生きている詩 と 物質の生命
「五感で明確に刺激として感じる感覚」と「五感で明確に刺激として感じない感覚」があるからといって、それを一般化して「他者」はそれをハッキリとは感じていない、それは曖昧模糊としたもの、としてしまう人は意外と多い。
この「一般化」も自己投影が絡んでいることがある。その人がそれをはっきりと感じれないだけであるのを他者に投影してしまうわけですね。
たとえば「幸福感は精神的で、快楽は物質的なもの」のように二元論的に解釈されやすいが、どちらも「身体」を基盤にした主観であり、物質的なプロセスと無関係ではない。
「ドーパミン中毒」のような状態は身体性としてそうなっているので、本人がそれを抜け出すには身体性そのものを変化させる必要がある。幸福感も身体性が絡んでいるが、それは五感への刺激から生じる快楽とは異なるもの。
以下↓の研究において「幸福感」というのが曖昧なイメージではなくて、物質的なプロセス、身体を基盤に持つ具体的な感覚であることがわかります。しかしこういう身体性が乏しければ、ドーパミン的な刺激、五感でハッキリ感じる快の感覚だけが「幸福だ」と思うでしょう。
動物的な五感の快楽と人間的な幸福は異なる。「主観的な幸福感の高さ」が脳内活動と相関する。それは「執着する心」「心の迷い」「否定的な自己意識」が弱い状態、そして「感情を適切に統合すること」で生じるとのことですが、五感への刺激による快楽とは異なるものでありながら、身体に生じているものなんですね。
このブログで「動的で調和的な自己統合」と表現する状態にも五感の快楽とは異なる主観的な感覚が生じますが、それは「囚われない状態」「感情を適切に統合する」が自ずと含まれているからなのかもしれません。
とはいえそれは「私」がその状態を目的化してそうしようとしている場合には生じません。無意識が自ずとそうなっている状態のときに勝手に生じる。これはドーパミンの快楽と違って「中毒」にはならないんですね。またこの状態は快楽でも禁欲(抑圧)でもない。
物事を二元論でロゴス的にしか解釈できない人は「他者」と自分との身体性の違いが理解できないまま自己投影して物事を解釈してしまう。だから常に他者を単純化し一般化する。
「ヒトが幸福を感じる脳活動を解明-京大ら」 より引用抜粋
右楔前部の安静時活動が低いほど、主観的幸福得点が高いことが示された。つまり、より強く幸福を感じる人は、この領域の活動が低いことを意味する。
先行研究から、楔前部の活動は、否定的な自己意識や、心の迷いや、執着する心に関係することが示されており、これらの心のはたらきが弱いことが幸福感の基盤となる可能性が考えられるという。
また、右楔前部と右扁桃体の機能的結合が強いほど、主観的幸福得点が高いことも示された。扁桃体は感情処理に関わることから、感情を適切に統合することで幸福感が生まれる可能性が示唆された。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ ヒトが幸福を感じる脳活動を解明-京大ら
ところで人間や存在に対して科学では様々な分析がされていますが、このような科学的なものだけでは全く説明ができないものがありますね、たとえば『 なぜ<私>だけが<私>なのか?』という哲学的な問いです。⇒ どうして「私」(という意識)が、「自分」(の肉体)に宿ったのか? 『脳はなぜ「心」を作ったのか』より
これは高校の頃に物凄くハマって、友人たちと夜遅くまでああでもないこうでもないと考えたりしました。こういうことをよく考える人とほとんど考えない人がいるようで、後者の方が圧倒的に多いですね。
哲学者はこの問いを哲学で辿り着ける可能性があると考えているのかもしれませんが、これは科学はもちろん、哲学でも「触れる」ことは出来ない領域でしょう。
「生命」は客観 「生きる」は主観
「老人」にせよ、「中年」にせよ、「若者」にせよ、「子供」にせよ、「赤ちゃん」にせよ、家族・身内であれば「個人」としてみることができるのに「他者」においてはそうではない、というこの傾向性は何故だろうか?
