無意識の交流 「社会」に被曝したヒトの物語

 

過去記事でDr. Capitalさんの動画でVaundyの「踊り子」のcoverを紹介しましたが、私は世代とか年齢とか関係なく「声」や「音」、そのリズムやゆらぎを感じでみたり、

Dr. Capitalさんのように楽曲の構造をみるのも好きで、ひとつの曲や歌をいろんな角度から見たり聴いたりするのが好きです。フジファブリック の 若者のすべて – Dr. Capital

ここで少し話は変わります。松任谷由実さんは海外の曲を含めて非常に多くの曲を聴くというのを過去に聞いたことがありますが、

「埠頭を渡る風」がスティーヴィー・ワンダーの「アナザー・スター」に似ていたり、「ノーサイド」はクリストファー・クロスの「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」のイントロに似ている、とか、

他にも「あれ?これは..」と感じるものがありました。そして山川健一 氏 の著書「ルージュの伝言」は松任谷由美さんの聞き取り本ですが、その本の中に、以下のような語りが出てきます。

「小学校のころは、少女漫画の悪役という感じだった。大店の娘で、意地悪少女でね。学校で特定の子をいじめるのよ。」「いじめられた子の親が、荒井さんにいじめられたって怒鳴りこんでくるでしょう。ところがうちの親はPTAの会長だから、 すぐにもみ消しちゃう。」

 

こういう話って、今の感覚だと小山田圭吾さんと同様にすぐに数十年前の話とか人柄とかと曲が結び付けられてしまうのでしょうが、音楽だけでなく他の芸術家も含めて、偉人や天才だって世間一般の常識感覚でみればかなりヤバい人も多いんですね。

真面目で道徳的で社会的で常識的で穏やかで優しい人」なんていうのは、若いうちからそうであるなら、それだけ強力に「社会」に被曝した人です。過剰な去勢、過剰な社会化による硬直した自己統合状態に過ぎないんですね。

真面目系クズ」の場合は、この自身の抑圧状態を他者にも課す、というところがダメなんです。そうやって息苦しい真面目さの呪いをかけて出る杭を打ち続けていくような社会はみなが「硬直した真面目さ」で窒息していく。

「真面目さ」=「ダメ」なんていうことではないんですね。「真面目さ」は大事です。しかしこの一見矛盾する両義性がわからない人はどんどん増えています。それが全面化し硬直しているとき生き物としてのゆらぎが死んでしまうのです。

人間は生き物がベース。そしてヒトという生き物は真面目ではありません。サピエンスは好奇心が強く過剰なので、ふざけ、遊び、逸脱する、もともと大きなゆらぎをもっている生き物なんですね。

そして生き物としてのヒトは両義的で多元的なもの。そういう生き物が、ある程度失敗や試行錯誤の中で学んでいきながら、両義性や複雑性、矛盾や葛藤の中で円熟し統合されていく。

そのプロセスそのものが創造性の働き。それをつぶしてしまうというのはそのひとの可能性を奪うというだけでなく、「自ずと生じる真面目さ」をもつぶしているいるんです。

「真面目系クズ」の真面目さは「真面目さそれ自体を生きている」わけではないんですね、まじめさの形に囚われて、それしかできなくなっているだけなんです。

創造性が働いている中で「自ずと統合されたもの」と、抑圧化されてただ「ガチガチのルール通りしか動けない状態」は全く違いますが、外から「型」だけをみればどちらも真面目さのようには見える。

個別化というのはそのひとだけの結晶状態、そして「動的で調和的な自己統合」も同様に「模範の型」などありません。「模範の型」は社会化の作用による鋳型です。

それぞれの動的な調和状態に自ずとなっていくときに特有の型が生じる、というだけ。

人柄と曲、作品を結び付ける流れは「真面目系クズ」の増大の結果ともいえます。まぁしかしユーミンの「意地の悪さ」って「声」でわかるんですね、「声」のゆらぎって言語的な意味以上のものをそのゆらぎの中にもっているんです。

私は「意味」よりも「声」を聴くので、最初からそれは感じていたことですが、ユーミンの「曲」はいいですね、味わい深いです。また初期のころはユーミンの身体性もはっきり感じられました。

vaundy 「踊り子」Dr. Capitalさんによる解説と演奏の動画を以前紹介しましたが、vaundy いいですね~お気に入りです♪ ユーミンの「Z世代で好きなミュージシャン」がvaundyみたいですが、

