「令和のプチ表現の不自由展」と存在の耐えられない軽さ 

 

ファッションはアートか?」という問いが目に入り、そして様々な分野の人々によるその問いへの捉え方も一様ではないわけですが、以下↓のツィートをたまたま目撃した瞬間に思わず吹き出してしまい、

強力な笑いの引力によって「ファッションはエンタメ」ということに。

 

巣鴨で借り物競走したオカン」ってどうやったらそんな表現が瞬時に出てくるんですか(笑) きっと笑いの神に愛された人なんでしょうね。いや菅田将暉さんは嫌いじゃないしむしろ好きな俳優なんですが、「巣鴨で借り物競走したオカン」ってもう「存在の耐えられないおもろさ」。

 

存在の耐えられない軽さ

以下↓のツィート、この「のび太君の思考実験」も違う意味で凄い発想です。これは現実的に可能性アリです。一見するととんでもないように思えますが、「心の性」と「自認」の性質上、そして現在のムーブの価値基準の設定において十分にあり得るのです。

 

まぁ男性も女性も、主観的に「男性的/女性的/中性的」に感じたりすることってあると思うんですね、それがほとんどないひともいれば、かなりある人もいる、そして受け入れられないほどの違和感を感じる人もいるでしょう。

しかしそこでこの主観的な感覚を「性」だと自認すればそれが「性」になるのであれば、たとえば私が今までは男として生きてきたけれど、「心の性」として「女性」を感じるなら女性になってもいい、ということなんです。

『みなさん私は今日から女性です、誰が何と言おうと私がそう感じる以上は誰にも「あなたは女性ではない!」とは言わせません。それは差別です。私は今日から女性なので、みなさん私を女性として扱ってください』

この思考実験には根本的な問題が生じます。

もしほんとうに男性管理職の半分が「私は女性だった」と自認し、そう言い始めたなら、活動家の人々やフェミニストは「嘘に決まっている!」と全否定するでしょう。

では海外のトランス女性の中にそういう人がいないとどうしていえるんですか?何を根拠に何を基準にすればその是非を断定することが可能になるのですか?

「あの人たちは純粋にそう/この人たちは嘘ついてるだけ」という場合、ではその「純粋」というものと「嘘」というものをどうやって明確に判定しますか?「心」をどうやって明確に「これは男性」「これは女性」と判定しますか?

男性管理職の半分が「私は女性」と言い始めたとして、その中には本気で純粋に「心の性」として「女性」を感じている人がいるかもしれません。ではどうやって見分けますか?

「この人は本気っぽい」、「この人はなんか怪しい」って一体何を基準に、そして「誰が」それを選別するのですか? 選別する人は「心そのもの」を見ることが出来てしかも「これは男性」「これは女性」と判定できる超越的な存在ということになりますが、

『身体から切り離された「男性の心」「女性の心」という実体』は客観的に存在していない以上、誰であっても「こう感じる」で見分けるしかないわけです。だから判定はどこまでも「判定者の主観」でしかないということです。

まぁそもそも「判定をする」ことも差別と言ってきたわけだから、その人たちは判定をやってはいけないでしょう。

「怪しむこと」も差別、「真意を見極めようとすること」も差別であるのであれば、「自認」した人は全員認めるしかないのです。なので男性管理職の半分が「自認」した場合、全員トランス女性として認めるしかないのです。

この瞬間、ジェンダーバランス世界1達成です。ではそれをあなたは受け入れられますか?ということ。いや、「自認」した人たちを受け入れないことは差別だ、という設定でやってきた人たちはそれを受け入れるしかないのです。

よって「のび太君の思考実験」は実現可能になってしまうのです。「性の軽さ」というものは「存在の耐えられない軽さ」にもつながるものなんですね。

 

令和のプチ表現の不自由展

 

 

私は上の動画に込められた意図的なメッセージ、表現、作為自体をアートだとは思わないし、「意味」として解釈し、あるテーマにおける啓蒙的な作品だとしてもあまりにチープなものだと思います。

しかし「製作者」の「己がフレーム(私には世界がこう見えている)、その無意識をみるとき、「己がフレーム(私には世界がこう見えている)」のアートにはなっている。

「あなたには○○がどう見ていますか?」という問いに、その○○を図や映像作品等で表した場合には、「え?あなたにはそういうふうに○○が見えているのか」という全く異なる発見がある。

