自己愛・損得の合理性と多元性 「脳内自己実現」~現実の実現へ

 

今回は「自己愛、利他、損得の合理性と多元性」をテーマに考察した記事を書いています。あと去年からの続きで「行動」を大きなテーマとして含んでもいます。(テーマに関連する様々な外部サイト記事やツィート、動画等を紹介しています。)

 

どうして中学高校ってあんなに自己肯定感がガリガリ削られる環境なんだろう。
自信ある子がいたら絶対誰かが「調子乗るな」って言うじゃん。褒められても謙遜
するのが美徳みたいな風潮じゃん。あそこまで自信踏み潰されて、20歳過ぎて
「自己肯定感を高めよう」って言われても「は?」って感じじゃない?
— 凛乃子🍧 (@ring6565) June 28, 2020

 

 

イエス、ソクラテス、ルター、吉田松陰、キング牧師、ガンジー、坂本龍馬。
共通項は「皆んなワガママだった」ということ。規範に従わない、世間がどう言お
うと自分が違うと思ったら服従しない。ヘルマンヘッセも言ってますね、「ワガマ
マは最上の美徳だ」って。— 山口周 (@shu_yamaguchi)

 

「釈迦」もそうです、誰が何と言おうが徹底して我が道を行くマイペースさ、そういう強力な芯のようなものがなければ、釈迦もその時代の規範に従ったまま生き、バラモン教的アイデンティティを素直に疑問なく受け入れて、歴史に残らない個人として人生を終えたことでしょう。

 

では彼らのような「わがままさ」と、カルト教祖のような「自己愛の肥大」は何が違うのでしょうか?「天上天下唯我独尊」というのは「わがままさ」の極致のような言葉で「自分が一番すごい」的な意味だと思いますか?

 

そうであれば、カルト教祖に見られる特徴の一つである「この世で自分ほど偉いものは存在しないのだ!」というあの「超肥大化した傲慢さ」そのもののようですが、実は「天上天下唯我独尊」というのはそれとは意味が異なるんですね。

そこには「配慮範囲」の広さ、あるいは「自他を含め物事を洞察する哲学的深さ」があるわけです。「わがまま」ですが、ただのわがまま肥大ではないのです。

 

「突出した人をバッシングで潰さない世の中に」 より引用抜粋

「百年の計」を立てられる人を活かせるか

利他的行動のなかには、自分の行いが「いつの日か多くの人に役立つだろう」と考えてするものもあります。どのくらい遠くの他者を思えるのか。どのくらい遠くの未来を見据えるのか。

そのように配慮できる心の尺度を「配慮範囲」といいますが、世の中には広い関係軸と時間軸を持って、後世のために利他的な行動をする人がいます。

そんな人のことを、通俗的な言い回しでは「国家百年の計を立てられる人」と表現します。明治〜大正時代に第一国立銀行や王子製紙をはじめ、500を超える会社の設立に関与した実業家の渋沢栄一は、まさにそうした人だったのでしょう。

日本は欧米に比べて中産階級の厚みが大きいのですが、資本主義国のなかでは、むしろ日本は例外的な国といえます。資本主義が進んでいった果てには、ごくわずかな大富豪と大多数の貧民という極端な経済格差が生まれやすいのです。

実際に韓国などではかなり格差が大きいですし、アメリカでも所得上位1%が、国家の富の約40%を独占しているとされています。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 突出した人をバッシングで潰さない世の中に

 

私は脳・神経科学的なもので全てが説明がつくとは考えないのですが、しかし脳がなければ人間のあらゆることが成立しないのも確かで、

 

また全ての科学的なニュースのエビデンスレベルがそれほど高いわけでもなかったり、後に再現性がなかった等が判明したり、その信頼度も100パーセントではないにせよ、脳・神経科学的な話はやっぱり面白いなぁ、というのは素直な感想です。

 

自分の価値観を否定してサインすると100ドルもらえるという実験が行われた。その結果、お金と引き換えにできる価値観と、引き換えにできない価値観があり、そのふたつでは脳の処理する場所が異なることが判明した。

引用元 ⇒ 損得勘定と信念は「別の脳」:倫理の神経科学

 

