発達心理と進化の矛盾と錯覚
今日は発達心理学を基準に、人間の発達や進化といわれているものが、「縦方向の一本の道」のようなものとして錯覚されている心理を考察するのと同時に、
そのような錯覚が、弱肉強食や自然淘汰のような闘争原理的な自他の相対性を生み、同時にその錯覚が自他の優劣の感覚を生む心理をテーマにします。
「認知発達」という角度からの人間の発達過程の考察であれば、代表的なのがピアジェの「認知的発達段階説」であり、「性欲」をベースにした角度からであればフロイトの「性的発達段階説」であり、「生理学的変化と社会的な葛藤」という角度からの発達の分析であればエリクソンの「発達課題説 」がありますね。
まぁ他にもありますが、今日はピアジェを中心にして書いていきますね。
「ジャン・ピアジェ」に関する初心者向けの基本情報は以下PDFを参考にどうぞ。 参考PDF ⇒ ジャン・ピアジェ (Jean piaget)
発達心理学的なプロセスは、特にジャン・ピアジェの認知発達は歴史的に有名で権威的な存在でもあります。ピアジェの心理学的な功績は高く評価されていますし、その分析の多くは非常に優れていると思います。
ですが根本的にピアジェの認知発達の考え方はいかにも西洋二元論的で、理性・知能至上主義的な西洋白人社会の伝統的人間観であり、現在の科学文明社会と個人主義的な価値観にピアジェの分析は適している半面、
どこか人間を一面からしか見ていない偏っている認知発達観には矛盾や限界も見られます。 もちろんピアジェは心理学という1分野に収まる存在ではなく、彼は生物学の研究も行っていた理学博士でもあり、科学的な視点から人間の心理発達を分析し、生物学と認識論を合わせて考察していた人なんですね。
ピアジェの認知発達は特に先天的な障害による発達異常が無い場合は誰もが ①感覚運動期 ②前操作期 ③具体的操作期 ④形式的操作期に分けられ①~④の順に段階的に認知的発達が進むわけです。
「アリソン・ゴプニック『哲学する赤ちゃん』(青木玲訳)亜紀書房,2010年」 より引用抜粋
(前略)
従来、幼児には「いま・ここ」の直接経験しかなく、現実と空想の区別はついていないと考えられてきた(たとえばピアジェやフロイトなど)。近年の研究では、幼児は空想やごっこ遊びをするものの、それらは、現実と区別された反実仮想にもとづくものであることが分かっている。現実と空想の区別はついている。
(中略)
幼児は、世界の因果構造についての知識を豊富に持っている。ピアジェは就学前の児童を「前因果的」としていたが、ここ20年でこの見解はくつがえされた。 – 引用ここまで-
アリソン・ゴプニックのTED動画「赤ちゃんは何を考えているでしょう?」は以下の過去記事で紹介していますので参考にどうぞ。⇒ アダルトチルドレン 親が子供に与える影響の心理学
ピアジェは子供に顕著に観察される自己中心的な思考の形を3つに分類しています。その一つがアニミズムであり、これは無生物にも命が宿り意識を持っていると考えるものです。アニミズムの他に「人工論」「実在論」もありますが、今回はアニミズムのみを取り上げます。
「アニミズム」は、例えばアマゾンのインディアンには現在も色濃く存在し、「物には精霊が宿る」という自然自我の感覚を彼等は成人後も中心に持って生きています。
文明が発達した現代社会の場合では、一般的にアニミズムは「自己の一部の要素」として分離され統合され、自我がそのまま全的な認識となるような同一化状態は基本的に幼児期のみに見られるものです。
ピアジェの見方では、アニミズムは未熟な原始的意識ですが、やはりそこには「キリスト教的な人間(白人)観」を至上で最善なものとして定義した目線があり、理性・知能のみを過剰に優位なものとして扱う「縦方向の一本の道の発達心理」の観念が見受けられます。
