単純化された善悪  精神論と身体

 

今回は「単純化された善悪」をテーマに、「道徳」や「非行」について考察しています。まずは一発、「Gacharic Spin」のギター「TOMO-ZO」の動画です♪

 

TOMO-ZOはお気に入りギタリストです。音だけでなく演奏する姿を観てるだけでも楽しくなります。

 

 

今回もPテーマに関連する参考PDFや外部サイト記事、動画等を複数引用・紹介しています。

 

「私にとって、たった一つはっきりしているのは、『からだ』ということだけだった。メルロ・ポンティの現象学によって目を開かされ、レッスンによって『ことばが劈かれる』と共に一気に現れた『からだ』。

私は『からだ』としてここにいる。『からだ』が見、『からだ』が語り、『からだ』が働きかける。『主体としてのからだ』が、メルロ・ポンティによって目覚まされた私にとって最大のことであって、

それは同時に客体でもあり、間主観性において生きる、多義的な存在である。私はたった一つ、それしか出発する地点をもっていなかった。」(「老いのイニシエーション」P31~32)

引用元 ⇒ エナクティブアプローチとしての「からだ」と「空」

 

ライプニッツは、「悪」を「形而上学的悪」、「身体的悪」、「道徳的悪」の三つに分類して捉え、この中の「道徳的悪」を「」としましたが、これはキリスト教ミームを前提にした価値判断の一種です。

 

ここで外部サイト記事の紹介で、哲学者・石川輝吉 氏によるニーチェの『道徳の系譜』のレジュメを引用・紹介したいと思います。

 

 

『人間的、あまりに人間的』には、プラトンとラ・ロシュフーコーは、同情が「魂の力を弱める」と言っている、とある(断章番号50)。
(中略)
善人は悪人より価値あるもの、善人は人間なるものを促進し、有益にし、実りあるものにする、と高く評価されてきた。こうしたことは疑われなかった。

しかし、善人が後退の徴候だったとしたらどうだろうか。道徳が、未来の力強い人間類型の可能性を犠牲にして、こじんまりとした現在の人間を生きのびさせようとするなにものかだったとしたらどうだろうか。 道徳が危険のなかの危険だったとしたらどうだろうか。
〇 哲学者・石川輝吉の、ちょっと「ぐずぐず」した感じ

 

「科学的真実を目指す学問体系」と「実存的真実を目指す学問体系」の質的な差異、たとえば「哲学」や「神学」は後者であり、「社会科学」は前者である、と大まかには言えますが、

社会科学も案外、判断の前提となる個々の価値基準の影響が強いと感じることは多々あります。「いかなる規範性からも自由」とは到底言えず、

客観的分析と称しても、よく観察するならそこには様々な「内面化されたイデオロギー」が作用していたり、学問的権威性での力関係が働いていたり、あるいはミーム的な基層文化的な前提からの主観の投影が生じています。

 

以下に紹介するのはPDF「社会的な悪とは何か―ライプニッツ、アウグスティヌス、デュルケムと「悪」―」です。

 

「社会的な悪」は確実に存在し、現実に社会を脅かし続けていると考えないヨーロッパ人はいないだろう。しかしその正体を問われて、答えられる人間はいるだろうか。

我々はここで社会的な「悪」の問題を全く異なる観点で取り上げたい。我々がここで提示したいのは、社会にとって悪とは何かという問いだ。
(中略)
いかなる規範性からも自由に悪を扱うには、敢えて悪の定義を行うことなく、社会が悪と見なす現象を分析するに留めるのが穏当な手法となるだろう。
(中略)
「悪」はキリスト教の残響の中でのみ意味をもつ概念である一方、世俗化したこの現代に生きる我々には、現代社会に相応しい悪の概念を同定することができない。それゆえに社会科学も悪とは何かを問うことができないのだ。

そもそも、西欧を支配する悪の概念は、キリスト教の「罪」の概念と不可分である。今日我々が西欧に発見する悪の概念は、ヘブライ人やギリシャ人においては存在しなかった。

もちろん、禁止、懲罰、復讐、制裁などの概念はそこにおいても見受けられるが、いわゆるキリスト教の「悪」の内包する意味作用は存在していなかった。ところで、我々は、もはやキリスト教的な支配や抑制によって統括された世界に信を置くことができない。

