時間論 と死生観 「禅」という知恵の結晶
今日は、日本の美 日本の心 part3 で「死生観」をメインのテーマに書いていこうと思います。 part1、part2は以下のリンクよりどうぞ。
〇 日本の美 日本の心 part1 自然と季節と神道文化
〇 匠と職人の精神と文化遺産 日本の美 日本の心 part2
故小椋佳さん作詞・作曲の「愛燦燦」の歌詞の中に、「人生って 不思議なものですね」「人生って 嬉しいものですね」「人は哀しい 哀しいものですね」 「人はかよわい かよわいものですね 」「人はかわいい かわいいものですね」 という歌詞があります。
こういう言葉の中にも、日本の伝統文化の精神と心、死生観 そして、知恵や美が込められていると感じます。
人が「死ぬときに後悔すること」「余命いくばくもない状態で、後悔すること」を、終末期医療の実践医である大津秀一氏が直接その現場で本人に聞いて「想い」をまとめたものが、『死ぬときに後悔すること25』です。
今回はこれに加えて「ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5」と、海外版の「人が死ぬ前に後悔する20のこと」を続けて紹介します。
そこで得られた人の言葉というものは、人生の後悔と本心はみなどこか似ているなぁと感じさせるもので、とてもシンプルです。
「人は哀しい 哀しいもの」 「人はかよわい かよわいもの 」「人はかわいい かわいいもの」 ということを感じずにはいられません。
『死ぬときに後悔すること25』より引用抜粋
● 健康を大切にしなかったこと ● たばこを止めなかったこと ● 生前の意思を示さなかったこと ● 治療の意味を見失ってしまったこと ● 自分のやりたいことをやらなかったこと ● 夢をかなえられなかったこと ● 悪事に手を染めたこと ● 感情に振り回された一生を過ごしたこと
● 他人に優しくなかったこと ● 自分が一番と信じて疑わなかったこと ● 遺産をどうするかを決めなかったこと ● 自分の葬儀を考えなかったこと ● 故郷に帰らなかったこと ● 美味しいものを食べておかなかったこと
● 仕事ばかりで趣味に時間を割かなかったこと ● 行きたい場所に旅行しなかったこと ● 会いたい人に会っておかなかったこと ● 記憶に残る恋愛をしなかったこと ● 結婚をしなかったこと ● 子供を育てなかったこと ● 子供を結婚させなかったこと
● 自分の生きた証を残さなかったこと ● 生と死の問題を乗り越えられなかったこと ● 神仏の教えを知らなかったこと ● 愛する人に「ありがとう」と伝えなかったこと
ー 引用抜粋ここまで ー
「ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5」より引用抜粋
1. 「自分自身に忠実に生きれば良かった」
2. 「あんなに一生懸命働かなくても良かった」
3. 「もっと自分の気持ちを表す勇気を持てば良かった」
4. 「友人関係を続けていれば良かった」
5. 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」
引用元 ⇒ ナースが聞いた「死ぬ前に語られる後悔」トップ5
◆ 海外の場合
「これからの人生の指針に 人が死ぬ前に後悔する20のこと」より引用抜粋
1. 他人からどう思われているかを気にし過ぎなければよかった
2. もっと多くのことを達成しておけばよかった
3. もっと本心を伝えておけばよかった
4. もっと自分を出せばよかった
5. もっと自分の情熱を追いかければよかった
6. 最後の会話が口論じゃなければよかった
7. 子供たちに自分の価値観を押しつけなければよかった
8. もっと「いま」を生きればよかった
9. 働き過ぎなければよかった
10. もっと旅行に行っておけばよかった
11. 他人の意見よりも自分の感性を信じればよかった
12. 自分自身をもっといたわっておけばよかった
13. もっと新しいことに挑戦すればよかった
14. もっと時間があればよかった
15. 取り越し苦労をしなければよかった
16. もっと感謝をしておけばよかった
17. もっと家族と一緒に時間を過ごせばよかった
18. 自分自身を悲観的にとらえていなければよかった
19. もっと他人のために行動をすればよかった
20. もっと幸せを感じていればよかった
引用元 ⇒ http://blog.bumblebee-network.com/entry/20-things-people-regret-the-most-before-they-die
