言語と音楽(ラップ) 「素」と「味」
2016年のアメリカ大統領選は、トランプの毒舌も含めてそれになりに試合&ショー的な形になっていたし、パロディーも面白くて結構笑えたのですが、今回のアメリカ大統領選は空気が重すぎましたね。
自由の国だったはずのアメリカも、今や不自由で危険でシリアスな重い神経症的な国になりつつある。笑えないことが多すぎ。
いまや「自由の女神」も不自由だろう。再び足を鎖で繋がれて、燃え上がっていた「たいまつ」は、きっと消えていることだろう。
ではまず一曲、女性ラッパーの「ちゃんみな」、曲は「Never Grow Up」(Acoustic Version)です。ちゃんみなの声のゆらぎは凄くいいですねぇ~、日本の女性ラッパーでお気に入りのひとりですね♪
アメリカの空気の正反対で、自由の女神の成分に溢れています(笑)
コロナにBLMと続いて、険悪で殺伐とした空気が充満し過ぎていて、怒り、憎しみ、不信感、報復感情ばっかりで、面白さも可愛げも感じない毒々しい断罪ばっかりのアメリカ選挙はつまらなかったです。
このブログは政治ブログではないので、政治に関しては突っ込んだ言及はしませんが、ただ↓この動画には大笑いしました。座布団5枚です。
ヒロインの髪型は 討論会 pic.twitter.com/NLvarbCdnc
— こんでんえいねんしざいほう (@hiroju5555) October 18, 2020
President Trump flat out worked during his first term, logging countless miles aboard Air Force One, allowing him to build the strongest economy in America’s history. He hasn’t stopped working for America since his infamous escalator ride.. #FakeElection #FakeResults #FakeElect pic.twitter.com/ldFYoNGNQF
— dan siddons (@dansiddons4) November 16, 2020
まぁ批判とか風刺とかも必要でしょうけど、過激なイデオロギー運動家も、どうせ上から目線で毒々しい下品で下衆なコトバを使って相手を叩くのならば、「リリック」的に「味」のある討論やってほしいですね。
下品なディスでも全てをクリエイトし、どんなコトバも組み合わせて変容してしまうセンスで、相手を唸らせる文脈をリズムに乗せてフロウを駆使してグルーブ感を高め、ショー的に選挙という民主的な闘争を楽しませてほしいです。
まぁ状況が状況だけに、一部が剥き出しの原始状態みたいな野生の王国になっていくのわからなくはないですが、低次の防衛機制、あるいは原始的防衛機制のような精神状態で互いを否定し合っても、ただ殺し合い的な闘争世界になる以外に何も生まれないでしょう。
「原始に戻るだけの破壊」は革命でもなんでもないものですが、「ルサンチマンで下が上をギロチン」というサピエンスの本能的な短絡さで社会を初期化しても何も更新しません。
破壊する以外に何も生み出せないルサンチマン人は、「ただ上が憎かった」だけの妬みのお気持ちで、報復する以外には何も生まない不毛人。
高い創造性も技術も専門知も何もない者たちが、ただ怒りで何かを壊すことを革命などとはいわない。そして結局、「残った上の人々」が社会を元通りに復元するだけ。
「思い通りにならなくて大暴れして家を壊した子供は、家の作り方を知らない。ただ怒って壊すだけ。そして家がなくなって困っても何も生み出せない。そして元通りに家を作り直すのは結局、彼ら・彼女たちが馬鹿にしていた大人たち」という構造です。
人類も文明発祥からもう数千年経ち、そして近代的自我を有した個人は、それなりに理性的な生命体になっているはず(と思う)ので、
特にアメリカのような先進国があの有様では、なんだか人類の底を観ているような気分です。「人類はよくなった」と、先進国に対してそう思えるような、ポジティブな現象をもっと見せてほしいところです。
政治で勝ちたい、勝たなきゃ意味がない、のもわかりますが、あまりにも露骨で、政治的手段も剥き出しの闘争性で、あんな戦争に近いような殺し合い的ムードでは、人類が原始に退行し過ぎていて残念です。
ホモサピエンスは元々そうだからって、「下品、傲慢、粗暴、狡猾、嘘つき」、これらを露骨に全面に出すのは、サピエンスの原初的な「正直さ」のひとつの表れではありますが、
しかし「正直さ」も「味」のあるなしで随分と変わるものです、サピエンスには創造性があります。人間に生まれたのに、原初な正直さでは味気も素っ気もないでしょう。
男は男らしく、女は女らしくは今は古いとされますが、「人間は人間らしく」それが「人間の自然」ですね。
マウントでもビッグマウスでも挑発でも悪口でも、闘争や否定性を露骨な原始に退行させず、本能をシリアス化にせずに、このくらい↓のセンスで下品さをクリエイトし、コトバの「味」を追求してほしいところです。
ブライアンはコトバで自在に遊ぶようにライムとフロウを飄々と使いこなす。ブライアンと晋平太のラップバトル見たいですね、全く質が違うので、異種格闘技みたいで面白いでしょう。
ブライアンのラップに対する晋平太のリリックに「お前のラップにはソウルがねぇ」とありますが、「まさにそれ」です。
しかし、ソウルフルな晋平太のラップの長所に対し、この「ソウルのなさ」というブライアンの短所は、実はブライアンの長所(人気の理由のひとつ)でもあり、
音&コトバ遊びのリズムの軽やかさ、聴きやすさを「脳」で楽しむ、それがブライアンの長所であり面白さでもあるわけですね。
言語の「音成分」とリズム、そこだけ聴いていると、ブライアンは見事にクリエイトしています。
〇 日本人はヒップホップ、ラップを勘違いしてる。ラップバトルとエミネムも好きすぎ笑