それは個人本来の本質ではなく、社会・政治によって分けられたもの。それは社会的な文脈においては必要なものではあるが、今まさに死のうとする瞬間に、一体そんなものに何の意味があろうか。
ではここで「ジジイ同士のだいぶ見てられないラップバトル」の動画を紹介です。 それにしてもよく思いつくなぁこんなおもしろいラップ、気に入りました♪
「老い」をただ醜く汚く情けなく惨めなものにしたがるのは、社会的、政治的そして「物質」としての生命観がそうさせています。社会・政治の力学はヒトに「属性」を付与する。そしてヒトを価値や能力で区分けする。
この社会の力学による差異化が個人に内面化され、自身をただ醜く汚く情けなく惨めなものにしてしまうとき、それに抗うか絶望するかの二項対立しか生じない。
医師は人間を客観的にみてその「生命」を「生かそう」とするが、「物質としての生命」のような人間観は、その価値基準によって老化や病を「ただ醜く汚く情けなく惨めなもの」にしてしまう。結局「抗うか絶望するか」の二項対立しか生じない。
こうやって「生へのしがみつき」と「絶望」の二択だけに心を支配された「老いと死への忌避と恐怖」が構築される。この老いと死のイメージは構築されたものであるにもかかわらず、管理社会においては強力な内面化が生じている。
そして『ただ「私」が「生きる」』ということのシンプルさを見失っていく。『 なぜ<私>だけが<私>なのか?』という哲学的な問いにしたって、考えようによってはこれで一生楽しめる哲学的な問いじゃないですか。
『「私」は醜く汚い情けなく惨めな「老人」だ』などと自虐してる暇があったら、『 なぜ<私>だけが<私>なのか?』という哲学的な問いを考えた方が面白いじゃないですか?それだけでなんか笑えてきますよ。
自分はこれは間違った生き方だと思っている。むしろ老人こそ、労働から解放されて《遊ぶ》こと、あるいは自分のためだけに真に《走る》が求められているのに、彼らは社会によって、方々からの——多くはもっぱら医療的な配慮により、生きさせられているのである。
— 田中希生 (@kio_tanaka) February 19, 2023
自分の父にせよ母にせよ「中年・老人」という単位よりもまず「個人」としてみる。「個人」は「属性以上のものを含んでいるその人の全体」。
「赤ちゃん」に完結した個人は存在しない。しかし客観的に他者をみているだけなら、「赤ちゃん」や「老人」や「中年」があたかもそれ自体で完結した「ずっとそうだったもの」「よく知られたもの」であるかのような固定的なものとして捉えられる。
しかし私もあなたも同様に、人はこの世に生まれてきて「赤ちゃん」を初めて経験するのであって、『「赤ちゃん」を経験している最中』は「赤ちゃん」を知らない』のである。それは外部の「他者」によって客観的に語られる属性・単位であり、
「赤ちゃんそれ自体を生きている」という主観において「赤ちゃん」は存在しない。
同様に人は「子供」を初めて経験し、「若者」を初めて経験し、「中年」も初めて経験しているのである。「それ自体を生きている存在は常にそれを知らない」。そして未来に「老人」も初めて経験することだろう。最後に「死」も。
老人ホームに入居してきたお婆ちゃんが「わたし、歳をとるって初めてだから、よくわからないことだらけです。よろしくお願いします」と挨拶してて、なんかほのぼのした。
— しろたぬ (@shirotanu_dds) October 17, 2022
「私」は「他者の死」は知り得るが、「自身の死」は知り得ない。「死それ自体」と「死についての客観的な知」は全く異なる。
そして人生の諸々の役割において、人は何もかも訓練や練習期間を経てからそれをしているわけではない。「親」だってみな初体験なのである。しかし「知ってて当然、出来て当然」といわんばかりの扱いを受ける。「属性」を付与された途端にあたかもずっとそれだったかのような錯覚が生じ、個人ではなく単位として扱われる。
「私」は「人間」だが、「何十万年前から地上に生きている単位としての人間」なのではなく、単位としての男、単位としての日本人として生きているわけではない。人間を初体験し、男を初体験し、日本人を初体験している個人である。
