昇華と倒錯性 認知フレームを超えて
秋も徐々に深まってきましたね。久しぶりの更新です。まずは一曲♪ 秋になると聴きたくなるアデルの「Don’t You Remember」、今回はBenedetta CarettaさんのCoverです、う~ん良い、好きな声質ですね。
Don’t You Remember – Adele
「昇華と倒錯性」を前半で、後半に「認知フレームを超えて」で書いています。先に記事をひとつ引用・紹介です。
(前略)
人間のセクシュアリティは、幼児期に親に(排泄の)世話をされて体(性器)を触られる刺激を快に転化することが根本にある。それは「倒錯」的であり——嫌なことが快に反転するのだから——、人間は全員倒錯している、とされる。これはラプランシュ『精神分析における生と死』で論じられている。
(中略)
他の社会関係でも不快はあるし、また事物との物理的関係でも不快はあるのだから、人間が生きること全般にマゾヒズムが必要なのである
(中略)
第一次的に「不快を快に転化する」機構がそもそもなければならない。そこを崩すと、もう普通の異性愛も成り立たない。引用元 ⇒ セクシュアリティの消滅
上に紹介の記事はジャン・ラプランシュの「精神分析」での考え方ですが、今回は創造性の「昇華」がテーマなので、関連する内容として紹介しました。
「不快」に対する逃避や攻撃などの行動は、専門的には「不快情動行動」と呼ばれるものですね。 そして「刺激」への「慣れ」は、心理学における概念で「馴化」と呼ばれています。
そして「不快を快に転化する機構」というものは、「神経」のメカニズムでいえば、「同時活性化モデル」の話で、実際に身体にはこれが備わっています。元々「生物学的な身体」が「そういう風に出来ている」わけですね。
ただ「強度モデル」での「恐怖を感じにくいタイプの人」という個体差があり、それが快不快のどちらが強く出るかの差になっている、ということです。
「同時活性化モデル」に関して、脳科学者の池谷裕二氏がとてもわかりやすく説明している記事があるので、以下に引用・紹介しておきますね。
「東京大学教授・脳科学者 池谷裕二氏が語る“ホラー”がエンターテイメントたり得る理由」 より引用抜粋
(前略)
池谷氏:
つまり、恐怖を感じることと快を感じることというのは、脳の中の回路でどちらかが上がれば反対が下がるというシーソーのような関係にあるのではないんです。じつは脳はいいものも厭なものもあまり区別しておらず、同時に活性化させているんですね。――ではホラーが好きな人も快感を覚えると同時に、じつは怖がっていると。
池谷氏:
たとえば、手元からお金が出ていくとき、我々は損をしたような不快感を覚えるわけですが、じつは快感神経も同時に活動しているんです。後者が強いと、ショッピングでお金を使うことに快感を覚えます。――ああ、ソーシャルゲームの「ガチャ」なんて、まさにそういう楽しさがある気がします。
池谷氏:
身体で言えば、針を刺したときは痛みの神経が走りますが、それと同時に「快感」の神経もいっしょに働くんですね。これは下行性抑制神経と言って、感覚器官から痛みの信号が伝わる経路を途中でブロックする働きをしており、「痛くない」という思いを刺激してくれるんです。こうなった理由は、人間が痛みを感じるだけだと非常にマズいからだと考えられます。痛くないと思う神経も同時にないと生存に不利なんです。
――痛いだけのほうが危険がわかっていい気もしますが……それはなぜでしょうか?
池谷氏:
たとえばライオンに追いつかれて囓られたとして、そのとき痛みにうずくまっているとそのまま食べられてしまいますよね。囓られて痛かったら、負傷したことは認識しなければなりませんが、それと同時にしばらく痛みを止めておき、そのあいだに逃げなければならない。そこで痛みを止める神経回路を脳は発達させているんです。
じつは、そのとき脳内では、モルヒネなどの麻薬が作用する部分が恍惚を導いています。だから麻薬をやっている人はあまり痛みを感じませんし、手術のときや病気が末期に至った人にもモルヒネが処方されたりします。
――本当に身の危険がある場合は、逃げなきゃイケない、と。それにしても、よく冗談などで「脳内麻薬が」と言いますが、本当にそういうことなんですね(笑)。
池谷氏:
快感の神経が痛みと同時に走らなかったら、もっと痛く感じるはずなんですよ。ですが、人によってバランスは異なっており、ちょっとでも快感が勝ってしまうと、痛みが気持ちよくなるんですよね。――あー。まあ、あまり露骨な言いかたはアレですが、SMの趣味なんかはまさに……。
池谷氏:
ええ。痛みが快感、それが趣味という方はいますよね。ふたつの神経競合のアンバランスによって、そちらの方向にいくことがあるんです。ただ、それをヘンな趣味として片付けてはならない。私たちみんなにとって、じつは痛みは快感なんです。たとえばおしっこをする行為。あれはとても痛いはずなんですよ。
――え? ああでも、敏感なところを物が通りますからね……。
池谷氏:
そう。性交も本当はとても痛いものなんですよ。ですが痛みを消す作用のある神経が勝ることによって、おしっこを快感にしているんですね。用を足すとスッキリしますよね。じつは赤ん坊を見ているとわかるんですが、赤ん坊はおしっこが厭なんです。