西洋的、東洋的、欧米的、日本的、というような分け方はとても大雑把な区分けですが、基層のミーム、言語が異なる以上、大まかではあっても質の違いは確かにありますね。
以下に引用・紹介の「academist Journal」の記事は、日本文化、邦楽の「間」に関する脳科学的考察、そしてヒトの脳が備える「統計学習能力」など興味深いテーマです。
「日本文化に特有の「間」が脳機能に与える影響とは?– 音楽と脳の関係を科学的に探求する」 より引用抜粋
西洋音楽と邦楽の大きな違いとして、「間」のとり方が挙げられます。西洋音楽のリズムは、拍(ビート)という基本的には崩されることがない規則的な時間間隔を用いているのに対して、
邦楽は、独自の「間」という不規則な時間間隔で表現する音楽です。邦楽も西洋音楽的なリズムを基調として持っていますが、
西洋音楽のような数学的規則性のある時間だけではなく、「呼吸の同調」によって伸縮するような時間の概念があるといわれています。
(中略)
日本文化的な「間」の認知に関わる研究は、これまで注目されてきませんでした。これは、「間」は、西洋音楽の拍のような数学的定義を持たない抽象的な概念であり、科学的検証が困難であることも理由のひとつとして挙げられます。また、西洋文化と日本文化のリズムの違いの関係性は、音楽だけでなく言語においても同様にあります。
(中略)
音節が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、音節を繋ぐものとしてのビートやリズムによって構成されます。それに対して、かな1文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、モーラと間によって構成されます。
(中略)
先行研究によると、西洋音楽的なリズム感が良い人は、強勢拍リズムをもつ第2言語(英語やドイツ語)を習得するスキルも高いといわれています。このことから、文化が普遍的にもつ感覚や感性が、言語や音楽、そしてそれに帰属する脳機能を独自に発達させてきたと考えることもできるでしょう。
(中略)
先行研究によると、人間の脳には、意識や注意に依存せずに発動する、統計学習システムが生得的に備わっているといわれています。これは、系列情報の遷移確率を意識下で脳が計算し学習するシステムであり、その潜在性ゆえに、学習者本人は学習した知識に自身の行動が左右されていることに気づきませんが、これまでの研究により統計学習効果を神経生理的に評価できることがわかっています。
また、統計学習は新生児から大人まで行われる脳の発達に重要な機能でもあり、言語、音楽に依らず発動する普遍的な学習システムと考えられており、
その普遍性ゆえに、音楽を早期から特別に教育を受けた人(音楽家)は音楽の統計学習機能が発達し、それに伴って言語の統計学習能力も高くなっていることがわかっています。
さらに、言語障害を音楽で改善したり、乳幼児に対して音楽を用いて言語学習を促進したりといった効果も確認されており、統計学習は我々の脳の発達メカニズムを理解するうえで最も重要な機能のひとつといわれています。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
もうひとり日本の女性ラッパーでお気に入りのAwichの紹介です。この方のラップ、日本的な言語感覚、音感覚を超えていますね。それでいて西洋とも異なる独特で斬新な言語感覚です。
Awich – Shook Shook (Prod. Chaki Zulu)
まぁ人間欲は必要ですが、どんな欲望の発露でも、剥き出しの原始のままでは味がないですね。「ただ口汚いだけ」「愚直な否定」では殺伐としてて味がない、「戦い方」にだって味の良し悪し、があるわけです。
原理主義は味がない、カルトも味がない、生真面目すぎる教条的な道徳性には味がない。
機械的・無機的な規律性は一見すると誠実だが、実は「生真面目に観念的に型を順守する」とか、「絶対的なものを妄信してただ従う」のが一番楽で簡単です。
なのでその意味ではそれは生き方において怠惰で不誠実で無真面目。そして硬直した固定的なものの見方しか出来なくなる、という意味では成長(変容)が止まるんですね。
「思想が合わない、価値観が合わない、性格が合わない」、この他者との差異、合わなさ、というものは人生において多々生じますが、
「合わない」「異なる」「真逆」というだけで、「敵」「殺し合い」「存在否定」のような極端な闘争性に単純に直結するわけではないように、
「敵」という本質性はそれ自体では存在してはいないが、ある特定の条件における関係性が与える作用と、コトバ・概念が存在の全体性を分割し、そこから「敵」という構築化が生じる。
「そういうものを構築化させやすい思想や、環境、概念の使い方、利害関係、あるいは防衛機制の次元」というものがあります。(これらの条件が多く揃うとより過激になりやすい)
たとえば「カルト的なるもの」、これは宗教以外にも様々なものがありますが、「存在否定するような断罪的な概念」をよく使いますね。
「その思考体系で考える以上、初めから敵か味方かしか生まない構造になっている」、「善悪のどちらかに存在を分割する概念」の作用が強いコトバの使い方が思想に多く含まれているため、精神がカルト化しやすい。
そのようなものは一見「理想の達成」でゴール(終結)するように見えて、実際は終わりません。その思考体系そのもの、存在を分割する概念の作用が、延々と問題を外部に生み出し続け叩き続ける思考ループになるからです。
「理想機械」が延々と存在に発見する「悪」を断罪し続け、どこまでも存在を微塵切りにしていく終わりなき概念プログラム運動なんですね。
しかし、「理想機械」から見れば「不完全で壊れた機械のような、不純で汚い劣った生き物であるかのような人間」は、実は多くの可能性があり、ゆらぎゆえに創造性が生き、そして変容し続けるのです。