己がフレーム(私には世界がこう見えている)」の開示と同時に、「他者」は「製作者」の触れていない複雑な現実を生きている、ということを逆に浮き彫りにもする。

この製作者の無意識が現れている作品は「他者の現実も複雑さを知らないまま単純化して決めつける」それ自体をみせてくれる。そして「こうみるのが政治的に正しい」その力学それ自体をみせてくれる。

そして「これを否定してはならない」という「圧」が伝わってくる。

 

他者の表現が政治的正しさによって検閲され、私刑やキャンセルを受ける現在の状況において、公共空間において抑圧され不可視化される表現というのは左派的なイデオロギー、多様性やフェミニズム等ではない。

「令和の表現の不自由展」は昭和のそれとは丸っと反転している。なのでここでは「令和の表現の不自由」の方にスポットを当ててピックアップしますね。

以下にずらっと並べてますが、なんだか現代アートぽくみえなくもない。いや、やっぱりアートにはみえないか。

ここでの語りひとつひとつが「他者の触れている現実」であり「フレーム」でもある。そして令和の政治的正しさによって検閲的な扱いをされるだろう表現たちである。

 

 

 

この動画には「エスカレーターの下」がない。エスカレーターに乗らなくても生きていける可能性が高い属性と、「エスカレーターの下」が犯罪者かホームレスかガラスの地下室行きみたいになっている属性では、「下」の過酷さが違う。

そして「男がみな登りエスカレーターに乗っている」なら、みな常に昇進し常に昇給しているはずだが同じ待遇のままの人もザラ。

 

 

「このエスカレーターを製造し、設置し、修理したり点検したりするのは誰だろうか?」、下部構造、ブルーワーカーは不可視化されている。

男がみな登りエスカレーターに乗っているなら「流れに逆らって降りようとしないかぎり下に降りれない」ということになるが、仕事が出来なければ追いやられるし、転落するときは一瞬で転落し、失敗すればなかなか浮上できないこともザラ。

「このエスカレーターにそもそも乗れない人がいる」ということもカットされている。フレーミング効果を狙うにしても雑過ぎ。

 

 

肉体労働における労災や事故死、様々な危険や身体にかかる負担、血のコスト、そういう生き物としての身体性が何も伝わってこない。すべて省略して「スーツを着て立っているだけで自動的に成功する」という著しく「労働」への想像力に欠けた構図。

視野が狭すぎるか、経験知が乏しすぎるか、感性に乏しすぎるか、いずれにせよ子供でももっと大人の男性の仕事に対する想像力が豊かに働いた構図が描けるでしょう。

 

 

「上の席は男性の数だけ存在するのではなく上にいくほど少ない」ことも伝わらない図になっている。そして上に行く過程にある闘争、過労、精神的な圧、そして責任の重さも伝わらない。

この構図からは「労働」や「人間」の複雑性がまるで伝わらない。どこまでも無機質に平坦に単純化されている。この他者への眼差しそのものが「存在の耐えられない軽さ」である。

「存在の耐えられない軽さ」を表そうとしている本人がそれ自体であるということがこの作品のパラドックス性。

一部の高学歴のインテリやアカデミアにはこんな風に世界が見えているとしたら、それはその人が労働の多元性をあまりにも知らないまま生きてこれた特権階級か、狭量で思考の硬直化した人であり、己が思考を自己投影することしかできない状態なのでしょう。

 

 

「エスカレーター」とか「自動ドア」という表現は男性の個々の人生の複雑性をあまりにも単純化している。何より驚くのが一部のアカデミアがそんな概念しか生み出せず、単純な思考しかできないということである。

まさに「存在の耐えられない軽さ」。そのようである一部の人文学者の在り方が世間から「不要」といわれても仕方ないだろう。

「エスカレーター」とか「自動ドア」というような表現は、ネットの造語やスラングの次元の物事の単純化であり、むしろ後者の方が風刺が効いていて芸があるとすらいえます。

学者が学者として分析するというのであれば、そんな単純な思考ではなく、もっと複雑なものを複雑なままとらえていく思考の細やかさが求められるでしょう。

主語が大きいなんていう程度ではなく、「そのようにみえているものたち(そうであると決めつけようとしているものたち)」の悪意、敵意すら感じる構図であり、アンコンシャスバイアスを露呈しているんですね。

そういう「他者」への眼差しである以上は、複雑な他者の現実に何も触れようとしていない姿勢なのだから「無知」のままであり、現実の問題は何も解決はしない。極端な単純化をしながらむりやり解決などしようとすれば大きな問題を逆に生み出してしまうだけ。