皆さん、赤ん坊はオムツが濡れて気持ち悪いから泣いていると思っていますが、調べてみると、おしっこしている最中、あるいはする前から泣いているんですよ。尿意や放尿感が不快なんですね。実際、いまのオムツは性能もよく吸うので、出た後はあまり泣きません。
僕らは「用を足したらスッキリする」こと自体を学習しているので、用を足すこと自体がいつの間にか快感になっているし、それが苦痛だということにもはや気づいていないんですね。
――さすがに、気づいていませんでした(笑)。
池谷氏:
基本的に僕らはみんなマゾヒストです。痛みが快感なんです。極端な例がそういうプレイになるのかもしれないし、人によってはランナーズハイなどの形で現れます。- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 東京大学教授・脳科学者 池谷裕二氏が語る“ホラー”がエンターテイメントたり得る理由
私が最近よく思うのは、過剰な「傷つき」への配慮から、不快な刺激を与えないように先回りして経験を避けさせると、この「身体」の持つ能力が活性化されず、
「生き物としての強さ、耐性」という基本的な力を失う、弱化させる、という意味で、「人間としての」というよりむしろ「野生」「動物としての力」を失う、ということの方を危惧しています。
「身体が引き継いだ遺産」である「イキモノとしての能力」を退化させていくことで、人が根源的に脆弱化していく、という危機にスポットを当てています。
「自然界で生きる野生状態」というのは、不快、不潔、恐怖、不安、苦痛、予測不能さ、まさに「偶然性」の塊のような生です。「運」が優位の不安定なカオスの自由世界です。
その「剥き出しの野生のカオス」からもたらされる環境ストレスを制御することで、自然界とは異なる人間社会が形成されています。
しかし本来ヒトは、そういう「ゆらぎの大きい不安定な生」の中で、不快を快に変える耐性や変容する力、回復力等の適応力、生きる力、身体の知を身につけ、その身体遺産は「無意識」として身体に引き継がれてきたわけです。
「ヒト」はイキモノであり、創造性の根源的なエネルギーと繋がっているため、それ自体は過剰で自由なゆらぎです。それは非社会的であり非ニンゲン的なものを含む生命の無意識をその根源に持つからです。
フロイトの概念を使えば、エスの無形のゆらぎが、「教育」や「大人」との接触によって社会化された形式に矯正される過程で、ニンゲンの超自我が生じます。ニンゲンはヒトを抑圧しています。
フロイト的にいうなら、「ヒトという動物」への「条件づけ」によって、ヒトを去勢しながらニンゲン化するのです。しかしヒトへの去勢が過剰すぎると、社会への過剰適応となり、硬直した統合状態になってしまいます。
そして、快適で安全で清潔で計画的で、苦痛や恐怖や不安を出来る限り排除した効率化されたニンゲン社会は、森岡正博氏のいうところの「無痛化する社会」に向かい、「身体」の生きる力、身体の知性を劣化させている、ということです。
硬直した身体性から生じる自己は、ゆらぎのダイナミズムを失い、「創造性」を失います。その結果ダイナミックな「昇華」や「変容」が生じなくなり、
「社会の規範的ペット」として、「全てがよく守られよく予測されよく計画された必然の生」という「綺麗で優しい監獄」に自発的隷従するのです。
そうやって、身体の試行錯誤の機会を失った身体は、身体の持つ能力を劣化させてしまい、もはや昇華することができなくなるため、「運」や「偶然」を過度に避けるようになり、
リスクを伴う可能性への追及や、予測不能な未知に向かう突破力を失うのです。「苦脳」や「逸脱性」をとにかく「不快」「悪」にしていく姿勢では、「身体」が持つ可能性を引き出せなくなるのです。
アンドレセン氏は、創造的なプロセスにおいて最も重要な性質のひとつは「粘り強さ」だと述べる。
アイオワ州のライターたちの例を引用しながら、「成功したライターは、絶え間なく打たれ続けながら、決して負けない選手たちのようだ」と同氏は述べている。
「残念なことだが、『優れた創造を生み出す』ものの考え方は、多くの場合、苦悩と不可分なのだ」と同氏は語る。
引用元⇒不幸なほうが人の創造性は豊かになるのか:心理学の研究結果
ここで、「ナカムラクニオ こじらせ美術館」の紹介です。過去の画家たちの奇妙で風変わりな倒錯的、狂気的な人生、それらがまとめられています。⇒ ナカムラクニオ こじらせ美術館
まぁ画家だけでなく日本の文豪もかなりこじらてますね ⇒ 文豪どうかしてる逸話集
アメリカ・オハイオ州立大学のブルース・ウェインバーグ氏とシカゴ大学のデビッド・ギャレンソン氏は、「創造性」には二つの種類があると語ります。
それが「コンセプト的創造性」と「経験的創造性」ですが、前者のピークが20代半ばで、後者が50代からがピーク、ということですが、これに他の要素が加わると、「創造性に年齢は関係ない」ともいえるんですね。
たとえばセザンヌは50歳も半ば頃になってようやく初個展を開けたし、ルドンがあの幻想的なパステル画を描きだしたのも50代からで、カーネル・サンダースさんなんて65歳で起業してます。
