「見えないもの」 体感と言語のアンビバレント

 

 

 

ico05-005 海の底に投げ込まれた測深器が流動体を持ち帰ると、すぐに太陽がこれを乾かして固いばらばらな砂の粒にしてしまう。(ベルクソン)

 

今回は「見えないもの」、無意識に関するテーマで、「体感」と「言語」のアンビバレントが前半部、後半部は「単純化された善悪」をテーマに考察しています。

 

かつてMOMAの対話型鑑賞法布教員は「言葉にできないなら、それは無い」とのたまったけれど、世界は言葉(記号交換/意味作用)では出来ていないし、社会(=対人関係)ですら言葉(記号交換/意味作用)はごく一部にすぎない。そこに依拠していると力動的な世界から、真っ先に〈おいてけぼり〉になる。— 中島 智 (@nakashima001) June 15, 2020

 

以下に紹介の外部サイト記事「言葉にしないことの力|鷲谷洋輔」、の内容は、「無意識」「無心」という状態のわからなさ、がよく表現されていますね。

 

 

「言語化の限界」 より引用抜粋

動きを言葉で捉えることの困難について、ドイツ出身の哲学者オイゲン・ヘリゲル(1884-1955)の経験を参照しながら考えてみましょう。1940年代に東北帝国大学に滞在していたヘリゲルは、6年間にわたって弓術を学びました。

指示したのは弓聖と呼ばれた達人、阿波研造(1880-1939)です。ヘリゲルの著した『日本の弓術』には以下のような描写があります。

「放れ」を待つことができないのは、ヘリゲルが自身から離れていないからだと言う阿波研造。弓を引くのは目的に対する手段のはずだと考えるヘリゲルは、この説明に納得がいきません。

的に当てるために弓を引くのではないかというヘリゲルに、阿波は声を上げて答えます。弓の道には目的も意図もない。的に射当てるために矢の放れを習得することを目指す限り、「放れ」は成功しない。

そのために正しく待つこと。自分自身と自分のもの一切を捨て去ること。ヘリゲルがなお、意図しながら意図しないようにすることの不可解を表すと、阿波は、そんなことを尋ねた弟子は今までいない。だから自分は正しい答えを知らないと応えます――。

ヘリゲルの違和感は、一連の動きに対する阿波の言語記述的な説明が整合性を持たないことに起因しています。

そこには、ヘリゲルの母語であるドイツ語を含めたラテン系の言語が、日本語とは違って、主語の線引きをより強く求めることも影響しているでしょう。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 言語化の限界

 

 

シンプルなものほど深い?

ico05-005あなたの代りにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。ヘリゲル)

 

「語られたもの」がシンプルな表現であるから深い、的なことがよく言われますが、「語られ方」は重要ではありません。むしろ非常に難解な表現であるけど、深い、というものも多々あります。

何故か?「どう語ろうが複雑なものは複雑だからで、精妙なものは精妙だから」です。実際は十年、数十年単位で専門で取り組んでいる人ですら「無意識の領域」はわからない、ということが多々あるのです。そういう話なのですね。

 

ico05-005 われわれはわれわれにとって未知である。われわれ認識者、そのわれわれ自身が、われわれ自身にとって未知なのである。(ニーチェ)

 

ではどうやって知りえるのでしょうか?それは本を読むことや「言語的に語られるもの」を知ることではありません。むしろそればかりの人ほどわからなくなります。

シンプルだから深いのではなく、「それ自体を知るという経験」が起きた時、それがシンプルに感じられるだけです。ですが実際はそれ自体を掴むことは容易ではないのです。実践している人ほどその難解さに悶えます。

しかも何かを知ったところでさらにわからないことが増えるだけなのです。

その悶えの連続の中で徐々に「非言語的に」わかるようになる、というだけで、誰かの「言語的な知」が体験より先に「私」にそれを教えてくれることはない、いえ「私」がそれを阻害すらしている、のです。

 

ico05-005 知的な馬鹿は、物事を複雑にする傾向があります。それとは反対の方向に進むためには、少しの才能と多くの勇気が必要です。(アインシュタイン)

 

より精妙なものであればあるほど、「無意識領域」の言語表現は難解になり不可能になります。ましてそういうものを「言語中心主義」的に解釈していこうとすると、逆に「捉える力」を失わせ「知」の「貧しさ」へ向かいます。

 

では再び、「言葉にしないことの力|鷲谷洋輔」より引用・紹介です。

 

言葉にしないことの力|鷲谷洋輔 より引用抜粋

言語記述化は、生のものを切り取り、凍らせて取り扱うような営みです。それは刻一刻と腐りつつあり、あるいは味覚と触覚の対象として別々に認識される以前のあいまいな様態を、既にそれぞれの感覚の対象として切り分けられた形でしか想起できなくなるということです。