私よりも母の世代に近いほど上の世代の人なのにvaundy のよさがわかる、そういう飽くなき観察眼、凄いですね。

 

「今のZ世代で好きなミュージシャン見つけるとすっごいうれしい」とも明かし、「例えば、Vaundyとか好きですね。たたずまいとか」と続けた。⇒  ユーミン 本当に歌が上手いと思う歌手告白 「Z世代で好きなミュージシャン見つけるとうれしい」

 

Dr. Capitalさんからは愛を感じる、音、リズム、ゆらぎそのものへの愛を。「若者、中年」みたいなカテゴライズもなく、世代や時代を超えて音楽を愛する人だ。

彼は音、リズム、ゆらぎそのものを楽しみ遊んでいる。この人自身がまさに芸術を生きている。そういう姿を見ることそのものが創造性を掻き立てるのと同時に、「音楽」のもつ独自の有限性への理解と解像度も非常に素晴らしい。

この先生の音楽の授業はきっと凄く楽しいだろうなぁと思う。

まぁこのようにいろんな角度から音楽を楽しんでいるとき、「身体」というか時代的な空気の近さを感じるとか、そういう感覚も曲によってある場合とない場合はありますね。

逆にクラシックとかもうみんな死んでいる人たちが作った曲なのに、遥か昔の人が作った曲なのに、そのゆらぎは今も身体に響いてくる。でも同じ曲なのに奏者によって全く変わってしまう。それぞれの奏者の身体の揺らぎが伝わってくるから。

過去とか現在とか、世代とか、年齢とか、そういうことではなく、ゆらぎが身体にどのように響いてくるか、その味や香りや情景や触感は異なるし、深さや強弱、その響きは異なるけれど、

「身体に響くゆらぎ」、それは昭和の人だろうと平成の人だろうと令和の人だろうと変わらない。

2018年解散したチャットモンチー 『春夏秋』から伝わる詩は、空気と呼吸がそのまま伝わってくる。「あなたを忘れる時間がない」「私だけ冬になれない」という歌詞、そしてこの曲の題名が「春夏秋」。そういう意味的なものを超えて「身体」に伝わるゆらぎ。

ゆらぎと意味世界が、「近さ」を感じさせる。この詩のゆらぎが身体に響く。異性だろうが若者だろうが年上だろうが死者だろうが関係なく。

 

 

無意識の交流 「社会」に被曝したヒトの物語

昔から日本語でも「意味」の抜けた「音だけ」で聞いていたりする。母国語の会話を外国語を聞くように「音だけ」で聞くのは誰でもやってるのかと思ったが、大人になって非常に少ないことを知った。

「意味を外して聞く」というのは脳の使い方が異なる。だから使い方が習慣化された脳は、瞬時に「自身のよく知る言語」を意味解釈してしまう。

「音」と「息」、呼吸と身体の揺らぎが生み出す波に触れていると、「意味」を聞いていないのに伝わってくる。世界は隅々まで言葉と文字であふれているが、言語的な意味世界はどこまでも社会的思考と共にある。

言語に接続される前のゆらぎ、それは「その言語で表されなければ存在しなかったもの」ではない。むしろ言語に規定されることでその何かが瞬時に見えなくなり、「存在しなかったもの」になる。そして特定の意味世界に囲い込まれ分割化されたものが存在感を帯びる。

「語られる社会(他者の言語的思考)」を「聞く」の「私」は同じく「社会(自身の言語的思考)」。

社会が社会を解釈している。「語られる社会(他者の言語的思考)」を意味を外してその呼吸と身体の揺らぎに触れるなら、他者の非言語の歌、身体の音が聴こえてくる。

他者の非言語の歌、身体の音に触れて共振し、自身の身体に波が生じる、そして自身の非言語の歌、身体の音になって相手に波が帰っていく。波と波がなんども打ち寄せあいながら、「ただ在る」「ただ居る」なかで詩が伝わりあう。

 

SNSの発達した今の時代は、抽象的なものを細かい解像度で分析する言語化能力の高い人々がいることが可視化されるけれど、歌や旋律というものはそういうものとはとはまるで異なるものを含んでいる。

何でもかんでも優劣で比較したがる心は、「言葉の使い方」をも権威化する。そもそも語彙力や言語性知能は個人差がある。

また「言葉にあまり拘らない人」は単純に「綺麗」「可愛い」などと表現することをなんらためらわないが、そのさまを見てあれこれ言いたがるのは「他者の発した言葉・使用した文字・言語」に囚われている姿でもある。

