「無知の知」の多元性
『インテリはしばしば、豊かにものを考えることが実は貧しさでもあることを真剣に問題にしていない。』
『勉強することで幸せになるかどうか。僕はむしろあまり勉強しないことが幸せを保障する場合を常に強調してきた。勉強すればするほど良いというのは嘘である。そんなことを信じているのは一部の人だけだ。ところで僕は、ずっと、勉強すればするほど良いと思ってきた。』
— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) July 10, 2020
これらの言葉は「本当に猛烈に勉強した人」、「真面目に思考する人」だからこそ言える言葉かもしれません。しかしかっこいいですね、これはある種のロックさを感じます。
「イチロー 本を読まない理由」
人の生き方のお話しとかあるじゃないですか、そういうのの中では、必ず最後に答えが出てきてしまう事が嫌で、頭で何となく内容に共感してしまう事があると、何となく自分のものになったような気に
なってしまうんですよね。
本を読んで「何となく自分のものになったような気になってしまう」というこの部分、凄くよくわかりますね。
例えば、精神が壊れた者達、様々な精神疾患等がありますが、このような人達の本を数冊読んでわかった気になる、
しかしそういう人たちと実際にどれだけ直接会ったことがあるのか?あるいはそういう人たちと暮らしてみたことがあるのか?長く付き合ってみたことはあるのか?
世の中には重度の統合失調症とか、様々な当事者の本があります。私も本はいろいろ読みましたが、それは「本当に知るため」ではないのです。「知っておくべきこと」はあっても、知識のみでは役に立たないことも多いです。
医学はなぜ独習できないか。技能的行為…熟練行動…は言語よりもたぶん情報密度が一次元高い。(精神科医 中井久夫)
本に関して私の場合は単に好きだから読む、それだけです。子供の頃からたまたまそうだったというだけで、人にもそれを好きになれ、とはいいません。(しかし読んでいるうちに好きになる、ということはありますよ。)
そして「金がないから出来ないという人間は、金があっても何も出来ない」という名言は、常に誰にでも当てはまるとはいいませんが、よくあてはまることはあります。
知識も同じで、「知識がないから出来ないという人間は、知識があっても何も出来ない」、そしてこれは言語性知能や結晶性知能も同じです。
「できる人」は、「できる条件がある」だけではなく「条件を生かす前提と環境」があるのです。
一般論的にいえば、「読書」には言語性知能を高め結晶性知能を高めるので、社会適応上の面で利点があり、能力を昇華する一つの方法で、
そして言葉、文章を扱うプロとか、学者、専門家であれば好き以前に必須、「当たり前」であり、また学歴社会のシステム上、「その基準が重要な分野で生きている人」に関しては、有利不利でいえば有利とはいえるでしょう。
その意味では「行動」&「現場での実践」をしつつ同時に本も読む、というのがお勧め的なものではあるのですが、
そして過去記事でも「創造性の昇華」において、その範囲内での成功法則的な一般論は書いています。しかし、今回はそれとは範囲が異なるものであり、もっと深い「知」や「創造性の昇華」の多元性に関するものです。
創造力は知識よりも重要だ。知識には限界があるが、創造力は世界を覆う(アインシュタイン)
ショーペンハウエルは著書『読書について』において以下のように語っていますが、これもイチローやアインシュタインに通じるものです。深く考える人だからこそこういうところにも気づくのでしょう。
ショーペンハウエル『読書について』より
読書は、他人にものをかんがえてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きをペンでたどるようなものである。
だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。
だが、読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものごとを考える力を失っていく
たとえば「病んだ当事者Aが書いた本を読んでしかもその当事者Aと暮らす」、という経験がありますが、そばにいて間近で見る、それは本では全くわからないことだらけなのです。
そして「複雑で不可解なリアルな状況」で本人と直接向き合うのは、悩んだり葛藤したり不安を感じながら、自身の頭ひとつで思考するしかない「未知」との接触が「生じてしまう」。
その不可解で「未知」なる他者、現象と向き合うことが、「言語化されない身体化された知」となっていくのです。「唯一の答え・正解などない現実」との出会い、「この前提」があってこそ「条件」は豊かに生かされるのです。
私は賢いのではない。問題と長く付き合っているだけだ。(アインシュタイン)
知識ではなく、まずどれだけ対象を現実の中で観察しているか?という点です。本や文字情報で表現されたものはあまりに少ない、あるいは「文字ではそもそも伝えられないもの」の方が多いからです。
また事実を書いたような話でも、実際は見る人(直接の複数の関係者)と合わせて確認すると結構異なっていたりします。事実確認ですら、本を丸っと鵜呑みにするようではだめな場合があるのです。
例えば「毒親問題」「DV問題」では、どちらか一方(当事者A)の話だけを聴くことに偏ったりしますが(多くは被害者とされている側)、双方の話(当事者A、B)、そして他の関係者C、D等の話も含めて話を聴いたときに感じたことは、
「よく覚えていること」「したこと・されたこと」がかなり異なっていたという点です。これは記憶力の問題だけではなく、バイアスが関係していることがあります。
