脳科学と人間性心理学   本能・欲求と自己実現の多元性

 

今日は「自己実現」をテーマに、脳科学人間性心理学の角度から考察した記事を書いていますが、これは去年の続きで補足の意味で書いたものでもあります。

 

脳の本能

 

医学博士・脳神経外科医の林 成之 先生によれば「脳が持つ七つの本能」というものがあり、シンプルながら私がフルに使った本能の定義と似ていますので今回紹介することにしました。

参考 ⇒  何にも長続きしなかった原因はこれだ!

 

そして林 成之 先生の本「脳に悪い7つの習慣」では以下のことが「脳に悪い」こととされています。これはシンプルなのですが、私自身が本能的な回復をしていく期間で「とらなかった態度」の一部と一致していますので、経験的に納得です。

 

 

 

1.「興味がない」と物事を避けることが多い

2.「嫌だ」「疲れた」とグチを言う

3.言われたことをコツコツやる

4.常に効率を考えている

5.やりたくないのに、我慢して勉強する

6.スポーツや絵などの興味がない

7.めったに人をほめない

 

 

脳科学と人間性心理学

 

人間の「動機づけ」となる欲求をマズローは基本的欲求と呼び、7 段階の階層図は『ヒルガードの心理学』に掲載され通常よく知られた5段階の階層図に加えて「自己実現欲求」の下に「認知的欲求」と「審美的欲求」が加えられています。

 

ここでマズローに対する批判的考察も紹介しておきますね。過去に当ブログで紹介した以下の外部サイト記事を参考にどうぞ。 ⇒ マズロー批判

 

上に紹介の外部サイト記事の批判ポイントは理解できます。他にも「野蛮な進化心理学」の著者であるケンリックもマズローを進化心理学的な科学的視点から批判していますが、

 

ケンリックはマズローを全否定はしておらず、一部肯定で一部否定しています。「ケンリックの欲求ピラミッド」は「生殖」を重要なファクターとしています。「生き物としての人間」、「形而下」の要素を重視している点で科学的ではあります。

 

ただ、人間は「動物でもありつつ進化に逆らう非動物・精神的存在・ミーム的存在」でもある矛盾した複雑系存在です。

 

「形而上」の部分にスポットを当てたマズローが、ケンリックから見れば非科学的なアプローチではあっても、これは精神分析と同様に、マズローの視点からの考察にも別の次元での意義があります。

 

そしてケンリックが批判したマズローの欲求の階層関係の捉え方ですが、そもそもマズローはよく知られた5段階の階層図的な捉え方を本当にしていたのでしょうか?

 

以下に紹介の「マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈」によれば、マズロー自身が階層図を作製したのではなく、しかも「成長欲求は階層関係ではなくすべて同等の重要さをもつ」という記述があったことが指摘されています。

 

◇ 参考PDF  マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈

 

しかし参考PDFにもあるように、

マズローは基本的欲求の階層図はもちろんのこと,それ類似した作図を,いっさい行っていないことが明らかになった。それどころか,マズローは自分の理論を「私の著作は膨大すぎて,専門の研究者以外には読んでもらいにくい」22)述べていた。

 

続けて、ポイントとなる部分の引用・抜粋です。ここは特にに重要だと感じる部分です。

 

そして,その自己実現を達するための存在価値(成長欲求)のリストが「意味」「自己充実」「無礙」「楽しみ」「豊 」「単純」「秩序」「正義」「完成」「必然」「完全」「個性」「躍動」「美」「善」「真」であった。

これらの徳目は相互に分節化されないで,基本的欲求の階図の一番上の区切りの内側に大きなスペースを与えて配置されていた(図6)。

さらに,台形の下底の外側には,基本的欲求の充足の前提件が明記されていた。

興味深いことは,基本的欲求の階層図の欄外には「成長欲はすべて同等の重要さをもつ(階層的ではない)」24)という注が記されていた点であり,

そこではマズローが発見した成長欲求のリストの間には階関係がないことが指摘されていた。

図・文の引用元 ⇒ マズローの基本的欲求の階層図への原典からの新解釈

 

