の受賞者 なぜか

 

まず深い感性知がありそこに高度な理性知が同時に働き、さらに複数の学問・技術的知識が合わさり、全てがシンクロする結果、驚異的な形で創造性が高度に昇華されるわけです。

 

レオナルドは「水の魂」を見ていました。それが生命の源であることを感性で捉えていたのです。ここで使う「魂」というのは、「目には見えない質・力や作用」のことです。や脳神経的な意識ではありません。

 

たとえば「木を描く者」が描く対象である「木それそのものになる」、あるいは「水そのものになる」、というような表現、

 

そして相手の呼吸と合わせる、というような表現は、「他者の身体性」を感性的に知る、というアプローチであり、「見えないものを見る」ことであり、境界を超えて触れていくのです。

 

それは現代的とか前時代的とかそういうものではなく、「時代性に関係なく在り続けるもの」で、社会的なものである「自他境界」とはまた違います。

 

対象を捉えるアプローチの質的差異なのです。その意味で「境界」というものは、単純にそれがあるから優れているとかないから劣っている、というようなものではありません。

 

「境界」を外すことでしかわからないものがあるのです。レオナルドの感性アプローチは、「境界」を超えて様々なものの質に深く触れていく、ということですね。

 

たとえば「無分別智」といわれるものもそういう質のものです。

 

モノ(存在)をただの情報(概念)としてのモノとしてみることは、単純で非創造的な機械的処理で最も簡単なものです。事実に触れる、というのは概念に触れることではないのです。

 

その情報には含まれない質=魂に深く触れていく、それは概念の情報処理ではなく魂に感性が触れることです。

 

そこから創造していくこと、この感性知理性知の双方が、レオナルド・ダビンチの場合は稀有な次元で強力に揺らぎながらシンクロする。

 

そしてレオナルドほどの天才でなくても、この質を有する芸術家の人たちは、あたかも現代のインディアンのようにヒト、モノを見つめ、とても深く存在に触れるのです。ゆえに知も深いのです。

 

コロナ禍によって、吹けば飛ぶような近代的自我社会の薄っぺらな部分、存在への眼差しの質、まさにそれが浮き彫りになったわけです。

 

コロナ過なんていう程度のものは人間の歴史において度々あったわけで、特段新しいことが起きているわけでないのに、全く脆弱な社会の有様とニンゲンの在り方が暴かれてしまった、ということです。

 

反して太古のヒトの感性というものは、一見未熟に見えてもそれは単に原初的な創造性ゆえのことであり、実際はそれこそがニンゲンの潜在的な可能性でもあるのです。

 

宮本武蔵の「神仏を尊びて神仏を頼らず」が好きな理由は、それが正しい、正しくないとか、進歩的だとかそうでない、で見るのではなく、

 

「ヒトの創造性それ自体は肯定しつつ、しかし私は宗教的概念には頼らないよ」という態度なんですね。

 

その型だけを見て安易に否定する欧米的な近代的自我観というのは、「低い基底部に何があり、何に根底を支えられて高度な昇華が可能になっているのか」を見ずに薄っぺらにマウントし、

 

その基準で存在を無自覚な暴力性でカテゴライズしてしまうんですね。「成熟」というのは「基底が消えてなくなる」ことではないのです。低さ(基底)と高さが同時に存在し、動的に統合され調和していることなんです。

 

虚実と強さの創造性

経験から学ぶ、というものはそれが「知」の全てではなくても、そこには文字情報だけでは全く得られないものが含まれています。

 

そして「嘘」からも豊かなものが生まれます。ここでの嘘というのは「虚」の意味で、虚(うつろ)は「嘘」という意味とは異なりますが、

 

「虚数」のような「想像上の設定」、「虚」から生まれる実なるもの、というものがあります。ニンゲンがまさにそういう存在です。

 

ニンゲンの自我は「虚」であり、そしてそこから「実」を産むのです。また、「虚」と「嘘」は同じではないが根底に通じるのものがあり、

 

たとえば「誰もが嘘をついている~ビッグデータ分析が暴く人間のヤバい本性」という本がありますが、ニンゲンは最も嘘をつく能力が高い生き物、ともいえます(笑)

 

嘘にも想像力が関係しています。「長所と短所はセット」というのは、想像力の高さゆえに正負のどちらにも触れる可能性を持っている、ということで、「嘘をつく能力」自体は悪いものではないのです。

 

その能力の使い方次第というだけです。カルトや詐欺のような社会的に有害で他害的な使い方でなければ、かわいい次元の嘘や思い込みの嘘など、多くの人が意識的あるいは無意識についているものなのです。

 

なので「過剰な清潔主義」はかえって人間を硬直させます。

 

「正直な人」というのは、「嘘を絶対につかないと思い込んでいる生真面目な人」ではなく、「自身の嘘に自覚的で気を付けている人」なんですね。

 

警察や、あるいは一般の方でも、経験値の高い方、専門知の高い方は(特定の条件内において)相手の嘘を見破ります。そのパターンを数多く知っている、あるいは事実と異なることを明確に判断できるからです。

 

「世間知らず」とか言われる人々は純粋なのではなく、「知」が偏っている、ということであって、経験から不足を学ぶ、というのはそういう面もあるのです。

 

沢山の良い出会い、それはどんな本を読むよりも財産になります。また「自身とは全く異なる他者」との出会いは、「自身の無意識」を教えてくれる存在でもありますが、

 

できれば自身の負の要素だけを鮮明に突き付けてくるような存在とか、厳しく過剰な清潔な心による「正しさ」や道徳的・抑圧的干渉をしてくる人ではなくて、

 

「異質の化学反応によって長所を伸ばしてくれる人」がいいですね。若い人は特に、と個人的にそう思います。そうやって時間をかけて、長所と短所が相殺し合わず調和的に統合された成熟へと向かう、ということですね。

 

「概念ではない体験や経験」からは生きた知識が得られ、またその関係性の質によって人は豊かに、そして幸せにもなります。

 

弱さが揺らぎを生じさせそれが創造性に繋がる、と前回は書きましたが、「好奇心と情熱」というダイナミズムも揺らぎを生じさせます。

 

時に逆境さえもエネルギーにして楽しみにすら変えてしまいます。これは強さの創造性です。そして「若さ」ゆえでもあるしょう(笑)

 

しかしレオナルドは高齢になっても、好奇心と情熱の揺らぎと創造性が衰えなかったと言われていますので、エネルギー次元が別格なんでしょうね。

 

ico05-005 何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐ行くのだ。失敗してもいいから。1度失敗したなら、よしもう1度失敗してやるぞ、というぐらいの意気込みでやることが大切なんだ。

うじうじ考える必要はない。すべてのマイナスをプラスの面でつらぬけば、マイナスだと思っているものがプラスになって転換してくる。(岡本太郎)

 

ではラストに一曲、リリイ・シュシュで「グライド」です。