「配慮範囲」とは異なりますが、短いスパンでは見えない知恵、というものがあります。

 

たとえば熊本地震で、熊本城で崩れなかった「宇土櫓」は、加藤清正と400年以上前の築城技術に支えられていましたが、その技術に込められた知恵は短いスパンで考える合理性では見えないものです。

 

複数の多元的なゆらぎを考えず、セッカチに効率だけで目先の損得で考えることは、「一見すると無駄とか非効率とか非合理的に見えるもの」を思慮浅くカットしてしまいます。

 

そして結果的には非常に長い時間の修復と費用が発生し「大損」になるわけです。しかしその安易にカットされた部分に「何かを支えている深い合理性」が働いている場合があるわけですね。

 

また人間の傾向性として、行動経済学で用いられる「双極割引」という概念がありますが、これは「遠い将来なら待てるが、近い将来ならば待てない」という人間の非合理的な行動の背景にある心理ですが、

 

人間は「後で損しても今目の前にある欲求対象に流されやすい」という性質が元々あるということです。

 

また「双極割引」とは少し異なりますが、強迫観念的に目先の目標や損得で生きている時、一見スピードは速く効率は良さそうに見え、その生き方が「得」であるように思えても、

 

長いスパンで見れば、あるいは様々な動的な変化の中で見ていくならば、結果的には非効率で「損」な生き方になっている、ということはよくあります。

 

そういえば大学時代の先輩がFacebookで「コロナ離婚しました」って報告してた
んだけど、加速試験ができたからこそ脆弱性評価ができたわけで、そのままだっ
たら熟年離婚になってたと思うんだよね。本当によかったと思う。
— カソクキセンパイ@ポスドク (@AccSempai) June 8, 2020

 

加速試験ができたからこそ脆弱性評価」という表現、気に入りました(笑)加速試験、あるいは予期せぬ心・精神のミクロなゆらぎ、そして社会・環境のマクロなゆらぎによって振動や過負荷が加わることで、

 

「それがどの程度シッカリしたものであるか」「知恵が深いものか」などが露呈したりすることがありますね。

 

そして大量の情報や知識で速い時間軸でセッカチに考えていくのではなく、「ゆっくりした時間の流れ」、「マイペースさが保てる空間」、そのような環境では思考が深まりやすいんです。なので「ゆっくりマイペース」も大事です、

 

情報過剰で効率化された今の世の中は、ピリピリ・イライラ・セッカチで、おおからさがなくすぐに怒る人の方が多いです。 そしてここにも「待てなさ」が関係しています。

 

以下に引用・紹介の外部サイト記事は「虐待」に関する内容ですが、「待てない心理」の背景を的確に分析しているなぁと感じます。

 

ちなみに、「待てない人」ほど自分の感覚に対する意識が弱いです。自分の感覚を大切にしていません。

意識が外側(外部刺激)にばかり向いてしまっていて、自分の心や、からだの中に意識を向けることが出来ないからです。

ですから、感覚を大事にしない社会では、必然的に「待てない人」が増えていくのです。

「幼児虐待の原因」(待てる人と待てない人)

 

 

ネットでもリアルでも、「ゆっくりマイペース人」や「おおらかな人」は割合的にも少ないんですね。そして「グレーなもの」を我慢できない人も増加傾向です。

 

効率化、スピード化、均一化が、「ゆっくりマイペース」や「おおらかさ」を否定し、潔癖さが「グレーなもの」を否定しがちで、それらを短所のように語る人もいますけど、気にせずにその「長所」を大切にしましょう。

 

ものをよく観る、ものごとを深く考えるといった点だけでも、せわしい情報化社
会に生きている人たちは、それ以前の人たちよりも、圧倒的に不利なのである。
これは人類学的フィールドワークに出れば、よほど愚鈍でなければ、突きつけら
れる問題。時間が計量化されず、ゆったりしている土地の思考は深い。
— 中島 智 (@nakashima001) June 16, 2020

 

まあ芸術であれクリエーターであれ、「好き」と「己がペース」を貫く「自己愛」と「わがままさ」、「こだわり」、シンプルにこれは大事だと私は思いますね。

 