 

では林先生の脳の本能(青文字)マズローの人間性心理学での基本(赤文字)の共通点を見てみましょう。

 

「脳の本能」である「生きたい」は、「マズローの欲求段階説」での「生理的欲求・安全欲求」に該当し「仲間になりた」は「愛情と所属の欲求」に該当します、

 

そして「知りたい」は認知の欲求(知りたい、理解したいといった欲求)に該当し「統一・一貫性」は審美的欲求(調和、秩序、美を求めること)に通じます。

 

そして「自分でやり遂げたい」は「承認・達成の欲求」に繋がりますね。

 

 

ダイナミック・センターコア

 

ダイナミック・センターコア』:「思考」を生む脳の機能の集まり。そしてその基盤となる本能が「違いを認めて共に生きたい」です。

 

この本能が「自他分離」と共に「自己肯定感」をベースにした自立性を持ち、そこに「内発的モチベーション」がある時、これは「調和的な自己実現」に繋がります。

 

この本能が「自己分離」と共に「自己肥大」に向かうならば、「分離的な自己実現」に繋がります。これに関連する過去記事を紹介しておきますね。

 

機能不全社会での「パーソナリティ障害」を生む自我意識の形成とそのタイプ

 

そして本能バランスが偏り認知がネガティブな方向性に向かう時は、パーソナリティ障害の傾向にも繋がり、その他の・精神のバランス異常にも繋がる否定的な力学にもなります。

 

また脳に機能的な問題・障害が生じていれば、当然これらの本能の統合性は大きく崩れるために様々な心・精神の病理となって現れてくるわけですね。

 

 

 

正誤を判断する」「類似するものを区別する」「バランスをとる」「話の筋道を通す」といった作用は、脳の本能の「統一・一貫性」に基づき、これは生きていく上で重要な要素でもあります。

 

そして「統一・一貫性」は「一貫性バイアス」にも繋がり、「統一・一貫性」+「仲間になりたい」=「多数派に合わたい」の同調作用となり、

 

これが「多数派同調バイアス正常性(恒常性)バイアス」に繋がります。

 

そして脳の本能の「自己保存」は、「生きていくために自分を守る」という現実的に必要不可欠な本能であると同時に、

 

統一・一貫性」+「自己保存」=「過剰な自己防衛・過剰反応」ともなり、それは「固定観念」や「自分の考えに反対の者に対する否定・排斥」や同調圧力にも繋がるのです。

 

そして「硬直した自己完結状態・硬直した自己統合状態」は、ある種の安定性はもたらすため「変化の少ない固定的な静的な環境や状況」においてはそれなりに適応的ですが、

 

創造性を失い、豊かな発展・成長・柔軟さや変化への対応力が乏しくなる傾向に向かうため「変化の多い動的な環境や状」においては適応できずに生きづらくなる傾向に向かい、

 

調和的な自己統合状態」は、それぞれの機能が生き生きと働きつつ「ゆらぎとリズムの豊かさを保ったまま動的にバランスし統合している状態」です。

 

つまりどのようなバランス状態か?で「複合的な本能の統合の状態」と「自己実現の可能性の質や広がり」は変化するんですね。

 

これらを独力で試行錯誤してきた過程が、私の「本能による回復」という表現のひとつの意味でもあります。(もちろんこれだけではありません。)

 

自己実現のための基本姿勢

 

そして林先生の本を参考に、私自身も実体験及び検証して納得した「自己実現をするためにベースとなるもの」を幾つかあげると、

 

ico05-005 一度目標を決めたら、簡単にコロコロ変えずに一気にやり遂げる

ico05-005 確実にこなせる目標を立て、達成することで自信を生む

ico05-005 目標達成のくり返しが自己報酬神経群を鍛える

ico05-005 脳を正しくがんばらせるには、「具体的に何をするか」「いつまでにするか」「今日は何をするか」などの目標を明確にする

 

