生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない
徐々に寒くなって、秋も終わり冬も近づいてきましたね。
「生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない」、これはブルーハーツのチェインギャングの歌詞ですが、
今回も前回に引き続き、「歌・旋律の癒し・音楽療法」「ユーモア・ジョーク」のカテゴリー記事の更新です。
もし映画に音楽がなかったら、黒澤明の映画でも歴史に残らなかったでしょう。ジブリに音楽がなかったら千と千尋もヒットしなかったでしょう。
たとえば劇場版「鬼滅の刃」無限列車編で歌が音楽がなかったら、煉獄さんの命を懸けたファイトも盛り上がらなかったでしょう。
しかし「現実」の人間の生ドラマにはBGMも歌も絵になる背景もないじゃないですか、まぁ格闘技とかは入場曲があるし、スポーツとか芸能関連は、声援とか応援とか笑いの反応とか舞台のセットなどがありますが。
ところで、最も泥臭い世界である「政治」を、歌と音楽で演出するとどうなるか?以下に紹介の動画は「無駄にかっこよく演出したバイデンとトランプの討論」バージョンですが、クオリティ高いです♪
そしてさらに、様々なシーン、「通常は歌・リズムにはならない声や動作」に音楽やリズムを入れるとどうなるか?この無意味さ、無駄な編集力の高さには感心すると同時に笑えます。
人知れず会社員や職人が日々頑張っていても、地味な闘い、目立たない仕事は、たとえ困難であっても大変であってもきつくても、そこにはドラマティックな音楽や歌も声援もない世界です。
ですが、まれに↓こういうのもあるようです。
〇 出勤途中の会社員に「朝チア」でエール 活動1000回超に
「どこにでもある景色のようにどこにでもいる人々」の「ただの日常」、そこには小説よりもどんな物語よりも圧倒的なリアルな無音の「非公開の詩」が生きています。
そして想像上の物語の世界では、派手でかっこいい柱達が世界を支える物語が公開されています。
かっこいいコトバ、かっこいい音楽や歌、かっこいい立ち振る舞いやルックス、そしてかっこいい死に方、という全てが綺麗で、キマってる物語世界、感動を生む戦士の呼吸、非現実の世界。
ですが、「地味で泥くさくてかっこよくもない、どこにでもいる「世間の大黒柱」は、無音と無声援の世界で、透明化された柱として生き、どこにも答えもゴールもないキマラナイ世界を生き、
複雑で綺麗でもない現実の中で、小説よりも奇なる不可解な生を「ただ理由もわからず生きている」「生かされている」のです。
そして人々は何かにとりつかれたかのように「みながそうするから」と強迫観念的な生真面目さで同調行動し、理不尽な仕事環境でも全集中してきた結果、
身体を酷使し過ぎ、睡眠中には「無呼吸」、精神的ストレスからたまに「過呼吸」になったりしながらも、渡る世間は鬼ばかりを生身で生き続けている。
現実に猗窩座などという鬼はいない。しかし、ネットを覗けば、事あるごとに過剰に騒ぎ、人を断罪し、集団で叩き、相手を追い込む右や左の「井出尾露鬼」が出現する。
その他に、「自称:正義」を盾に存在否定する「過琉都」なる鬼もいる。過琉都は異能の鬼であり、霊、宗教、思想、感情や共感、様々なものを使って扇動したり、集団を一つの考え方、ひとつの正義、ひとつの価値に洗脳する。
異能の鬼は他にもいる。寛容とか多様性とか自由とか主体性とか何とかいいながら、気に入らない者の自由や主体性や個性は排除するという利部羅琉という鬼たちがいる。
弱き者たちからがっぽり搾取する血鬼術を持つ上弦の鬼たち、現場ではパワハラで部下を搾り上げる下弦の鬼たちがいる。
そしてネットでは、様々な人物が「無惨様」にたとえられているが、どう考えてもそれは無残に遠く及ばない人物ばかりである。
「悪」にも「格」があり能力の差異がある。無惨のような圧倒的な能力もパワーもないのに、「単に人の上に居座り下から巻き上げるだけの無能な自己肥大」などと比べるのは、
悪であったととしても、無惨様に対して失礼にあたる。悪においても格下であり、わざわざ柱クラスが出るまでもない雑魚鬼の類に過ぎないのである。
「上段のつもり」の傲慢、「無惨」というより「悲惨」、悪でも下段、だから結果も散々、、とちょっと韻踏んだだけの冗談。
まして雑魚鬼を「ただのおっさん」などといってはならない。「ただのおっさん」はかっこよくなくても地味でも、モテなくても人間界の大黒柱なのであるから、柱に対し失礼なことである。
未だに「ただのおっさん」の縁の下の底力が分からないようでは、人生修行が足りない。
「全くイケてないとはいっても柱クラスの働きをなしている人間」と、「情弱騙し大金集めただけの有害雑魚鬼の類」を同一視しているようではまだ呼吸が浅い。腹式呼吸で肚を鍛えるべし(笑)
生きているっていうことは カッコ悪いかもしれない
ブルーハーツはデビュー当時から聴いていましたが、あれからかなりの年月が流れた今でも、「チェインギャング」いい歌だなぁ♪と思います。
どんな知識があるか、どんな本を読んだか、どんな綺麗で立派な言葉を語ったか、肩書がどうとか、そういうこと自体より、「どんな行動をしてきたか?」「どんな行動をしているか?」、
その「時間」の集積が「世界」という巨大な運動体の一部を形成し、現実という構造を創り動かしている、それは今も昔も変わらない。
「誰に何をされた、誰彼のせいだ」、現実において確かにそれも事実関係としてあるだろう。でも物事を自己責任か、他者責任かという責任の概念で何でも区分けするのではなく、
自分の人生の主体性を他者に譲っていないのであれば、自身がどう生きてきたか、何を選択し、どう行動したかが、現在を創っている大きな力学のひとつであることには変わらないのだから、
それを観るのは、他者ではなく、そして他者が書いた本とかに「わかりやすく自己満足できる答え」を求めるのは楽だが、
たとえ不快や痛みを伴っても「己自身の生を観続ける」ことの中に、形もなく答えもない「心の学び」そのものがあるのでしょう。
学びそのものは、決して立派にも素晴らしいものにも見えない過程にある。「精神的」「知的」な生き方というのは、表に見える高尚さではなく、「格好悪いもの」の方に深く根付いている。