そしてそのあたりの多様な個性や異質さに関しては、芸術家やクリエーターの方が一般の方や専門外の方より懐がずっと深かったりします。これも相性であり、「どういう先生や先輩に出逢うか」も大事でしょうね。

 

「教えにくい子ども、っていうのは、自分なりの考えがある子どもも結構いる。
むしろそういう子が多いかもしれない。僕自身がものすごく教えられない子ども、
教えにくいどころか通用しない子どもだったんですが、それでもこれだけちゃん
と生きてるんですからね。」羽仁進監督
— 中島 智 (@nakashima001) May 19, 2020

 

 

 

「絵が上手くなる方法」とかも、専門外の方が考えた変なことばっかりせず、よく観て何度でも実際に描いて実践する中で掴めばいいことで、何か専門的にやるのであれば「その道の人」に聴くのが一番でしょう。とはいっても「遊び」は枠組みのソトに在り、創造性そのものは専門が所有するものではありませんが。

 

 

 

自己愛の多元性

自己愛性人格障害という概念における「自己愛」というのは「自分が好きな人」ではなく、ありのままの自分に自信がなくむしろ自己嫌悪が強いゆえに「自分を認められない」=自己肯定感が低い状態で、

 

コンプレックスから自我の防衛・反動形成によって「誇大化、肥大化した自己へと分離し、その分離した自己を自身の姿だと思い込むことで不安や自信のなさを遠ざける、という防衛状態」です。

 

ナルシズムに関しては過去にも幾つかの記事を書いていますが、「自己愛」には病的なものもあればそうでないものもある、これは「依存」に関してもそうです。何にも完全に依存してない人などいないわけです。

 

「依存1個みーつけた」みたいな粗探しなど何の意味もないわけです。以前にも書いたことですが、私はフロイトよりコフートの自己愛の捉え方の方に近いんですね。

 

『 僕にあるらしいナルシシズム的な感じ(僕自身はよくわからない、普通にしてるだけ)はおそらく男性同性愛と関係があり、他方、とくにヘテロ男性は自らのナルシシズムを禁じることを倫理にするところがあり、そこから、こんな自分大好きなやつ!と非難されるのは、僕は同性愛差別だと感じる。』

『 基本的に男性文化は、俺は自分が嫌い、俺は醜い、お前もそうだろ、な、とアンチナルシシズムを共有すること、それが逆説的に「男としてカッコいい」という、逆説的な「アンチナルシシズム・ナルシシズム」を基調としている。』

— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) December 11, 2019

 

 

「アンチナルシシズム・ナルシシズム」としての「男」、なるほど、確かにそういう捉え方もできるでしょう。

 

少し話はズレますが、性的なものにせよそれ以外にせよ、自体愛」を含む意味での「存在しているだけで価値や美がある」という肯定は、男性は女性と比べて少ない傾向性で、

 

「それ自体を愛されるゆえに受動的でいられる性」と、「それ自体が愛されないゆえに能動的に生きる性」、そして「引きつける性」と「求める性」の質的差異が先にあって、

 

そして「男の自己愛」は男からも女からもあまり好意的に受け入れてはもらえない、いや、親からもそう育てられるという傾向性は、男性の方が強いでしょう。

 

世界は男の自己愛を結構な確率で笑いものにする、ゆえに小さい子供の頃はあったはずのそれを、どこかで諦めた結果の「禁じる態度」なのでしょう。

 

ガッキーが何故可愛いのか? 男は決してあそこまで突き抜けた可愛さにはなれない。それは単に外見だけの話ではないのです。

 

「それ自体を愛されるゆえに受動的でいられる性」ゆえの、世界からの肯定と、自己からの肯定、その内外双方からの自然な肯定に支えられた「愛される存在」のみが放つことができる「開放された魅力」でしょう。

 

この↓ポッキーの動画のガッキー、私には「最強の強者」に見えるのです。「ただ存在しているだけで圧倒的」、「ポッキー持って笑いながら走るだけ」のガッキーの肯定力に、世の全男は圧倒的大差で負ける(笑)