以下リンク先にて紹介の連載記事は、川嶋朗 著『医者が教える人が死ぬときに後悔する34のリスト』(アスコム)から一部抜粋・編集した連載記事です。
◆ 生きているうちに「ごめんなさい」と言えなかった
◆ 人を恨み続けてしまった
◆ ストレスの多い人生を送ってしまった
◆ 「なぜ生きたいのか」を真剣に考えてこなかった
もうひとつ、中山 祐次郎 著 『幸せな死のために一刻も早くあなたにお伝えしたいこと 若き外科医が見つめた「いのち」の現場三百六十五日 』もおすすめです。
西洋の時間論 (ハイデガー)・死生観
死がそのミノをもって彫ったのではないどんな思想も、わたしのなかには存在しない (ミケランジェロ)
死というものがなかったら、この地上には詩人が生まれなかった(トーマス・マン)
米国アップル社の創業者の1人だったスティーブ・ジョブズ氏は、生前こう言っていました。「もし今日が人生最後の日だとしたら、今日やる予定を本当にやりたいだろうか」 この彼の人生観には「禅」の精神を感じさせます。
そして古代ギリシアの哲学者たちは、「哲学というものは死の問題の研究以上のなにものでもない」と語り、また後世に多大な影響を与えたハイデガーの哲学もまた、「死」というものが意識されたところから生の認識を問いかけています。
ハイデガーは人を「死への存在」と定義し、人が死を明確な現実として捉えることで自他の死という現実と向き合って、そのことが「どう生きるのか」の生への意志と姿勢を決めるという認識であり、
人の生はいずれ誰でも「終わる」ものである、という明瞭な現実認識を持つ時、人は「今ある時間と生」のかけがえのなさを自覚し、「今ある時間と生」の中で本当に大切なものだけを 選んで行動しようと意識する、という死生観です。
私は脳科学的な機械論的な唯物的生命観を部分(ハードとしての身体機能)の領域に限りそれを肯定はしていても、「人間の全体性」としては否定するのは、
人とロボット(機械論的な唯物的生命観)の永遠の違いは、生まれ老い死ぬというこの現実の時間の中で、絶えず「始まりと終わり」の制約から、現在の瞬間を見つめる主観を持って生きている「命ある存在」と、「出生も死もなく機能だけが存在する物質的な存在」の決定的な違いでもあると感じます。
もちろん、機械論的な唯物的生命観では全く見落とされている人間や生命の全体性は他にもありますが。
ヘムルートによれば、ハイデガーの死生観は禅と重なると語られています。ハイデガーは歴史的な大思想家であり、その思想に対しては賛否両論はありますが、私は「部分的」にはハイデガーの死生観を肯定しています。
「Goethe-Institut」 より引用抜粋
「なぜハイデッガーはそれほど重要か」
『存在と時間』では、人間の存在の本来性と非本来性が論じられるが、さしたってたいていの場合、人として非本来的に存在している人間を、本来性に呼び込むのが「良心」であるが、
良心は「声のない沈黙の声」によって人として非本来的に存在している人間に呼びかける。この声のない声こそが、我々自身がそれである「なぜの問」の呼び声なのである。本来性とはこの声に応じてなぜの問いをまともに問い、そのことによって自分自身に立ち返ることなのである。
このように「なぜの問が」我々自身であること、そして、この問を問うことによってのみ我々が我々自身になることが語られている。
すると、現在の様々な営みの中で、なぜの問を奇矯な問として受けとめ、回避し、素通りしている人は、まさにその多忙な営みの中で自分自身に直面しておらず、自分自身を素通りしていることになる。科学的知識を追求し、
データとして貯め込めばため込むほど、この様な知識と技術を利用して利益を貯め込めば貯め込むほど、人は自己自身を素通りする。そしてこの様な活動が国家規模のプロジェクトとしてより大規模に、積極的に展開されるとき、人は自分自身に気が付くことさえほとんどなくなる。
この様な状況こそニヒリズムである。ニヒリズムとは、現に今我々が生きているこの状態のことなのだ。だが、このような状況下でも「なぜの問」は我々 を追いかけてくる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ なぜハイデッガーはそれほど重要か
◆ 松本 啓二朗 文献⇒ 後期ハイデガーと仏教の近さ
◆ その他 ハイデガーの参考記事紹介
〇 D ハイデッガー
〇 M・ハイデッガー『哲学への寄与論稿』における「最後の神」について/『ヘルダーリンの詩作の解明』
〇 ハイデガー博士の実験 DR. HEIDEGGER’S EXPERIMENT
「禅」という知恵の結晶
ですが、それはやはり西洋的な「思考・知能」に偏った分析だなぁと感じます。西洋哲学全体がそういうものだと私は感じるんですね。私は禅の哲学の方がより深くより全体を捉えているものだと感じます。