「他者の発した言葉・使用した文字・言語」から帰納的に「こういうふうにしか物事が見えていない」と断定し「こういうふうに語る方がより深く観えている」と逐一言いたがる姿にむしろ己の言葉の使い方や語彙力を権威化するさまが現れている。

生きた詩そのものはどれだけ言語化してもそこには宿らない。しかし語彙力がなく単純な言葉しか使わない人や言語化が下手な不器用な人でも、使う言葉がよくある言い回しであっても、身体から語られた言葉は詩を宿す。

言葉や概念をあまり重要視しない人は、テキトーなことをポンポン言ったり単純な表現をしたりもするが、ほんとうにそれだけしか考えていないのか?感じていないのか?といえばそうでなかったりもする。言葉や表現の豊かさや絶妙さとかに囚われすぎるあまり見えなくなるものがある。

単純な形容詞しか使わない人が、言語の使い方が巧みではなくとも身体が感じていることは非常に豊かであることは多々あり、言語による形容が豊かでも身体が感じていることはそれほどでもない、ということもある。

単純に簡単に言い放っているかのように見えて、内心ではそれほど物事を決めつけているわけでもなく、思考が柔軟で、その時々で角度を自在に変化させてくることがある。

その逆に、「複雑な言い方をするが、思考が自己完結していて権威主義的な人」もいて、表向きは絶対とか普遍とかを否定しつつ相対的であるとしつつも、実のところ思考が非常に頑なでその都度「決めつけている」ということがある。

 

「生きた詩」は身体で聞かれ、身体と身体が語り合う中で明かされる。それはポジティブなものだけではない、「深く傷つくこと」「苦悩すること」を含んでいる。

そういうものを「良かれとおもって」遠ざけてきた人々によって人は無意識の交流を失った。それは詩を失うということ。そして「伝わる」ということの多元性の喪失によって「言葉・言語化」だけが重要性を増してくる。

 

「社会が私を規定する」という作用・力学はあるが、何から何までそうではない。その外にも生は広がり、そして実存は「社会」に生成されたものではない、その外部から生成された。

だからどれだけ心の問題を囲い込み権威化したところで、常に実存それ自体はその外部を生き続ける。役割を持った技術的な仕事はどこまでも社会の領域であり、決してそれ自体に触れることはない。

その意味では身体医学とは異なり、「囲いこめない領域」はずっと広い。

実存を根底から支えるものは社会でも心理でもない。それ自体は非構築的なものなので、それらの外部にこそ「生」がある。そこを見落としていない個人は、その外部で詩そのものとしての「秘密」を生きている。

その「秘密」を大切にすること。それを権威や社会や政治の言葉で塗りつぶさないこと。そこにだけ実存の内奥への開かれが生じている。科学者には決して理解できないものがある、専門家にも学者にも決して理解できず触れられないものがある。

「特定の誰かが聞く力があって特定の誰かにはそれがない」というような能力・技術の話ではなく、ある偶然・条件が重なったその瞬間にしか誰にも明かさされないもの、というものがある。実存との一回性の出逢いというのは非常に繊細なもの。

本人が全く意図してなかった無意識の発話が、その瞬間にのみ開示される。本人すらそれがわからない。目的性をもった特定の何かや技術に頼りすぎることは管理の強化に繋がり、ゆらぎの幅を失い、むしろ心・無意識の生命力を失う。

無意識が交流するとき、「言葉というのはさほど重要ではない、聞いてもらうこともさほど重要でない、話すこともさほど重要ではない」ということが起きてくる。

ことばというものがもっとも重要なものになっていないのなら、傍からみればまったく低解像度に思える言葉でも十分。「言語による解像度」なんてそもそも求めていないのだから。それが重要になってしまったのは、それ以前にあるものが見失われたから。

「一般の人が上手く言語化できないこと」を巧みに見事に言語化するという場合の「伝わる」「伝える力」というのは、言語性知能の高さに比重があり、それも創造性の高さではあるけど、身体性というのはそういうものではないんですね。

「全く言語化できていないのに、ありありと相手の想いが伝わってくる」、そういうものが身体性による「伝わる」です。これが「ある種の身体性が双方にあるとき」というのは、無意識の同期が生じ、ほとんど言葉を必要としないまま、言葉以上のものが伝わってくる。

本当はその過程の中に知識や学んだことではわからない人の心の厚み(豊かさ)がある。しかし正と負が分離できない全体としてある心を見落とすとき、人々は「社会」を介してしか自己と他者、世界と接することが出来なくなっていく。