だが個人に付与された属性で単位として扱われるとき、あたかも歴史的な連続性として何千年も生きている何かであるかのような固定化が生じる。
「人間を知らない、男を知らない、日本人を知らない状態で、いきなり生まれてきて、属性をそのときに賦与されただけの初心者」である。身体は祖先から引き継いでいるため身体の性的差異は元々あるが、とはいってもこの身体も初体験である。
生まれたときから身体に元々ある生物学的差異以外の属性に関しては、状態の変化におけるその時々の属性が後から賦与されていくだけ。
それらの「後から賦与されていく属性」でひとまとめにして大衆を眺めるかのように人間存在を捉えていると、たとえば「中年」という完結した存在が何十年も前からずっと街を歩き固定的に存在しているかのように錯覚する。おばさんもおっさんも、ずっと前からそうだったかのように群れとして単位としてしか見れなくなる。
統計やら数字だけを見ていればなおさら、「個人は属性に完結した単位」であるかのように扱われるが、実際には「赤ちゃん ~ 老人」は1個人であり、存在の初体験の連続における変容プロセスを一面から捉えたものに過ぎない。
主観から見ていく世界にはひとつの単位では見えない唯一性と個別性が宿るが、客観から見ていく世界には類型化された存在のイメージがステレオタイプ化されていく。
その意味で「どこにも中年はいない」「どこにも老人はいない」「どこにも子供はいない」、ただ1個人が変容し続けているだけである。個人をみるなら、そして内側から人間存在をみるならば、そこには属性に完結した存在ではなく、常に変化し続ける個人がいるだけで、その時々の外部のライフイベントを個人として初体験しているだけである。
仮に今のあなたが三十五歳として、あなたは自分自身を内側から見てそこに「中年という実体」を発見できるだろうか?そこにいるのは今も昔も「何者でもないあなた/わたしがいるだけ」ではないだろうか?
『いや違う!私は三十五歳の誕生日に中年という実体を確かにみた、昨日までは「若い大人」がココにいたが、三十五歳の誕生日から中年という実体に切り替わったのだ!』とそんな内的現象が生じ、その属性に完結した何者かはいるだろうか?
「私」は外部のライフイベントを初体験しながら相対的に自己規定するだけでなく、加齢による身体の変化、体力の衰えや病気等、内部の変化によっても相対的に自己規定する、この内外の作用及び「他者」との差異によって位置関係を把握するが、
とはいえ自己・他者による規定 = それ自体ではなく、「個人」は内外の相対的な規定に完結した存在ではなく、生は常に「その外部」にある。
「わたし、歳をとるって初めてだから~」という個人、それは「老人のライフイベントを初体験している個人」であり、「属性の外部」を生きている何者でもない存在の言葉。「赤ちゃん ~ 老人」までずっとそこには「あなた/わたし」がただいるだけで、変わりゆく内外の世界をお互いに初体験しているだけ。
「生命」は客観であり、「生きる」は主観。「生命」は物質であり、「生きる」は詩。
死ぬとき「聴覚」は最後に残る感覚といわれる。いや胎児だったときも、ヒトは様々な「音」「息」、「呼吸」のゆらぎを感じながら、身体の鼓動を聞いていただろう。生まれときも死ぬときもそうやって触れているだろう。
心の歴史というのは詩の中にだけ宿る。「書物に書かれた時代・世界の歴史」は心に刻まれることはない。「私」に刻まれた歴史は時間性をもたない。その瞬間がそのまま詩となって存在に刻まれている。心の歴史だけが「私」に起きたほんとうの出来事。
真に「生きる」ということについての哲学の不足。「生きる」ことを医療言説に奪われて「生命」に変質させる、言い換えれば医療なしには生きられないというような転倒を転倒と思わない日本社会。これをもう一度反転させるような哲学が、求められているのだと思う。老人こそ生きねばならない。
— 田中希生 (@kio_tanaka) February 19, 2023