男女の恋の心理学 論理的理解・知能的思考の限界
優れたアーティストの歌詞には、ヘタな心理学者なんて遥かに超える心の深い観察を感じさせる歌詞がたまにあります。しかもそれは哲学のような難解な言葉の使い方ではなく、とてもシンプルなコトバであることが殆どです。
また芸術家やことわざ・格言の中にもシンプルながら深い意味が込められた表現があります。そういうものは具体的な解決策やメカニズムを解明するようなものではありませんが、
心を癒す効果や、落ち込んでいた気持ちを元気づけたり、ネガティブになり過ぎて踏み外しそうになっていた気持ちを、スッと元に戻してくれたりするような効果があります。私はこれを決して小さな効果とは思いません。
そういう心理効果を、わかりやすく心に響くシンプルな言葉とメロディーで表現するアーティストというのはやっぱり凄いなぁと思います。
今日は「鬼束ちひろ」の曲と、「男女の名言」を幾つか紹介しますね。
一人の女しか愛さない男はしばしばもっとも幸福な生活を送るが 死ぬときはもっとも孤独な死にかたをする。(へミングウェイ)
男は建設すべきものも、破壊すべきものもなくなると、非常に不幸を感じるものである。 (アラン)
母親は少年を一人の男にするのに20年かかる。別の女性はその少年を20分でバカにする。 (フロスト)
嫉妬は千の目を持っている。しかし、一つも正しく見えない。(ユダヤの格言)
女は自分の美点のために愛されることにときとして同意するが、常に好むのは、自分の欠点のために愛してくれる人のほうだ。(A・プレヴォ)
女は愛されることを求め、理解されることを求めない。(ワイルド)
鬼束ちひろ – 流星群
幸福な結婚がまれなのは、女性が網をつくるのに忙しくて、かごを作る努力をしないからだ。(スウィフト)
愛している女は、男から愛されていないのではないかといつも恐れている。 愛していない女は、男から愛されているといつもうぬぼれている。(ディワイエ)
結婚とは、熱病とは反対に、発熱で始まり悪寒で終わる。(リヒテンベルグ)
男は恋を恋することより始めて、女を恋することに終わる。女は男を恋することよりはじめて、 恋を恋することに終わる。(グールモン)
これが男というものです。計画だけはみんな悪者ですが、そのくせ実行となると、弱気になって、それを誠実だというのです。(ランクロ)
女達は、なぜとか、どうしてとかいう事を抜きにして愛されることを願う。 可愛らしいとか、善良だとか、上品だとか、頭がいいとかいう理由ではなく、彼女らは彼女自身でありたいからだ。(アミエル)
鬼束ちひろ – 茨の海
四十歳をすぎると、男は自分の習慣と結婚してしまう。(メレディス)
女は男よりも利口である。というのも、女は知ることは少なく、理解することがより多いから。 (ステファンズ)
男の顔は履歴書、女の顔は請求書だ。 (藤本義)
翻訳は女性のようなものである。 美しければ忠実じゃないし、忠実であれば、きっと美しくない。(ポーランドの諺)
女とは驚くべき存在だ。なにも考えていないか、別の事を考えているか、そのどちらかだ。 (デュマ)
「論理的理解・知能的思考」に偏り過ぎた分析の見落とし
一般的に認知心理学のような純粋に科学的な考察による学問・研究としての心・精神へのアプローチでも、理解を深めていくことはある程度までは可能でしょう。
まぁ人間と殆ど関わらないとか、性格的・思考的に偏りが大きいヒトであれば、学者でも考察はかなり偏るでしょうが、そうでなければ認知心理学の領域は学者が一番活躍する領域でしょう。
発達心理学とか深層心理学などは、「感性的な理解」「経験」があるかないかで認識の深さはかなり変わってくるものだと感じますね。なので学問的追求だけでは限界があるでしょう。特に無意識の領域に関しては、理論的認識・学問的探求だけでは、全く理解できないことがあるでしょう。
それらと比較すると世間一般での「男女の心理」というものはまた少し違い、科学的な考察での研究とか、単独で感性的に対象を判断して全て理解できるか?というと、そういう単純な学問対象ではなくて、
男女のリアルな相互関係の中で、経験的に認識する基盤があって初めて理解出来るものであり、「関係と経験」のウエイトが大きいので、
「モテたい、好きな人をゲットしたいんだけど具体的どうすればいいの?」というようなアドバイスに関しては、心理学者とかではなくて「その道に長けた人」に聞くのがやっぱり一番でしょう。
私がこのテーマで心理学的に言えることは、女性を落とす心理テクニックのような恋愛術みたいなものではなく、どういう男女の関係性がバランスが良いか」とか、「どういうメカニズムで男女の認識の差異や不調和や問題が起きてくるのか」とか、そういう男女関係の本質的な部分の心理学的考察ですね。
とはいえ、他の心理学にせよ、人の心というものを見るということは、私は学問・知識や科学的分析だけで到底わかるものではないと感じています。
このブログは、心・病の病気と健康、そして幸福と不幸もテーマにして書いていますが、日常生活で私は西洋哲学的な思考や理系的な理論的考察ということは殆どしません。
何故なら、科学者や学者的な対象の理解の仕方では、逆にその全体性を理解できないような領域というものが多々あるからで、知能至上主義的な人々が論理的理解力には長けていても、感性として物事を理解していないために見落としていることは実際に凄く多いんですね。
学者のような知識や論理性を持たなくても、感性による理解力が高くて学者以上の現実的な能力を各分野や現場で発揮する人は沢山いるわけですね。
社会学者が社会を一番理解しているというのなら、彼等は何故社会に全く影響力を与えられないのでしょうか? 彼らの意見や主張で多くの人が本当に動いたり社会に大きな変化を与えたりしていますか?
経済学者がその経済理論で世界経済、あるいは自身の経済状態を一番正確に分析することが出来、また最高の状態にコントロール出来ますか?
心理学者や精神科医が人間の心や精神を一番理解してるというのなら、自身の心・精神及び人生を誰よりも最適に最高のパフォーマンスの状態でコントロール出来ていますか?
実際はそういう学問的な人々の持つ「学問的な知識やディベート能力や論理的思考力」や専門知というものは、「それのみで他者より優越している」というだけでは全く意味がなく不十分なんですね。
そういうものがあまり優れてなくても「現実的な実践力・才能・魅力・理解力・影響力を持って社会や文化を動かしている人」が世の中には沢山いるわけです。
なので私は論理的考察での思考的理解や専門知は、純粋に明瞭な定義の領域内(専門分野内・科学全般や技術全般)では高度に有益に働くことは認めても、
それ以外の「複合的な現象や対象の全体性」を理解することにおいては、むしろ多くの見落としが生じ、そして見落とされる部分の方がより本質的な場合がある、と感じることがよくあるんですね。