そういう意味では、日本には既にハイデガーを超える死生観の哲学と傑出した精神文化があるわけなんですね。(残念ながら多くの人々には忘れ去られていますが。)
スティーブ・ジョブズ氏に影響を受けた人々や我田引水する人々が、例えば彼の「愚かであれ」という言葉を曲解して、世間には全く受け入れられない狂気さえ肯定するような用い方は非常に愚かなものだと感じますね。ジョブズはみなが何か大きな起業のようなことをやれ、とは一言も言っていないし、そういうことではないんですね。
それぞれの時間中で、それぞれの生をかけがえのないものとして生きるという気持ちが大切であり、そしてそれぞれが人の目ばかり気にせずに、その人に合った個性を自己実現していけばいいという意味です。
その自己実現の過程で多少人に笑われても気にしないくらいの良い意味での「愚かさ」を持とう、と彼は言っているわけです。もちろんその個性というのは、カルトやブラック企業経営者やイカレタ一部の政治家や権力者のような利己的な自己肥大した個性ではなく、
「あなたの持って生まれた先天的な感性や能力が開花し、それが社会生活にも肯定的な形で還元される個性」の意味です。
また「死」と「生」を考察する際に、「死後の世界」や「オカルト的な霊的世界観」などを過剰に持ち出す必要はありません。「現在のありのままの生」と向き合い、それを知ることの中には、「死のありのまま」と向き合い、それを知ることの姿勢も含まれているからです。
「よき死はよき生」そして「よき生はよき死」という意味において、生の教育のみに編重しない「死」を含めた死生観が必要だと感じますね。
⇒ 日本人と中国人の死生観を読み解く : 文化の違いに基づき、実践調査を参考に
道元の時間論
「道元の時間論」をシンプルに表現しているものとして道元の「正法眼蔵」の巻頭の章「現成公案」第三節 前後裁断があります。以下に関連記事を紹介し記事の終わりとします。
「道元の時間論」 より引用抜粋
(前略)
道元は、「有」を「存在」とし「時」を「時間」として、存在と時間が一体であることを示している。つまり、時間は存在であり、存在は時間である、というのである。
この『正法眼蔵』「有時」の中に、時間論に関わる道元の有名な言葉がある。いはゆる有時は、時じすでにこれ有うなり、有はみな時なり。 <いわゆる有時というのは、時(時間)がすでに有(存在)であり、有はみな時であるということである。>
私たちは、思考の中で、わたしたちが生きているこの世界を分析して、時間と存在を区別して考えることができる。同様に、身(肉体)と心(精神)を区別したり、自分と環境を分け隔てて考える。しかしこれらは分けることができないというのが仏教の基本的な考え方である。
(中略)
自分と、自分を取り巻く環境。これも同じである。自分と自分以外の物が存在するのではない。全てがつながっている。環境が汚染されれば、私の身体も汚染される。時間と存在もそうである。すべての時間は常に変化している。その「変化する」ということが時間である。時間は存在として現れており、存在はみな時間なのである。
(中略)
「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり」とは、すべての存在は、連続して存在しているように見えるが、一瞬一瞬は途切れているという意味である。西田幾太郎は、このことを「不連続の連続」という言葉で表した。時は過ぎるのではなく、積み重なっていくということであろうか。
(中略)
そのような時間を、道元はひたすら仏道を修行することに費やした。四六時中が仏としての生き方の実践であった。すべての時間が修行であった道元。だから道元にとって時間とは修行そのものであった。それが道元の時間論である。
音楽家にとって時間とは音楽であり、詩人にとって時間とは詩であろう。あなたにとって時間とは。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ http://www7.plala.or.jp/bumboo/amulet/5/np/2013/np18.html
僕自身の自己実現、、、、
合わないパーツとして過剰に自己否定と自己変革を求められた事 も、それに抗い全てを壊すまで反抗した事 も、ドチラも、僕自身の自己実現を遠ざける、凝り固まったバイアスでしかなかった事に気が付かされます。
真ん中が一番イイ。
解っているのだけれども、其れが出来ない。
このページの幾つかを読み解き、理解し、自分を受け入れていく事で、ようやく、、、少しづつ立ち直れてきていると感じます。
ありがとうございます。