これは流動性知能と結晶性知能ともリンクしますね。流動性知能も若い頃がピークで、結晶性知能は時間に累積して伸びていきますが、高齢になると落ちてきます。ただどちらも「好奇心」が非常に強い人は平均を超え、なかなか落ちません。
以前の記事でも少し書きましたが、レオナルドダビンチのような突出した天才は、コンセプト的創造性、経験的創造性、流動性知能、結晶性知能が落ちない、稀有なゆらぎを有していた人といえるでしょう。
そしてこのような大きなゆらぎを生み出すものが「人間の有する過剰さ」なんですね。 過剰さは「倒錯」的なるものを生み出します。この過剰さを変容していくこと、それが創造性の昇華、ということですね。
ですが、「身体性」が硬直するということは「心」も硬直する、その結果、ますます耐性を失い、ますます清潔で安全で快適で「予測可能な生(必然性)」を求めるようになり、潔癖で防衛的な硬い境界性に遮断された生に向かうわけです。
「脳を含む身体」と文化はリンクします。そして身体は自然環境とリンクし、基底を自然界に支えられています。
「脳と身体」の問題がマクロレベルになると、その問題は文化に反映されるため、文化が変わることで精神性が変わってしまうのです。
そして精神性が変化すると価値観や規範意識も変化するため、社会の制度や構造にも影響を与えるのです。そして構造が変わると、ミクロな多元的な個々の「脳と身体」は構造に強く条件づけられるため、さらに変化への環境圧力は強まる、ということですね。
ここで少し話は変わりますが、過去にも書いたイギリスの小児精神科医・精神分析家のD.W.ウィニコットの語る「ほどほどの母親」、という言葉、そこに込められた意味は、今でもとても深いと考えています。
「ほどほど」でいられない過剰な正義心や善意での余計なお世話、あるいは逆に、気に入らない対象、事柄への徹底した過剰な否定など、否定と肯定が極端になりすぎるのも、
「肯定と否定」「快と不快」が同時に存在する矛盾性・複雑性をもっているのが人間、いえ現象の全てである、という「全体性としての複雑な対象」と共にある、ということに耐えられない状態からの、防衛及び攻撃の姿勢であるわけですね。
それは人治主義的な道徳統治に向かったポリコレの過剰さにみられるように、「イキモノ性に対する不寛容さ」の時代に向かっていることなんですね。
それがやがて「存在自体の疎外」に向かい、どこまでも進めば最終的に「無意識の持つ生命力の死」へ至る可能性がある、ということです。
人間があまりに人間の理屈・観念で考えた正しさや安心や安全や効率性、合理性にとらわれすぎ、「自然界によって生まれた身体」を徐々に忘れ、身体が持っていた耐性を失うことで「おおらかさ」という心の状態を失っていくのです。
「それ自体のゆらぎの自由」を奪い、身体が学ぶ機会を与えず、その能力を退化させていく方向に向かっている、という意味での存在の危機です。
脳科学というものは面白いです。脳は未だに謎も多いですが、たとえば、「人間の記憶容量にはほぼ限界がない」というようなことは「体感的」には信じがたいことですが、脳科学的にはこちらの方が支持を得ているんですね。
また「IQが高いから記憶力も高いとは限らない」のも同じく。そして「記憶をする」ことと「記憶を取り出す」ことの差によって、記憶に限界があるように感じられるだけ、ということです。
その意味では「インプット」だけでなく「アウトプットする」というのはとても大事でしょう。
また、「身体で実践すること」で上達する、というのは、実際に「事実記憶」と「運動記憶」というのは脳的にも違っていて、事実記憶は前頭葉と海馬が、運動記憶は小脳と大脳基底核が担当するわけですね。
「事実記憶」を忘れても、身体は覚えている、そして実技における「腕を上げる」というのは「運動記憶」の方なんです。なので「実技」が非言語的なものを多く含む学びであるのは、「記憶」の質と回路が異なるからです。
そして「クリエイティブ」の能力は高いIQとは無関係に発揮される、ということです。なので、「創造性の昇華」は、実際にどれだけ好奇心をもって行動し実践しながら取り組むか、という方が重要なのです。
「学び」には多元性があり、「知性・知能」にも多元性があります。言語性知能は知能のほんの一形態に過ぎません、人は様々な知能、学びによって世界を現象を人を知る、ということです。それが多角的に見る、ということであり、「いろんな分野の知識から考える」、ということとはまた異なります。
これは「人間」、「他者」の理解も同様ですね、脳のメカニズムを知識として知ったり、メカニズムとしての生き物を概念で知ることと、実際に現実の中で人間や生き物に関りながら知っていくのとでは、全く異なるのです。
どちらか一方だけ、という話ではなく「どちらも大事」、ということですね。
わたしたちは概念的な理屈によって他者を理解するのではなく、直接的なシミュレーションによって他者を理解するようにできている。考えるのではなく、感じることによって、他者を理解するのだ。(神経科学者ジャコモ・リゾラッティ)