 

しかし↑ 凄い魔力ですよね、こんなのオッサンがやったら最大の評価で「大爆笑」、最低の評価の場合は、ヘタすれば誹謗中傷の嵐でメンタルヘルス案件になるかもしれません、オッサンなるものは「キングオブそれ自体愛されない」なのです。

 

『私は「オッサン」を応援するオッサン』なのですが、このように自虐的にしか書けないところもまたアンチナルシシズム・ナルシシズム的でしょう(笑)。

 

そのような素のナルシシズムが許されるのは男性ではなく女性、というわけであ
る。そういう女性を美しい存在として称賛する一方、男たちはナルシシズムを基
本的に排除対象にしているので、女性を蔑視する。愛して蔑視する。これがヘテ
ロ男性ホモソーシャルの構造。

— 千葉雅也『デッドライン』発売 (@masayachiba) December 11, 2019

 

実に深い考察ですね、そしてその通りでしょう。しかしこれは想像以上に根が深いと感じますね、全ての男がこれを根本から理解するのは難しいかもしれません。「違うからこそ異質だからこそ引き付けあう」それが男女の性だと思うからです。

 

話を戻しますが、自己愛にせよ依存にせよ何にせよ、なんでもかんでも「病」とか「悪いもの」のようにしないことですね。人間はそもそも依存なしには生きていけませんし、そして誰もが自己愛に支えられています。

 

通常の「自己愛」は健全なものであり、「自分が好きである」という感覚は全然病的ではなく、いやむしろ自己愛を大切にしましょう。特に男性はもう少しそれを前面に出してもよいくらいです(笑)

 

いえ、日本の場合は男女共に、そういう傾向は強めでしょう。

日本人はみんな醜形恐怖症やと思う。
日本以外の国では女性が『私は自分のことが大好き❤️私ってかわいいよね🥰』って
言っても『そうさ!キミはとってもチャーミングだね👍🌈』ってなるのに。日本は
『その自信どこから湧いてくるの?😅』て感じの反応飛んでくるからかな?自分を
好きな方が人生楽しいよ     — おりん (@_6m_oO) May 3, 2020

 

日本の中で、一番叩かれる人って、「自分のことが好きな人」ですよね。自分を好
きと言って何が悪いんでしょう。自分が一番可愛いくて当たり前だと思うのですが。
— しーぷ (@sheep_sleep9) May 3, 2020

 

 

しかし「自己愛」にも様々な質があります。パワハラ上司というのは自分に陶酔しているナルシスト的な特徴、傾向があるといわれ、他に「極端な上昇志向」や「せっかちな気性」、「完璧主義」などが要素として挙げられ、そして「DV加害者」にも「せっかちな人」が多いといわれてます。

 

じゃあどうして、「待てる人」は虐待に走りにくいのかというと、「待つ」ということは「他者の価値」を認めることでもあるからです。

我慢強いから待てるわけではありません。「他者の価値」を尊重しているから待てるのです。だから「自分中心」のものの考え方をしている人は待てないのです。

「幼児虐待の原因」(待てる人と待てない人)

 

つまり自己愛も、「内外の複数の要素との組み合わせやバランス」によって質が変わる多元的なものですね。

 

「現実自己」と「理想自己」の乖離から生じる過剰な自己愛によってカルト教祖などに献身したり、現実を超越しようとして霊能にハマったり、「特別な何者か」になろうとする等、現実から乖離した「脳内自己実現」なってしまうわけです。

 

あるいは目先の利益や合理性や依存心で流されて、心身が壊れるまで全人格労働したり、「バランスのある依存」が出来ないから「過剰な依存」になってしまうこともあるわけです。このように組み合わせ次第ではかなり運命が分かれるものですね。

 


自分がどん底にいる時は、誰かにそこから引き上げて欲しくなります。誰かがやっ
てきて自分を救ってくれると思いたくなります。確かにそう言う人は現れます。
あなたの事を救ってくれる人は確実にいます。それは自分です。だから自分を信じ

るのです。自分が絶対にそこから引き上げてくれるのですから。
— ゆーすけ (@yusuke_shiozawa) July 17, 2020

 