『アニミズム ⇒ 多神教 ⇒ 一神教』という順番によって発展するという精神の進化の考え方は、キリスト教的な価値観に受け容れられてきたものですが、例えばエーリッヒフロムの「愛するということ」の中にも「縦方向の一本の道の発達心理」が見受けられ、
一神教(キリスト教)⇒ 自立した個人の大人へと発達する流れと分析定義には西洋的な人間観を強く感じさせます。
エーリッヒフロムは個人が「あるがまま」で愛される母性的愛を受ける時期から、「あるべきもの」として初めて愛される父性的愛の時期を経て成長していくと見る中には、「縦方向の一本の道の発達心理」という感覚があるわけです。
フロムやピアジェの見方は西欧社会の価値観にはピッタリの発達観だろうし、一面だけ見れば確かに現代社会にも良く適応した捉え方ではあるけれど、私はフロムの本を読んだ時、説得力と深みを感じつつ同時に「不足した何か」を感じました。
それは西洋二元論的な世界観、白人的な自然観とは異なる、東洋的な「全体性として存在する人間観」がそう感じさせたんですね。以下に、このテーマに関連する参考PDFをひとつ紹介します。
フロムやピアジェに不足した何か
ピアジェに従えば、生物機能的な欠陥がない健康な個体であれば誰もが、思考・認知能力の生得的な遺伝要因が段階的に出現してくるはずですが、実際は人はもっと不規則でランダムな生き物なんですね。
フランスの精神科医アンリ・ワロンもピアジェに対して「不足した何か」を感じた代表的存在のひとりで、ワロンは全体的・社会的な発達という視野から考察した人間観であり、ピアジェと長い論争を展開することになりました。
「人間全体の一面」を科学的に考察したものとしてはピアジェは非常に優れた分析者であると思いますが、「人間全体」を総合的に見ていくという意味ではピアジェよりもワロンの方がより違和感を感じないんですね。
参考PDF ⇒ 児童精神医学者アンリ・ワロンの実像
そして過去現在の世界情勢や社会問題の本質を分析すると、人類の悲劇の起源となっているのはアニミズムや多神教的なものではなく、むしろ一神教的な固定観念への囚われの方がよっぽど世界の悲劇の起源であり、
また一神教という「支配的な物語」への依存から人々が離れ、それぞれが自由に唯物論的無神論者として「個人物語」を社会の中で構築する「ナラティブ化した在り方」へと移行し、
そして同時に科学物質文明社会の発展のための文化目標の達成と適応が万人に求められ、知能至上主義的な発達観が過剰になり、その結果人々はどうなったかといえば、むしろ自我の不安定化・肥大化・分裂化などの現象がアチコチでより深刻化しているというわけですね。
まぁ縦型の発達心理もそれはそれで部分としては正しく優れているし必要だとは思いますが、「部分が全体になろうとする」とやはり無理があり、結果的にあまりに一面的な人間観や価値観になってしまって、そこからバランス異常が生まれることによって様々な負の反動が起きてくる、と感じるわけですね。
ではここで、浜田寿美男氏のピアジェを批判的に分析した記事を参考に紹介します。
「浜田寿美男のピアジェ批判」 より引用抜粋
ピアジェが発生的認識論において念頭に置いたのは、今日の科学の到達した教学的思考、物理学的思考と、そこに到る個体発生の歩みであったし、
またその情意発達論において念頭に置かれたものは民主主義社会をモデルとした自律的道徳観をもつ対等な人間と、そこに到る個体発生の歩みであった、 と浜田はピアジェ発達論の土俵を見極めた上で、
「私自身にとって気がかりなのは、そうした見事な均衡にいたった人間ではない。むしろそこから容易に踏み外してしまう不確かな人間のイメージであった」(129頁)と述べている。
科学知が盛りを過ぎ、むしろ人間の生活にとってそれを撹乱するものとしてあらわれている、という現代の現実をふまえ、浜田はこのようにして、ピアジェ発達論の相対化をめざしたのだった。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ http://www.office-ebara.org/modules/xfsection05/print.php?articleid=47