「現実を生きる人間」は、科学的に学問的に発見された「人間に関する知識、概念」を経験より「先」に理解し納得するのではなく、日常の中で自身が経験し、あるいは他者を通して身体で理解し、その後に「知的なメカニズム」を理解するのですね。
本能とは、個体を超えた自然の設計というものを否定するためにもちだされる窮余の産物にすぎない。自然の設計が否定されるのは、設計が物質でも力でもないので、設計とはなにかということについて正しい概念が形成できないためである。 ヤーコプ・フォン・ユクスキュル『生物から見た世界』
自分を破壊する一歩手前の負荷が自分を強くしてくれる
「自分を破壊する一歩手前の負荷が、自分を強くしてくれる」はニーチェの名言ですが、ストレスには快ストレスと不快ストレスがあり、そして「一歩手前の負荷」を専門的な言葉でいえば、「アロスタティック負荷にならないギリギリのところ」といえますね。
ストレスには生体にとって有益な快ストレスと不利益な不快ストレスの2種類がある。ヒトが通常の生活を送るためには、これらのストレスが適度なバランスを保って生体の恒常性を維持する必要がある。
しかし近年のストレス社会を背景に、過度なストレス負荷によって脳機能のバランスが失われてしまう場合がある。ストレスレベルがある閾値を超えてしまうと、それが原因で脳や身体に障害が発生する。このストレスによる心身の疲弊のことをアロスタティック負荷と呼ぶ。引用 ⇒ ストレス
生まれながらにして人は、構造(システム)の支配下に置かれる。これをハイデガーの「被投」の概念を使って言い換えるなら、
『 人は世に生まれその世界の「根源的信仰」を強制されて生きるしかない存在であり、それを「真理」「正しさ」の原典として、「その根から生じた個々の価値への信仰」に向かう。
現存在は、己の信仰する価値に条件づけられた(制限を受けた)形で可能性へと向かう「被投的投企」である。』
「偶然性」との遭遇でゆらぐ、その不安定さが生の本質でもありますが、それは基本的にはストレスなんですね。
ストレス耐性能力には遺伝的な先天性が報告されていますが、「レジリエンス」の個体差は、遺伝以外にも生育環境に影響を受けます。また、「ストレスが脳を壊すメカニズム」は脳科学的にも明確化されています。
ここで再びウィニコットですが、「ほどほどに厳しく、ほどほどに優しい」という「否定と肯定が過剰になりすぎないバランス」、
それは、「快と不快を同時に内在したひとつの全体」として、「全体対象関係」で人を捉える心の発達過程には、快と不快のゆらぎとそのバランスが大事だと考えるからです。
そして肯定と否定のバランス感覚は「しなやかな強さ」「レジリエンス」に繋がる、ということですね。
しかし今回のテーマは、このバランスが何らかの原因によって極端なものであっても、そこから「昇華」することの可能性です。
子供は親を選べないように、人は「他者・環境」の偶然性にさらされます。人生はまさに「被投性」です。そしてそこからの「投企」です。
しかしここで大事なことは、ハイデッガーの哲学ではなく、「子供は親をすべて受け入れろ」ということではないのです。子供が親との関りの中で何かを学ぶように、親もまた「子供という他者」から学ぶものがある、のです。
「私の子供なんだから何をしてもいい」というような親には、「子供という他者」が存在せず、「常に親に従い親の価値基準や規範を受け入れ学ぶべきは子供の側」、という姿勢なんですね。
『置かれた場所で咲き
「どちらも」が、「置かれた場所」で「郷」で「他者」を通して学び、それぞれの在り方で咲く、ということですね、「一方だけがそうする」という関係性では極端になりやすいわけです。
それは子供が「親という他者」の複雑性を、部分対象関係から全体対象関係へと広げ発達していくように、親も「子供という他者」を単純化せず、自己完結した目線で決めつけず、全体対象関係として見ていく、ということですね。
そして「複雑な他者」としてよく観ていれば、「何故そうするのか? そう反応するのか?」という子供の特性や感情に気づくでしょう。そうやって親も子供に学ぶ、「他者」と「他者」が互いに学びながら成長していく、ということです。
「自分(親)が絶対正しい」という心にはそれができないんです。かといって、「自分(子供)が絶対正しい」でもできない。だから「ほどほどの母親」という表現は深いんですね。
しかし人生は「被投性」に満ちています。圧倒的にワンサイドな関係性で過剰な否定的干渉を受け続ける状況、という望まない出来事にも「人生の偶然性」によって出逢ってしまうのです。
そのような状況下では、「学び」というよりも「恐怖」や「強迫観念」で「何かをやらされている状態」になるわけですね。
「不快がない」ような状態も「身体」の多元的な学びを失いますが、「恐怖」や「強迫観念」が強すぎる状態も「身体」は多元的な学びを失うのです。
そして「自分の身体を生きれない時」、「自分の心を生きれない時」、創造性は上手く発揮できなくなります。「昇華」に失敗する、ということですね。
過去にも扱ったネガティブな情動の「昇華」や「変容」の問題ですが、「昇華」に失敗し、不快やストレスの否定的作用に晒され続けるとき、それは「慢性的な我慢の状態」に固定化され、