であるなら、既にとらえたことの検証や考察ではなく、まずはとらえるということを問題にすべきではないか、と私は考えました。未分の、つまり同時に生起していて、その余韻が互いに溶け合うような変化をできるかぎり断ち切らずにとらえること。

たとえるなら、言語をうまく扱えない赤ん坊が何かをとらえようとするような実践に注目するということです。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 言葉にしないことの力|鷲谷洋輔

 

↑この記事の最後の方で、「言葉にされたものではなく、言葉にされなかったものに目を向けることで見えてくる地平があるのではないか。」と書かれていますが、まさに「そういうもの」です。

 

ちょっと何言ってるか分からない

武道であれば、たとえば太極拳に「松」という概念があり、これは単に言葉で聴いて「ハイ、わかった」と理解、体得できるようなものではありません。

「語られたもの」はそれ自体を表さない、それが「実践の領域や、見えない力語化されえない感性的にのみ知りえる真理」なのです。

 

ico05-005 言葉は代表するものであって、実体そのものではない、実体こそ、禅において最も高く評価されるものなのである(鈴木大拙)

 

そして中国武術では、「丹田」という概念、この「虚」を上手く使って「意識化できない部分を意識化する鍛錬」がありますが、以下に紹介の動画の「6分30秒あたり」の「形意拳」のところ、凄く面白いです。

丹田を動かす、これは知識で知ってもわからず、やっていないとわからないんですね。そして「やってもわからない」のです(笑)。どれだけ「語られても」わからない。どれだけやってもすぐには見えてこない、そういうものです。

「ちょっと何言ってるか分からない」ほとんどそればかりなのです。

無意識の領域は、膨大な「知」が隠されており、それは語られるだけでは知りえない。少しづつ掴んでいく、「感性的な行」を昔からやっていると、殆ど「変態」的に膨大な時間をかけて、繰り返し試行錯誤するのが当たり前になってきます。

 

 

過去に柔道や空手や合気の有段者、中国拳法などに通じた人たちと立ち合いや稽古をしました。

たとえばよくある一般論で、「中国拳法は弱い」「合気系」は弱いっていうのは、立ち合いの数が足りないだけの場合が多いです。

総合とかムエタイとかレスリングとかと比較して、確率的、割合的には実践では弱いというのはまぁ殆ど事実なんですが、極たまにモンスターのように強い人がいます。

 

ico05-005 エンピツを削るという行為をまったく文章だけで伝達することは可能か エンピツもナイフも見たことのない人間に (精神科医 中井久夫)

 

まぁ専門家にかぎらず、「起業・経営」とかもそうですが、「何十年にわたり事業を黒字で維持し続け、数十人~数百人の従業員を雇っている経営者たち」も身近に存在し、いろいろ話をしたりもしますが、

そんなもの本とか読んで出来るような「知」の次元ではないんです。経営的能力は「個人」としてみれば殆どモンスターレベルの知的能力にも見えます、

しかし実際は「人の力」が結集されたもので、あらゆる「知」が複雑に機能して、有機的組織が上手く機能している状態なのです。

そしてそこには「無意識の力」も関係しています。経営の世界は凄い無意識力を有している人たちが存在する領域のひとつです。

感性の領域に関して「ある領域」は、ある種の「変態」だけがたどり着けるのであって、狂人はその過程で何かに躓き脱線した人なのです。大抵この手の狂人は、以下の3タイプが多いです。

 

① 自我が強すぎ我流で変なことをやりすぎたタイプ

② 早道をいこうとして基本すら出来ていないまま脱線したタイプ

③ 言語的解釈で概念的思考のみで捉えた気になって増上慢に陥ったタイプ

 

先天的におかしいという人もたまにいます。しかし「変態的である」という意味では一般人より狂人の方が可能性は高い、高かった、とはいえるのです。少なくともその領域への関心や情熱は強かったわけですので。

誰でもわかる簡単なもの、そういうものは学問でも無意識でも、「浅いものだけ」であり、本当に変態の知に触れたいのであれば「狭き門」より入りましょう。知識だけの一般向けコースでよいのであれば「広き門」で十分ですが。

 

ここでもうひとつ動画の紹介ですが、キックボクサー伊藤 駿太(第2代WMAF世界フェザー級王者)による「那須川天心vs.江幡塁」の試合の実況・感想動画です。「プロが見てもわからない」ようです。

 

 

変態的に強い、それを「非変態」が見ても「ちょっと何やってるかからない」、ほとんどそればかりなのです。「理屈」で知った気になっても実際に感覚としては全く理解していない、

変態のことは変態にしかわからないように、もうどうにもとまらない、いや、もうどうにもわからない、のです。そして「無意識」もそういう領域です。

そして伊藤 駿太氏のコメントや感想は、頭や知識だけではなく深く知っている人だからこそ出る感想ですね、「行動」がメインでかつ深く知っている人の方が大体は謙虚な傾向性があります