心の軸がブレやすい人 自己統合と「知・情・意」
この記事は前の記事の続きのテーマ「知・情・意」を含んでいます。「禅・瞑想」「自我の病理」のカテゴリーを含んだテーマで、記事の内容はあまり一般向けの記事内容ではありません。
このようなテーマで記事を書く時は、「無意識」を含めて考察しているので、一般の方にはわかりにくい内容となるでしょう。
この記事の対象としては、「心・精神のバランスを崩した人」、「社会の負の力学の作用を深く経験し、同時に感性的な理解を持っている方」、「無意識的な自我の運動に感性的な理解力のある方」、「現在の社会に根本的な疑問があり、もっと人間が人間らしく生きれる社会を考えている方」などが対象となります。
具体的には「心の軸がブレやすい人」の自我の反動パターンを幾つか分析しているのと、現代社会の「自己統合」「知・情・意」の関係性と、
このブログで言うところの「自己統合」「知・情・意」の関係性の違いを書いています。ラストに「科学の役割」という補足記事も追加しています。
「心・精神の軸がブレやすい人」は、「一時の感情の昂揚感や湧き上がる本能的なパワー」で理性を無価値化し、深く熟考することをやめて、動物的なその時その時の衝動で「今」を乗り越えようとしてみたり、(短絡的過ぎるポジティブマインドや刹那的快楽主義なども含む。)
逆に「観念・知性・理性」を過剰に強化し、感情の昂揚感や本能的なものを抑え込んで、自我運動をガッチリと固め狭めることで「不安定さ」をなくそうとしたりする(潔癖症や強迫観念的な自我防衛なども含む。)ことがありますが、
これらの「自我の不安定さから安定へ向けた反動的な回避運動」そのものが、逆に分離を強め、潜在的な「恐怖・不安・硬直性・束縛・敵対・反発」を生み出している、という全体性は見えていないことがあります。
いえむしろ、「それが見えていないから無意識的にそうする」、と言った方がよいでしょう。それらはいずれも分離的であり、前者は生理的興奮による一時的な解放感であり、後者は自我の「硬直的な統合」です。
後者の「硬直的な統合」は、現代社会の閉塞感や教育・学びの限界を生み出している「強迫性の心理」の原因のひとつでもありますが、それはまた次回に書きます。
自己統合と「知・情・意」
生理的興奮による一時的な解放感が別に悪いわけではありません。むしろそれは誰でも適度に必要です。また、自我の「硬直的な統合」も現代の一般的な教育・社会状況で見るならば、そうなるもの仕方のないこともあるでしょう。
要はこれもバランスの問題なんですね。「知・情・意」のバランスが大きく崩れるほどその状態が過剰化した時、様々な自他への負の影響が起きてくることがあるんです。
では何故、「心の軸がブレやすい人」は理性と感性のバランスが大きく崩れるのでしょうか?それは「両者が内的に対立的なものとなっている」、あるいは、「どちらか一方が強く抑圧され不調和な構造になっている」からです。
そして「理性と感性のバランスが大きく崩れている内的状態」だからこそ「心の軸がブレやすい」のです。「軸」というのは「統合する力」、「バランスを保つ力」と言ってもよいでしょう。
私の考える「自己統合」というのは、「頭デッカチな理屈屋・常識人間」のことでもなければ、「息苦しい道徳に過剰に同化した人間」でもなければ、
「大人しい真面目な良い子」のことでもなければ、「やりたい放題で何でもありな人間」でもなければ、「宗教的・思想的な観念への同化」でもなく、「変態・狂気的な個性」のことでもなく、そのいずれかに向かうものではないんですね。
例えば一般的な意味での「自己統合」は、宗教人や一般人でも見られますが、多くの場合それは硬直的で排他的・観念的な「分離的統合」であるため、
むしろ観念的な束縛を強め、理解力を狭め、「他の別の観念による分離的統合をしている者達」に対する敵対・反発・不和を強化する自我運動となることもよく見受けられます。