※ 他・参考サイト ⇒浜田寿美男のピアジェ批判
「生理学的変化と社会的な葛藤」という角度から発達の分析を行ったエリクソンの「発達課題説 」の場合では、人は社会との関係の中で自我の発達が起き、エリクソンも年代順に縦方向の発達段階で進むことを述べているわけですが、
エリクソンの場合は「人間」というものを見つめる視野に関して、ハードの変化(身体機能の成長過程)とソフトの変化(社会環境と関係)の両面から見ているのと、また「葛藤」という内的な側面を加えている点に、縦方向だけではない視野があります。
エリクソンの発達心理学は過去記事でも取り上げたので参考にどうぞ。
⇒ 発達心理学 子から老後へ向けての自己実現 情動・感情のメカニズム
エリクソンとはまた少し違い、歴史や文化的要素、つまりミーム的なものを含めてアプローチした人が「心理学におけるモーツァルト」と呼ばれたロシアの天才心理学者ヴィゴツキーです。
例えばピアジェとヴィゴツキーの捉え方の違いの具体例のひとつとして、ピアジェが※「内言」が先で「外言」が後、であるならヴィゴツキーは「外言」が先で「内言」が後、と考えた人です。
※ 心理学に「内言」「外言」という概念がありますが、それに関しては以下の外部サイトを参考にどうぞ。
参考PDF⓵ ⇒ ヴィゴツキーの幼児教育に対する貢献について
参考PDF⓶ ⇒ Lev Vygotsky – e-sato
つまり人の心理の発達というのは、
『「縦方向のライン」を直線的に段階的に進むための一律の機能が、健全な個体には生物学的に初期設定されていて、時系列にそれが現れ、順次それをクリアし成長していく』、というイメージなのではなく、
人の成長のプロセスや生命の表現・状態の質は、「多面的・動的・重層的な相互作用」の中で変化と共に「今・現在」に存在し、そして複合的な力学によって刻々と心身は変化し続けながら、同時に自我・自己も形成・成長・変化させていく、と考えることがもっと必要なんではないか?と思うわけです。
縦型の進化(弱肉強食・自然淘汰)の矛盾
これは現実社会においても、はたまた霊的な新興宗教やニューエイジ的な世界観においても、縦型の進化とその道という錯覚が未だに色濃いわけです。あたかも「万人共通の進化や発達の道」があり、そしてそのための決まった同じルートを誰もが歩いていて、
「その同じ道での進歩の具合が異なる」という錯覚は、一つのモノサシだけからの人間の優劣の定義を生み出しますが、
※ 例えばある一つの現実感覚で見た場合の「勝ち組と負け組」という優劣の区分けや、ある宗教観で見た場合の「聖人と凡夫の優劣の区分け、霊的ステージや魂の次元」などもそうですね。
実際に人間には、そのような前後か上下の一方向しかないような発達の道が最初から設定されているわけではありません。あくまでもそれはそういう価値観の中のみで設定された人間観のひとつに過ぎないんですね。
ですが、人の歩む道はそれぞれに相対的とはいえ、ある特定の時期や状況や状態での個別の特徴において、発達課題や精神病理やアイデンティティの問題には、ある種の普遍的な共通性が確かにあり、そのため、その相対的な状況に応じた分析と研究と適切な対応が必要になってくるわけですね。
「発達心理学の発達観・研究対象と進化論」 より引用抜粋
C.ダーウィンの進化論(進化生物学)における『進化の概念』も、エルンスト・ヘッケルの系統発生やサルからヒトへ進化したなどの誤解によって、
“劣等・単純な生物(弱い動物)”から“優等・複雑な生物(強い動物)”へと直線的に上昇していったような間違った捉え方をされていることが多くあります。