そして脳が望む生き方は、「違いを認めて、共に生きる」ことだと言われています。それは「それぞれの質の異なる気質・性格・能力を持つ人間がその違いを否定して均一化して鋳型にはめ込む」ことではなく、

 

個々の違い=自他分離性を認め、そして全体性としては分離せずに共存・調和する、という方向性が「ヒトをヒト足らしている精神(脳の高次機能)」の本来の自然さ、ということですね。

 

これは「自己分離して全体主義的に生きること」ではなく、「自他分離し自立した個々が自己肯定感をベースに、他者と共にある」ことです。

 

未熟な個人主義」でも「個を抑圧化した全体主義」でもなく、「成熟した個人」をベースにした全体との調和り方は、このブログのひとつのテーマでもあり、

 

様々な角度から検証・分析してきましたが、脳科学的・生物学的に見てもこれは「ヒトの自然」であり、個々が最も自然力を発揮し自己実現しやすい在り方であり、

 

その結果個々の創造性が育ち、その多様性の働きが互いを補完する働きとなり、その総合力が全体に還元されることで個と全体が共に生かされる、

 

逆に「自己分離」=不自然に自己を殺し「個を抑えて全体に合わす」ような滅私奉公のような全体主義的な在り方は、脳科学的・生物学的に不自然であり、

 

個々の自己本来の自然力が抑えられることで自己が実現しずらく、創造性ある能力が育たず、その結果、全体に個々の活力が還元できないため、

 

総合力としての生命力を奪われて個と全体が共に尻すぼみになり生きにくくなる、ということですね。

 

日本型の社会構造と傾向

 

前半ではシンプルな自己実現・創造性・能力開花に向けた脳の使い方を書きましたが、

 

実際のところ私たち人間は世界・社会の中で生活しつつ、その中で長い時間を特定の「場」や「関係性」で生きており、「それぞれの場や関係性の質によって異なる外的な干渉」を受けています。

 

そして同時に個々の気質・能力の差異があり、「個々の能力」と「場」との「組み合わせ」も異なります。そしてそれぞれの「役割・立場」においても「要求されるもの」の水準や質には差異があり、

 

人の置かれている状況には縦方向にも水平方向にも外側にも内側にも多元性があるわけです。同時に性差などの生理的な差異、加齢による体力の変化など、そして様々な文化的差異などもあります。

 

なので「自身の置かれている現実、状態」を無視しそれに逆らった形であればただの理想論に過ぎず、「シンプルな本質」を理解したら、その後のより具体的な方法論や進め方は個々に合ったアプローチと工夫が必要です。

 

 

労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎は、欧米社会の責任概念を「ジョブ型」、日本型の責任概念を「メンバーシップ」と定義していますが、

 

こういう型の違いは結構根が深いものなので、簡単に変えられるようなものではありませんが、差異があいまいなまま、欧米方式の一部がご都合主義的に取り入れられることで、かえってイビツな状況を生んでいるとも言えますね。

 

「日本企業は「正社員」のコンセプトを捨てる必要がある」より引用抜粋

(前略)
新卒の採用にあたっては、特定の経験や技術よりも、性格や態度、素性(出身校、課外活動、教授からの推薦、会社との関係など)が重視される。

会社から将来割り当てられる仕事を、それが何であってもこなしていく潜在能力を候補者が持っているかどうかに焦点があてられる。

人事部が社員に仕事を割り当てるプロセスは、全くのブラックボックスであると言ってよい。多くの場合、割り当ての理由は不明瞭で、個人の興味、願望、才能、事情が考慮されることは殆どない。

偶然興味がある仕事を割り当てられることもあるが、それは決して保障されているものではない。つまり、正社員は自分の将来を企業に任せることになり、キャリアパスを自ら選べない。

その一方、日本の正社員は雇用者への服従を誓う代わりに雇用の保障を与えられる。竹中平蔵氏が指摘するように、「日本の正規労働は世界の中で見て、異常に保護されている」。