一方で、それらの支配や抑制のない世界の無根拠性に耐えることもできない。つまり、神の支配する世界にも、神のいない世界にも落ち着けず、両方の世界から疎外されている。

社会的な悪とは何か―ライプニッツ、アウグスティヌス、デュルケムと「悪」―

 

単純化された善悪

話は少しそれますが、以前、「少年グループのリーダー格2人が決闘容疑で逮捕」というニュースがありましたが、世間の感想が意外と肯定的なものが多かったのが印象的です。

このような肯定的な印象が起きるときというのは、「デフォルトの身体」が共感しているのです。

 

ではここで、「ヤンキー問題」を分析している外部サイト記事を紹介します。

『マイルドヤンキー』の楽観と悲観/奥深いヤンキー問題

 

よく、昔不良だった、ヤンキーだったというその負の揺らぎだけを見て「背景にある構造」を見ることもなく、強い活力を持つ者の制御の難しさや、何らかの障害による正負のゆらぎなどの個別性を見ずに、

均一な基準で結果だけを見て、「真面目に生きている奴が一番善い、偉い」と短絡的に語る人もよくいますが、

単に生育環境がよかった、活力が弱かったから湧き上がるパワーに振り回されなかった、というだけの結果であるに過ぎないこともあるわけです。

 

東京少年鑑別所で勤務していた時に調査したところ、少年鑑別所入所少年の中で発達障害を持つ例が占める割合は、可能性がある少年を含めても5%程度でした。つまり文部科学省の一般的なデータと同じ、むしろ少ないということがわかりました。非行少年には発達障害を持つ子が多いわけではないのです。
(中略)
鑑別所で少年たちに対応していると、発達障害であることに加えて、その特性を周囲にわかってもらえないことや、親から虐待を受けていることが非行と関係しているのではないかと感じられることがありました。

そこで、発達障害を持つ非行少年の既往歴を調べてみたところ、発達障害を持つ少年は、そうでない少年よりも「逆境的経験」、なかでも「心理的虐待」が多いという結果が得られました。

発達障害の子どもは非行に走りやすいのか?

 

置かれた状況によっては、暴力性、戦闘能力の高さが適応的な環境だってあるわけで、「そこにいたからそういう形に強化されただけ」という力学が個には働いています。打越 正行 (著)「ヤンキーと地元」では「構造的なもの」をよく描写しているなぁとは思います。

 

パワー系の不良の人は基本的に活力が強いので、統合が出来ていないと揺らぎの負の表出も大きくなりやすく、さらに「構造(環境)」が身体化を加速させるのです。

環境とは異なり、個体の状態の差異もあります。例えば「衰えた老人や病人」が真面目でおとなしく生きている = 内面が良い、と決まっているわけではなく、ただ「そこまでのパワーがないだけ」という場合もあるでしょう。

「抑制、コントロールする制御力が高いのではなく、単にパワーが弱いから抑えられた」、あるいは「弱いから抑える方が得と判断しただけ」であったり、

「理性や知性が足りないのではなく、単にパワーがあまりに強すぎてコントロールが簡単にできない」、あるいは「強いから抑えない方が得と判断しただけ」というケースだってあるわけです。

心は憎しみに満ちた悪意の塊のような人でも、「直接戦ったら相手に勝てないからおとなしくしている」というだけで、「不良でもヤンキーでもないが自分より弱く嫌な相手を見えないところで非肉体的暴力を使って虐めている可能性」だってあります。

「真面目でおとなしく生きている」からといって、肉体的・物理的な暴力性が見られないからといって、そういう人が言葉の暴力では陰湿だったり、SNS等で弱いものを虐めたり、

学問の世界のような権威の力で非対称な相手を抑圧したり、家庭で子供や家族を虐めていたり、または何らかの立場の力、「能力の非対称性」を使って精神的暴力をふるうことはあるわけです。