古い脳の扁桃体の活動が過剰となり、ストレスホルモン(例:コルチゾール)が分泌され、様々な負の反応を引き起こす、というわけです。
たとえば「情動と強くリンクする記憶」は「扁桃体」が密接に関わっていますが、「快・不快」、喜怒哀楽のような情動の問題、ストレスに関して「大脳辺縁系」は重要な役割を果たしています。
そして「恐怖記憶の形成」は「扁桃体に投射するニューロン」が関与し、「恐怖記憶の消去」は「内側前頭前野に投射するニューロン」が関与し、そして「ノルアドレナリン」が重要な役割を果たす、ということですが、
〇 恐怖記憶の形成および消去には異なるタイプの青斑核のノルアドレナリンニューロンが関与する
この「ノルアドレナリン」が減少したり枯渇すると「学習性無力感」を引き起こしたりする、ということですね。この時、意識の「変容」は途絶えます。
「変容可能性」を自ら失う、という固定状態、これは「偏桃体」のシステムに閉じている(ループしている)状態、ともいえるのです。
〇 代わる代わる互いを押さえ込む2つの脳部位がPTSD患者の恐怖ON症状とOFF症状をスイッチさせている
この「何をやってもダメだ」の意識で「適応」してしまう時、自己完結し、活力を昇華に向かわせることができなくなくなるのです。
そして「うつ病」に関するfMRIにおける研究では、「快の予測」は左前頭前野、「不快の予測」は右前頭前野が関与していると報告されており、「うつ病」では左前頭前野機能の低下により、不快予測機能が相対的に優位になる結果、「悲観的思考が生じる」ということです。
「昇華」に話を戻しますが、その前に、外部サイト記事の紹介です。
「「毒親というより依存症の人」 おおたわ史絵が捨てた母親とは」より引用抜粋
本来は生まれたときから愛情を注がれ、道しるべとなるはずの親が、子どもにとっての“毒”になり、下の世代にも影響する。こんな厄介で皮肉なことはない。総合内科専門医・おおたわ史絵さんもそんな親に悩まされた一人だ。
おおたわさんが幼少のころから、母の「教育ママ」ぶりは常軌を逸していた。ピアノ、バイオリン、英会話は誰よりもうまくないと怒られた。ピアノの練習中、一回でもつっかえると椅子からたたき落とされる。その怖さで緊張しては間違え、たたかれるの悪循環。
勉強にいたってはさらにすごさを増す。ストップウォッチを持った母の前で計算ドリルを始め、制限時間を少しでも過ぎるとコーヒーカップや教科書が飛んできた。大きな灰皿を投げつけられ、額から血が流れたことも。「おきゅうがわり」とたばこの火をおしつけられそうになったり、ミルクセーキに下剤を入れられたりしたことも。
「でも私は母を毒親とは思っていません。はたからはそう見えるかもしれませんが。毒親というより、生きるのが下手すぎた『依存症のひと』」
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 「毒親というより依存症の人」 おおたわ史絵が捨てた母親とは
おおたわ史絵さんは特に珍しい考え方の人ではなく、昭和の女性に多い「頑張り屋さんタイプ」の「親の受け止め方」をしていますね、私の母と同様に。
母の親も依存症で過干渉でしたが、母はそれをおおたわ史絵さんとほぼ同じように受け止めていました。(それが結果的に母を壊していく力学になっていきます。)
そして「母がそのように受け止めたもの」はどうなったか、それは「親から子へ」と向かいました。
何故なら、「抑え込んでいるだけで潜在的に継続しているもの」は、解放される機会を伺っている状態であり、条件がそろうと外部に姿を現してくるのです。
母の「シャドー(生きられなかった私)」の「呪い」は子供に対して向けられ、そして母が親から受けた様々な理不尽を受け入れたゆえの「膨大な抑圧」の解放=「呪いの自己実現」によって、母はバランスをとっていたのです。
そして私が回復したのちに母の精神が壊れました。それは無意識的な依存対象が存在しなくなったゆえの自己破壊、なんですね。
「母の課題」を私や身近な周囲が背負っていた依存的人生から、母自体に課題が戻された、その重さに母は耐えられなったわけです。当然でしょう、元気な子供が壊れるほどの「累積した課題」ですから。
しかし、私は「毒親」という概念に出逢ったのは全てが過去の事として終わった後の事なので、私自身は母を毒親と定義したことはなかったのです。「依存症」と定義したこともないです。
後から考えればいろいろと概念に当てはまることはあっても、その頃は心理学的な概念や知識など一切使わずに、母という人間をただ観てきたのです。
そこでいえることは、明確に何かの概念に当てはめて考える方法というのは、「対象を単純化する」ことでもあるため、その意味では「楽」なんですね。
「人間の種類分け」的な分析を、専門的な用語でカテゴライズし人を単純化して整理してから思考する方が、負荷が少なく明快で簡単なんです。
概念的思考は言語的な解像度を高めているその一方で、実際には「言語化しえない対象の複雑性」を失っていきます。