しかし、進化論でいう『進化(evolution)』とは、強い動物が弱い動物を弱肉強食(優勝劣敗)で淘汰していくようなプロセスではなく、それぞれの生物種が環境により良く適応していくための『変化のプロセス』なのです。
劣っている生物が優れた生物へと直線的に成長・発展していくようなものではなく、それぞれの生物種がそれぞれの特徴や能力、繁殖戦略によって、
環境に上手く適応していこうとした結果として『進化=変化』があるのです。
ダーウィンの進化論にまつわる誤解(進化=前進的な進歩)の影響を受けた発達心理学でも、『無力・未熟な子ども』が『有能・成熟した大人』へと直線的に発達していく短絡的なイメージが持たれていましたが、
この発達観も『発達=前進的・直線的な進歩』という固定観念を前提にしていました。現在の生涯発達心理学では、人間は死の瞬間までそれぞれの発達段階に応じた発達(変化)をし続けるという考え方が採用されており、
『乳幼児心理学・児童心理学・思春期心理学・青年期心理学・中年期心理学・老年期心理学』など各分野で、それぞれの年齢段階に応じた特徴や発達課題、精神病理、アイデンティティ、社会状況の研究が進められています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 発達心理学の発達観・研究対象と進化論
縦方向一本では進化は語れない。
と、言う事は解ります。
しかし現在が、在る『 一 方 方 向 の 進 化 』の形を向いているという事も矢張り感じざるを得ない。
生態系に於ける『 富 栄 養 化 』の構図と同じ事が、人の心にも起こっている。
その背景にあるのは、例えば、地方にすらコンビニエンスストアが、幅を利かせ?在る意味当たり前のインフラとして定着しつつある事など(飲食店のチェーンとかの進出スピードも優れたモデルのモノは瞬く間に全国に広がる事など)が、それに辺り、、、
また、不均衡なルール等が許されなくなってきている事の影響としての、其れまでの歴史的?背景として認められてきていた事に対して、流動化を背景に現れた新住民などが過剰反応すると言ったことなど(ヘイトスピーチとか?)
またビックデータの活用が今後、その様々な要素に於ける統計から導き出される答えが、様々なビジネスに生かされていくことを考えると、この『 一 方 方 向 の 進 化 』は、益々加速する方向にあり、その中で、、、人のあり方は、矢張り画一化されたモノを求められる事になっていくんだと解ります。
アミニズム的な地域特性?が、『 一 方 方 向 の 進 化 』に、寄って淘汰されていく、、、コレは国家単位で見れば、ユーロや、これから始まるTTPなどを背景にした、流動化によって益々促進されていくことに成ることが伺えるわけですが、そんな中で失われていくモノの、抵抗として、、、或いは?イスラム国などのテロが存在している様にも感じます。
そして、、、『 富 栄 養 化 』の、構図の中での、単一化への構図が、その事によって見過ごされる?淘汰されていく?心、生物、地域特性に根付いた様々な形式が省かれてしまえば、それは多様性を損なわせていく事にツナガっていく。
其れは、逆に、変化への順応制を損なわせ、大きな破壊へと結びつく事に成りかねない。
と、しかし、、、枠を固定し、其れまでの在り方を保護する為に、不均衡な保護政策?で、特権的に?守って行く和を持って尊しとす大和的な?やり方は、この先に於いて、正しいとも思えない。(そう言った、言わば群生秩序が、この国のイジメの背景に常にある。また其れを守ろうとする事に、強圧的なイジメにつながる心を生むことになる。)
堂々巡りを繰り返すだけだが、、、インターネットテクノロジー、ビックデータ解析、人工知能、が、この先、あらゆる『 枠 』を、無効化していき、また、、、『価値』と、『意味』を、大きく変えていく時代に、於いて???恐らく、その 特異点?への、変化のスピードは凄まじく?しかも、つぶさに、人に影響を与えるものとなる気がしている。