脳内自己実現~現実へ

 

「脳内自己実現」では「自己愛」が肥大化しやすい、それは「思い通りにはいかない現実」の中での試行錯誤や、「他者」の干渉や、理想と現実の差異での葛藤もなく、行動もない「知識や思考のみ」で何かが達成出来たと思い込むからです。

 

少女MIUMIUのギター

 

 

自分が何を知っているか知らないか、相手が何を知っているか知らないかだけで人間を見るのではなく、「今・現実」の中で「自分が今やっていること」を互いに見せ合いながら成長していく関係、

 

「行動」や「実践」の中で、「現実」と「理想」を分離させずに取り組む姿勢というのが「自己愛」のバランスとしてよい、ということですね。

 

例えば歌とか楽器なら、下手でもプロでもいいから、まず好きな歌を歌ってみるとか、こういう曲作ってみたとか、こういうカバー演奏してみた、で繋がっていくことです。笑われることを恐れず、「行動」の中で現実自己を理想に近づけていく。

 

まぁ音楽にかぎらず、よく何かのレビューとかで、妙に批判的なマウント的感想を書くおじさんがたまにいて、ユーチューブとかにも出没しますが、嫌われていますね、あの手のタイプ。やってることは↓以下の絵と変わらない次元ですね。

 

 

本人の「行動」はないまま、ただ「他者の粗探し」、「自分より主体的に行動しいる他者」の否定に終わってるだけなんですね。

 

我ばっかり強く、そのくせ臆病で、プライドが高く、人から何か批判されるとぐカチンとくる割に自身は主体的な行動には消極的なタイプ」に多く、何の勇気もない暇人の自己主張、というだけなのですが、

 

結局、そういう人は傲慢なまま、知識や言葉・文字だけで何でも分かると思い込んで同じことを繰り返すわけですね、まぁそんなんだから貴重な時間を無駄にするわけです。

 

 

私はこの手の人が殆ど気にならないというか、「この人は他者との現実での関り少なく、孤独で時間もエネルギーも有り余ってるんだなぁ」と思うだけなんですが、結構多くの方が割と真面目に気にされているようなので、ここで動画を紹介です。

 

二十代、三十代のあなたが「マウント感想おじさん」に出逢ったら、以下の動画くらいのモチベーションでOKです。「甘い暴力」で「うるせえ黙れ」です♪

 

リアルは物語ではなく小説でもなく「今、起きていること」「現在」です。自宅で本読んで知識だけの人になるとか、頭で考えているだけの状態は簡単ですが、

 

本当に人生にエネルギーを集中して取り組んでいる人なのであれば、ネットでダラダラと長い時間を膨大に消費したりしている暇などないでしょう。(ネットと仕事が組み合わさっている人とか、ネットで自己実現を目指すを人等は別として。)

 

そうやって「他者」と「自己」の関係性の中で相対化しつつ「自己愛」を成熟させていくわけですが、自宅で知識を集めて自己を補強しつつ自己防衛し自己完結してるような在り方では、結局「自分の観念を強めるだけ」なのです。

 

「勉強、学問」というのは「自己破壊」が本質とするなら、「現実」は他者」関係性を通した「身体」の学び、ともいえるでしょう。

 

身体を使って「行動」し現実と向き合えば、「考えた通りにはいかない」ことばかりです。そういう多元的な現実の中で他者と「身」を通して関わりながら取り組むのは、より多くのエネルギーも必要だし不安や苦痛や困難も伴いますが、

 

そうやって実際に動くことで、動きながら葛藤しながら人生で何かを育てていくのです。

 

シッカリした自分を確立したいのであれば、「言葉」だけではなく「思考」だけではなく、「現実」の中で「行動」しましょう。あなた自身も「笑われ鑑賞される側」となり、「対等な関係として感想を言われる側」になりましょう。

 

それは世界を信じ、世界に身を投げ出すこと、であり、「身体」を伴う学びであり、自身の全体で生きることです。

 

ico05-005 他人が笑おうが笑うまいが自分で自分の歌を歌えばいいんだよ。(岡本太郎)