対象を単純化せず「複雑なままの他者」として向き合うのは、何とも表現しようのない苦しさがある、そして「何とも表現しようがないもの」と共に在り、
「複雑なものに複雑なままで対峙する」という在り方それ自体が、「詩」そのものを生きている状態です。
「詩」を生きる時、理知とは異なり、弁証法的思考運動からも外れ、それ自体で調和する独特な世界、存在の姿に触れるのです。
現実はその根底において、 常に調和している。 詩人のみがこれを発見する。(湯川秀樹)
この「概念による解像」とは全く異なる「対象との出逢い」が生じる時、「対象との出逢い」から「無意識の変容」が生じるのです。これは「訓練された技術」とは全く異なるものです。
「魂」が、コトバにも表情にも存在していることそれ自体にも全てに宿り、「一回性の実存」同士が出逢い触れる。
この時に「通常は起きない」とされている「最も個別的な独自の現象」が起きることがあります。人はたまにそれを「奇跡」と呼ぶこともありますが、
「平均的、常識的、一般的、統計的なエビデンス範囲ではまず起きない」、ということが起こるんですね。
再現可能性を得る,いちばん基本的で単純な操作が「測定」と「数量化」であり,それを支えるものが「統計」である。「再現可能性」は,それを「信用」するはたらきとむすびついている。
超ウラン元素のように,誰も見たことがないものをなぜ信用するかというと,それが今までわれわれがもっていたほかの知識に,矛盾なくうまく当てはまるからである。
科学は,多数の例を全体的に見る場合には強力だが,全体のなかの個の問題,あるいは予期されないことがただ一度起きたという場合には,案外役に立たない。
しかしそれは仕方がないのであって,科学というものは,本来そういう性質の学問なのである。……科学というものには,本来限界があって,広い意味での再現可能の現象を,自然界から抜き出して,それを統計的に究明していく,そういう性質の学問である。(中谷 pp.16-17)
引用元 ⇒ 新しい質的心理学の 方法論を求めて
「科学的、専門的に解釈された個人」と「解釈それ以前の個人」は同じではないのです。しかし人は、前者を正確な人間像、後者を不正確な人間像と安易に単純化します。「平均化された解釈」は、逆に「個別性の深み」を失うのです。
「無意識の変容」によって何が起こるか? それは自分の「既知」の知識では全く予測すらできない「知性」の別領域の可能性が開く、ということです。
それは様々な概念や知識による多角的な知的考察というものではなく、そういうものとは質的に異なる知性の働きがある、ということですね。
「可能性」は、「知られていない、生まれていない自身の中の意識の道筋」が、新たに創造されるときに生じる、ということです。
無毒な親はいるのか?それは無毒な人間、負の作用を誰にも与えない人間はいるのか、ということでもありますが、そんな人はいないでしょう。
同時に、「子供もそんな完璧な人間を求めてはいない」という以前に、子供も親も、「何が完璧な大人か」など知らないのです。(そもそもないでしょう)
よって最初から「絶対的な正しさ」とか、完全無欠な理想を求めるような究極の善のような話ではないんですね、毒親とか良い親とかの話というものは。
結局、ウィニコットの語る「ほどほどの母親」という、バランスの問題なわけです。「過ぎたるは及ばざるがごとし」、そういうことです。
狂気と倒錯
不快情動にメインに関わるのが扁桃体を中心とするシステム、快情動にメインに関わるのは「側坐核」を中心とするシステムで、
「昇華に成功したとき」は、人は不快や不満等のストレスの肯定的側面に気づく(学習する)ために、昇華に至るまでの不快な過程も報酬系に組み込まれるわけですね。
たとえば「あの苦しみがあって今がある」と感じれるのです。「ドーパミン」は快感や高揚感をもたらし、ある種の「倒錯」を引き起こします。たとえば「性的倒錯」は、「ドーパミンの過剰さ」です。
また、「天才と狂人は紙一重」というのも、「倒錯の状態」の質の違いが分けているといえます。脳科学的にも両者が共通している部分があるわけですね。
人間の場合は前頭連合野とその近辺の脳におけるドーパミンの過剰分泌で、創造性が生じる。ドーパミンの過剰分泌が前頭連合野の近くで起これば創造性になり,脳の神経系全体で広く生じれば精神分裂病となる。
すなはち前者では、天才的な創造性を生じ、後者では精神病が発症し、『天才と狂人は紙一重』と言われるが、世界的に有名な芸術家に、特に画家には分裂気質が多い。 引用元 ⇒ 天才と狂人は紙一重
ミシェル・フーコーは狂気を単に文化的逸脱とみなさず、狂気はその文化をポジティブに表現すると主張した。
キリスト教やイスラームも見方によっては狂気とみなされるが、実際には大衆による逸脱行為は宗教という形で文化的に許容される。ただし、一般において「狂気の」何かは、極めて異常で愚かな何かと受け取られる。それらの行動は通常に容認された社会規準から強く逸れる。
プラスにせよマイナスにせよ、不足にせよ過剰にせよ、人間のゆらぎの過剰さによる逸脱性は、脳の運動性とリンクしている、ということです。