このブログで意味するところの自己統合は、「通常の意味での自己統合」からの解放であり、「抑圧・束縛・同化」からの解放状態から生じる「存在の全体性」が、再び生き生きと機能回復していくことで生まれる「知・情・意」の豊かな働きを調和させることなんですね。
ただ、「知・情・意」の豊かな働きが無意識的に解放されているだけであるのであれば、それは、光と闇をどちらも濃くする「旧来の社会の自我状態」へ逆戻りです。
それを「抑圧・束縛・同化」によって矯正・均一化し、「存在の活力を弱める」ことで表面的に調和・統合させているのが「今の社会」です。
その無機的な「工場の大量生産の製品」のような、「鋳型に無理やりはめ込まれて生み出された規格化された人格」は、機械的・強迫観念的に社会に過剰適応させられた「硬直した自己統合」であり、
その結果、その作用をより強く受けた人々は、「死なないために、ただ生きるために生きるような人生」を、いくらかの気晴らしと生理的興奮で誤魔化しつつ、
「死んだような人生」に「一時的な生きてる感」を与えつつ、「自我の安定を維持・固定化して自我の崩壊を防御しながら日々をやり過ごす」という、「惰性的な消耗品化した人生観」に収束していくわけですね。
「知・情・意」の豊かな働きを無意識的に解放していた昔の社会、そしてそのことによって生まれた様々な社会問題への対応・反応として、
逆に無意識を過剰に抑圧して管理する方向へと向った現代・先進国社会において、そのどちらもが「質の異なる大きなヒズミ」を生み出し、「質の異なる機能不全社会」へと収束しているわけです。
よって、「存在の全体性」が再び生き生きと機能回復していくことで生まれる「知・情・意」の豊かな働きを、成長過程で調和させながら「自立した個々の自己統合状態」へ向かい、
それをベースに「自立した自由な個の働きが全体に還元される社会」へと更新・進化することで、「個々が生かされることが、全体の発展につながる社会」になる、というわけですね。
現在のように「存在の活力・能力・創造性」が充分に生かされず、「至る所で個の心・精神が殺され、あるいは死んだように犠牲的に生かされることで、機能不全化した社会を何とか維持するしかない、という硬直化した人生」とは全く質の違うものなんです。
科学の役割
「心・精神の軸がブレやすい人」の中には、宗教文化や未知なるものを全否定すると、次は科学を盲信することで「自我の安定」に置き換えることがありますが、
それは一時的には有効なこともありますが、科学および心・精神へのアプローチとしては本質的にズレていますね。科学は本来、「固定的・普遍の絶対の中心性」を持つ伝統宗教の物語ような「ヒトの自我を支える文化的役割」を持つものではなく、
「不安定な人々を支えるために、あるいは人間の価値基準の枠組みとして作られたもの」ではなく、また「未知」を否定するために科学が存在するのではありません。
ヒトの生活・暮らしに役に立ち、便利・快適にし、また様々な謎や原因を明確にするために科学の役割・存在意義があるんですね。
そして、最先端の探求にチャレンジする科学者ほど、神秘の存在を実感しているものです。(宗教者とは違う感覚であるが、似ている部分もある。)
脳科学者もそうですね、一部の脳科学者(自称?)が、ああだこうだを絶対的な結論のような目線で語っていたりすることがたまにありますが、
真摯な学者は「人体にはまだわからないことが沢山ある、理解を深めれば深めるほど神秘・謎が深まる」という真実を誠実に謙虚に語りもします。何かを探求する者は、そういう誠実・謙虚な科学者のような姿勢を多少は見習ってほしいところですね。
常識の過剰な押し付けや、現時点での科学的解明を「絶対で全ての基準」とすることは出来ません。あくまでも「部分的」な事実・真実、あるいは仮説に過ぎないからです。