しかも表には殆ど出ず逮捕もされないので「経歴や近所の印象だけ見れば非犯罪者で一応は綺麗、あるいは普通の人」に見えるのです。

しかし、与える作用の大きさ、深さという点で見れば、そういう一見「普通」に見える人たちの力の否定性の方が、不良やヤンキーが与える負の作用よりも総合的にずっと強いこともあるのです。

以下に紹介の「善から分泌される悪。」という記事は、理性がときに暴力性を帯びる問題を、日本社会の事象や自身の人生から考察した「理性の暴力 日本社会の病理学」の著者で哲学者の古賀徹 氏による考察記事です。(以下引用)

 

多数派の人たちが「これが善だ」と思って追求しているまさにそこから、じんわり汗をかくように悪がにじみ出てくる。そこに何かがにじみ出ているのに、「テンプレ倫理」が邪魔して、大半の人はそこに何も存在しないかのように振る舞う。

まさに、「在るものを無いこと」にしてしまう。だって、そういう「正しさ」から生まれた「悪」を直視するなんて、正直めんどくさいじゃないですか。実際、1、2回見ないふりをしたところで、何が起きるわけじゃない。

でも、ずっと見ないふりを続けていると、たまった「悪」が、ある時ドーンと立ち上ってくるんですよ。それは巨大な壁のような衝撃で、ある特定の壊れやすい人を襲うのです。

善から分泌される悪。

 

スティグマ」の負の作用にしても、普通の人達による無自覚な負の力ほど特定の人にとって非常に暴力的に作用することがあるのです。

「真面目でおとなしい児童期・青年期を過ごした」と「荒れた時期があった」の二つを比較する際に、その背景にある様々な力学や個体の状態等の差異を無視し「道徳的に綺麗な感じがする方」を短絡的に良しとするのは、

ルサンチマンによる「ある部分を上位にするためある部分を下位に置く分断」であり階級闘争であり領土争い、そしてその勝者が多くの資源を得る、ということなんです。

最初から人への評価をあるひとつの質、価値基準のみから判断して断定し一方だけを優位な存在とし、他方を劣位として区分けし、ステレオタイプに断罪しているだけなのです。

前者が後者に対して常に何かの優位性や立派さを保証するわけではないのです。「人間に潜む別の質の醜さ」が見過ぎされている、ということです。ではラストに再び先に紹介のPDFから引用・紹介です。

デュルケムの「悪」の捉え方はイキモノ的で無意識を捉えていますね。

 

「社会的な悪とは何か―ライプニッツ、アウグスティヌス、デュルケムと「悪」―」 より引用抜粋

社会科学による悪の探求の限界(結論に代えて)社会的な悪とは何であるのか。我々はこの大問題に対し、一つの結論を出さねばならないときが来た。アウグスティヌスとライプニッツに倣い、それは「欠如」だとひとまず答えることができよう。

ただし、神を無くした我々にとって、それは、「充足」されたあるいは「完全」な状態が何であるのかを設定できない、よって弁神論的な論理で「善」に変換されることもない「有用性のない欠如」である。

実際、現代の「悪」は、たとえ「社会統合」、「公益」、「最適な資源配分」が実現されたとしても解消されない。

たとえば、社会科学においては、「悪」とされる私益への競争が結果的に公益をもたらすというような、極めて弁神論的な論理で社会的な悪の説明がなされることがあるが 27)、そのようなメカニズムで解消されるのであれば、それは「中間善」に過ぎず、そもそも「悪」ではないのだ。

あるいは、デュルケムに倣い、「悪」とは、「有用性のない欠如」を生きることを我々に余儀なくさせる「俗」な社会そのものと言えるかもしれない。もはや「俗」な世界の外に触れられない我々は、「充足」が何かも分からないのに、それでも「欠如」を埋めていかねばならない。

その生そのものが「社会的な悪」なのではないか。だとすれば、我々はそれとどのように向き合い、それをどのように解消すれば良いのだろう。我々にもその方法は分からない。

引用元⇒ 社会的な悪とは何か ―ライプニッツ、アウグスティヌス、デュルケムと「悪」―