SMなどの特殊な苦痛を快楽と感じるのは、それが「報酬系」に組み込まれているからであり、そうでない人は「偏桃体」のシステムで主に処理され、「ただの不快刺激意」=「恐怖」、「苦痛」のストレス反応となりますが、
しかしこのある種の「倒錯」によって、「苦しみは単純に苦しみという絶対性に閉じてはなくて、相対的でかつ動的なものである」という「認識の多元性」が生じるわけですね。
これは「思い込み」ではなく、脳の状態によって「実際に起きていること」、「起きること」であり、「意識」は多元的で変容可変性が元々備わっている「動的で相対的な運動性」なのです。
そのため常に揺らいでおり、このゆらぎの自由さの中に「創造性」が生じます。それによって「ネガティブなものをポジティブなものに変容する意識の道筋」が出来るのです。これは「変性意識」や「狂気」も同様に。
たとえばエロティックな表現で「○○を開発する」とかいいますが(笑)、あれだって表現としてあながち間違っていません、「新しい意識の道筋」を作る、という意味では「開発」ともいえるからです。
またある種の洗脳状態が「喜び」に感じられる「信者の意識」も、「報酬系」に組み込まれているからそう感じるのです。
そこから外れれば「なんであんな異常な人を信じたのだろう」と対象への自然な怒りや嫌悪が復活し、己が判断ミスに後悔したりするわけですが、そういうことも含め、「人間の可能性の高さ」ゆえに起きていることなんですね。
そしてそれ自体は悪いものではないが、「過ぎたるは及ばざるが如し」といわれるように、どちらにも振れる揺らぎが自他を害するほど極端な方向に向かった時、悲劇は起きる、ということです。
「どうしてあんな奴にあんなに浮かていたんだろう」、と目が覚めた状態に戻るという現象は、「恋愛」においてもよく見られるものです。恋愛の時に分泌されるPEAという脳内で生じる「麻薬」は、大体3年程の期限といわれますが、
「この倒錯の期間」が何故必要なのか?それは「境界」に遮られた「他者」の複雑性そのものに触れていく最初の突破力と可能性が「倒錯」にあるからです。
ただこのドーパミンによる倒錯性が過剰になると、依存症になったり、身を滅ぼすような極端さにもなることがあるので、「色恋沙汰」というのは世に絶えないわけですが、
「色恋沙汰」のほとんどがある種の変性意識状態です。つまりトリップしているから、派手にやらかしてしまうことが可能になるわけです。
それが負の方向に向かったから「やらかした」といわれる残念な結果になっただけで、上手くいけば大恋愛の成就や何かの達成や、深い親密さ・信頼等にもなります。それは「倒錯」が昇華出来たか出来なかったかの差なのです。
恋愛に限らず、「情熱」というものは全て「倒錯」なんです。
「よくわからないもの」「異質さ」「複雑さ」としてある「対象」「世界」に強く深く食い込んでいくための「勢いのあるゆらぎ」であり、「過剰さ」も、生へのアプローチのひとつなのですね。
「恐怖や不安や不快や苦痛のループを別の意識の道筋に変容する力」、それも創造性による「過剰さ」です。
「情熱」は苦しみを喜びに変える「倒錯性」があります。それは同時に人間の「狂気性」にも繋がるゆらぎであり、「可能性」でもあるわけです。
しかし意識の道筋の多元性が十分に開発されていない時、その時に生じた何かは、未昇華なまま固定化され残存し、たとえば「不快対象」は不快なままで完結され、特定のループ性に閉じてしまう、ということです。
そうやって「多元性へと開いていく可能性を自ら失っている」ことへの自覚(呪いの解除)に向かう力を失い、「苦手」は恐怖感情に条件づけられ、「偏桃体」のシステムで「排除」「否定」に向かいます。
そして「排除」「否定」に閉じた状態から、外部に原因を探しはじめると、これが「他罰」の原動力になります。
そしてこの潜在的「他罰性」に「概念」が結びつくと、対象が特定の意味に単純化され、そして二元化され、「裁く対象」として意識化されます。
そうやって対象の事実性の全体性から「特定の一面」だけが切り取られ、対象の事実の全体に置き換えられるのです。
そして「多元的で動的で複雑な他者」は、「わかりやすい単純な概念で固定された静的な他者」として一元的な意味存在として記号化されるのです。その記号がたとえば「毒親」なのです。
その意味では、状態の定義として特定の概念を使ってもいいし使わなくてもいいけれど、「毒親」という概念に囚われ続けないことです。そしてACをアイデンティティにはしない、というのも同じです。
それは概念、あるいは変容可能な動的状態にスポットを当てたひとつのラベリングに過ぎません。
話を前に戻しますが、恋愛依存症は「寂しさ」が原因のひとつにあるといわれますが、恋愛だけでなく、「疎外感を感じる孤独」は「無力感、悲しさ、むなしさ」などを生起させますが、
「他者、社会」に過度に依存して支えられた自己の「虚無」からの脱出のイメージは、「他者や社会によってしか自身の虚無感を埋めれない、楽しく生きれない」という他者や外部に限定された承認欲求に向かうので、
外部からの助けがなく支えがないと解決できなくなり、たとえば「支えてくれる彼君」が現れないと未昇華に終わるわけですが、