この雇用の保障は、経済的、精神的、社会的、および情緒的な何事に関しても、安定性に価値を見出す傾向のある日本文化において、非常に魅力的なものである。

しかしながら、日本の正社員システムには大きな問題が存在する。まず一つは、労働市場の流動性の欠如である。日本企業は社外にいる人材と比べて専門性が低くても、既存社員を育てることを好む。

正社員は別の企業へ転職する機会を殆ど持たず、基本的に自分の職場に封じ込められている。そのため、ベンチャー企業や中小企業にタレントが流れないことから、人材の有効活用が妨げられている。

さらに再就職が難しいことから、企業は社員が辞めないだろうと考え、扱いがひどい「ブラック企業」さえ存在している。

また、日本企業は社員の献身、やる気、動機付け、熱意といったものを当然と考えているため、これらの態度を積極的に推進するための方法を自ら開拓することがない。

これは重大な過失であり、日本の労働人口の才能が充分に活用されないだけではなく、日本企業と日本経済に害を与えるものとなっている– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 日本企業は「正社員」のコンセプトを捨てる必要がある

 

◇ 関連外部サイト記事  [追加更新]

流行りの「ジョブ型雇用論」が間違いだらけの理由 濱口桂一郎氏に聞く

 

郷に入っては郷に従え」とは言いますが、本来それが個にとって全体にとっても有害ではなくプラスに作用するもので、なおかつヒトの自然と調和したものであるにも関わらず、

 

「その健全な発現が抑え込まれている」とするならば、それは社会・システム・環境の方を更新するのが本質的に必要でしょう。

 

ですが日本では創造性が育ちにくい社会構造・精神構造があります。その仕組みと、このまま更新出来ずに進んだ場合の先行きの危惧を分析している以下のPDFを紹介し、今回の記事の終わりとします。

 

「教育と経済・社会を考える第5回 教育と経済成長」より引用抜粋

「第12回 暗黒の情報社会と教育 11.教育を高度化しても「暗黒の情報社会」には対応できない」で述べるように、教育には「飛躍的創造性」を圧殺する働きがある。

創造のためには既存の知識が必要であるが、「ラジカル・イノベーション」を成し遂げるほどの人間であれば、必要な知識は独学で習得することができる。

過去の「ラジカル・イノベーション」にはアマチュアが独学で成し遂げたものが多い。つまり、高等教育を「高度化」しても、

「ラジカル・イノベーション」による経済成長を促進することはできないということである。

そもそも、日本の「ムラ・イエ混合組織」(「第13回 日本の特殊性と教育」参照)では、「飛躍的創造性」を持った人間は、変なことを言い出して集団の一体感を壊す、

つまり、「多数派への同調」を拒否する者、「空気」を読まない人間として、いじめられ、村八分にされるのが落ちである。

日本人の「飛躍的創造性」は、漫画、アニメ、テレビゲームのような社会的地位が低く見られた周辺領域でしか発揮できなかった(漫画、アニメ、テレビゲームの社会的地位が向上するにつれて、「飛躍的創造性」が失われ、「改良的創造性」が主流となり、「改良的創造性」さえ失われつつあるように思える) 。

どの国でも、「飛躍的創造性」は、中心からあぶれたアウトサイダーが発揮するものであるが。日本の社会構造と日本人の精神構造(多数派への同調)を根本的に変革しない限り、日本が「ラジカル・イノベーション」による経済成長を行うことは不可能である。

日本の社会構造と日本人の精神構造が簡単に変わるはずはないから、日本は「ラジカル・イノベーション」による経済成長という夢を追い求めることはあきらめ、

「インクリメンタル・イノベーション」による経済成長という地道な方法に徹するしかないであろう。

ただし、「インクリメンタル・イノベーション」による経済成長は、「インクリメンタル・イノベーション」を低賃金で行う発展途上国との戦いを意味し、所得低下か敗北への道であろう

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 教育と経済・社会を考える第5回 教育と経済成長

 

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