人は「相手にされた良いこと」はよく忘れ、「相手にした良いこと」はよく覚えていて、そして「相手にされた嫌なことこと」はよく覚えているけど、「相手にした嫌なこと」はよく忘れる、あるいは都合の良い風に解釈する。
また「相手の良い部分よりも悪い部分」に気づきそれをよく覚えていて、自分の場合は「自分の悪い部分より良い部分に他者の目が向くことを好む」という、「自分に甘く人に厳しい」傾向性は多かれ少なかれあるわけですが、
例えばこれが親子のどちらにも「顕著」な傾向にある時、どちらもが無意識に「自分の記憶のある部分を強調したり弱めたりしながら、防衛機制を働かせつつ他者を罰して自己を正当化する」ということを行うので、事実が分断され、意見が食い違い敵対化してしまうのです。
どちらもが「ある事実の断片」を事実の全体として主張を譲らないために、互いに否認し合うわけですね。
つまりこのような傾向性が高い場合では、本にせよ一方だけの語りにせよ、殆ど当事者A、当事者Bを伝えていない、といってもいいほど主張された事実の質や範囲が異なることがあります。
取材やインタビューでも同じです。語られることは不十分で少ない。そこに部外者の解釈が加わるとさらに変質します。
実際に、取材やインタビューを受けている人が「よく知る人物」であったことが何例かあるのですが、本人も全く実態とは異なるし、出てきた近所の人の意見とやらも実態とは違っていましたが、そのまま放送されてました。
取材したからといって明確にわかるものでもないし、しないよりはいいだろうと思うかもしれませんが、たまに全く逆のように変質してしまっていることすらあるんです。
メディアフレームによる物語化によって捻じ曲げられるわけですね。あと、「どちらが共感されやすい属性か?」でも過度な一般化が生じやすく、一方が過度に否定されたり、もう一方が過度に擁護されたりもします。
どんなに心優しくても 口下手な奴なら きっと後ろめたい何かあるに違いないと決められる 夜行の駅で泣いているのは みんなそんな奴ばかり 夜行の町を生きてゆくのは みんなそんな奴ばかり - 中島みゆき「夜行」
本やメディアやネットで聴く話と、実際に現実の中で本人や問題と長く付き合う中で理解していくのとでは、後者の方には全然異なる「語られないもの」が背後にあるわけですね。
逆に、道徳的でなく言動も少し過激だけど、実際に付き合うと全く悪い人でないどころか、むしろ下手な善人のつもり、利他的なつもりの人よりもずっと暖かい人だった等、「単純化された印象」は想像以上に多いです。
カルト教祖のような誰でもおかしいとわかるレベルではなく、表からはほぼ誰も気づかないタイプのサイコパス案件は幾つか実際にあり、その場合は、被害者は極一部の人以外誰からも信じてもらえません。
弁護士も警察も介入できません。何故なら法的な問題を起こさないやり方で悪意が実行され、ジワジワと追い込まれ精神を破壊されるからです。
本当に巧妙なケースだと、「世間体は全く問題ない人物」によって行われるので、専門など一切介入できないんですね。それどころか被害者が嘘をついているかのように思われてしまうのです。
そういう人は、「当事者以外」の他者と話すときは至って普通なんです。なので部外者として接する人(専門家を含む)が、たまにこんな風に言ったりするのを聴きます、「本当の人格異常者などいない」と。
しかし「見えない私的な領域」では明らかに常軌を逸した残酷・冷酷な本性を現すのです。
そしてもうひとつ、「本、メディア、ネット、SNSには一切出てこない膨大な当事者」の存在です。「不可視化された主張なき存在たち」です。
私が過去に会ってきた当事者の人たちは、ほぼ全てがどこにも出てこない人たちですが、
世間ではごく一部の「本、メディア、ネット、SNSで可視化された人々」によって、そしてそのわずかな表面の知によって、属性全体が「知られたもの」とされてしまっている傾向があるのです。
しかも専門家との接点もない場合も多い。つまり専門家も知らないことがあるのです。
「本を読めばわかる」、「SNSやネットで交流しているのでわかる」、「専門家に聞けば何でもわかる」とか思っている人ほど、逆にどこにも出てこない人たちの異質さ、多様さが全くわからなくなるのです。
「属性が同じだから似ているだろう」と思いきや、全く異なる考えや人生観を有し、置かれている状況や取り組みも全く違ったりするのです。
自分自身の目で見、自分自身の心で感じる人は、とても少ない。(アインシュタイン)
「イチロー 本を読まない理由」より
その人が生きてきて、その人が得たものなのに、なぜか自分も共感できるから、それを自分のものにしてしまう。
でもそれは僕がホントに自分の中から出て来てるものではない。そこを錯覚してしまう事が嫌なんですね。だから何かを投げかけられる、それを自分なりに噛み砕く、で、こうゆう事なんじゃないかっていう事は僕は好きなんですけど、最終的にはそれが本の中に現れてくるので、ちょっと苦手…。
それよりも自分が狭い世界で、それなりに自分と向き合う、人と競争する中で色んな事がある中から何かを得たいですよね。
それってきっと自分の言葉じゃないですか。そうすると人はきっと…。そんな事分かるから、きっとこの言葉ってこの人からホントに生まれたものなんだろうかって感じる人ってたくさんいるじゃないです
か。それはきっとそういう事だと思うんですよ。
このスラップのトリル好きすぎる、、、
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— アヤコノ🧢ただの16歳 (@ayaconno) July 7, 2020