「疎外感を感じる孤独」ではなく「一人遊びができる孤独」という方向へ向かい昇華が成功すると、「一人で行うこと自体」を報酬系に組み込めるので、「倒錯」が他者への依存ではなく、個の単位で昇華できるようになるんですね。
仮にその状態に「過剰さ」があっても、またある種の精神障害的な特徴が継続していたとしても、もはやそれは「本人の生きづらさ」にはリンクしていないのです。
認知フレームを超えて
ここで「そもそも障害とは何か」について少し書きますが、「障害」というものは、「個人の心身機能の障害」だけでは成立しません。
環境と個人との間にある「社会的障壁」との複合的作用、それを専門的な概念で定義することによって、何かが「障害的なもの」とされ、何らかの障害者としてラベリングされるわけです。
そこには本質的なものと構築的なもの、「概念以前の人」と「概念以後の障害者」が合わさって出来ています。
そこで、本人が自分に合った環境を自ら選択・設定し、「社会的障壁」が無効化された場合、さらに「個人の心身機能の障害」とされた特徴的な何かが、実生活に何の支障もきたさず、日々を充実して生きているのであれば、
仮に「何らかの過剰さ」「倒錯」の特徴的パターンが「医学的には」継続していても、それはもう「障害といえるのか?」ということです。
もし「いえる」というのであれば、それは本質主義的な見方で「障害がそれ自体で自立して存在する実体」だと考えている、ということです。ガンや糖尿病と同じような疾患の次元で精神障害を捉えている、ということです。
障害はそれ自体で自立して存在する実体でしょうか?相互作用と社会構築によるものでしょうか?私は後者であると考えます。その意味で(当事者の)「治った」という表現はありえるし、
反精神医学的な極端な全否定ではなく、また全てが構築的とも考えませんが、しかし、社会構築主義的な角度からの批判は特に「精神医学」「臨床心理」に関しては重要だと考えます。
物質的な現象への事実判断をメインにする身体医学に比べて、精神的なものへの定義というのは、より構築的な要素、そして価値判断を多く含むからです。
また「医療全体」に対しての批判は、「事実判断そのもの」ではなく、「専門家による価値判断の権威化」、「社会構築化された支配的な価値基準」に対するものです。
「事実」をどう「解釈」するか、の「解釈」の部分には、個々の価値判断やバイアス、専門的知識、様々な経験則などが複合化した「認知フレーム」に条件づけられます。
神経科学のデータは、ひとが意識化する手前で起きている非意識的思考プロセスの説明に役立つ。けれど、実際はこれらの実験もデータも、それを〈仮説する/読む〉フレームによって限定されている。たとえば神経美学も、芸術的思考に通じた研究スタッフがいなければ、その〈仮説/読み〉も誤読になる。
— 中島 智 (@nakashima001) October 11, 2020
心理学という「認知フレーム」だけでは人間のことはわかりません。これは脳科学、社会学、生物学、身体医学、精神医学、芸術、哲学も同様に。
また特定の学者・専門家の判断が、同分野の全ての学者・専門家と同じというわけではないように、事実をどう解釈するかは、個々の認知フレームに条件づけられた「相対的な判断」に過ぎないのです。
「専門的な解像」が無意味ということではありません。そうではなく、「人間」という複雑系、多元性を観ていくことは、複雑なものを複雑なままに見ていくことが「同時に」必要、ということです。
制度化された専門知の領域は、社会的要請と結びついた「仕事」として、人間を特定の方向性で扱い、制限の範囲内で機能するシステムでもある以上、今度はそれが新たな支配的な(社会構築的な)力学となってしまうわけです。
そもそも「社会」というのは均一で固定的なものでしょうか?私はそう考えません。「日本」に住んでいても、人がどのような環境・コミュニティに住んでいるのか、どのような現実・社会の変化に直面しているのかは同じではないのです。
つまり「個別性」は個人の差異だけでなく、その個人が属している社会・環境の質的差異も含んだミクロとマクロの個別性なんですね。
その組み合わせとなれば、それは膨大な多様性になるでしょう。にも拘らず特定のフレームで「何が適応的で何が非適応的か」とか「何が有効で何が無駄か?」とか断定したりするわけですが、実際はそう簡単にはいえないものなのです。
「認知フレーム」から世界を観ることは、「曖昧模糊」とした世界・対象へのある部分の解像度を高めもしますが、同時に「曖昧模糊」に含まれる多元的な「未知」に触れる可能性を逆に遮断してしまうのです。
Chihiro Onitsuka – Call (live)
「狂気性」という感情から目を背ける時、理性は逆に多くを見失い、理性そのものが狂気性を帯びる。
Callの歌詞にある「正義や現実など今更何にもならない」という状況、時、というのは、「日常」という前提が崩れ落ちた時、そして死に臨む時など、圧倒的なリアルとして「偶然性」として訪れたりします。
非合理的に現実を突破していく感情の力、狂気に込められた真実、というものがあります。それは「正しさ」が支えている領域は人為的・相対的なもので、普遍性の領域ではない、ということです。