このままでいいのか、いけないのか 反逆と野生
今回は前回、前々回の記事の補足(主にミーム的進化と身体知)と、創造性における「反逆と野生」がテーマです。
この時期、たまに浜崎あゆみを聴きたくなります。何故かはわかりません。ということでまず一曲 浜崎あゆみ / TO BE そんな昔の曲ではないのに懐かしい感じがします♪ (いや、通常の感覚では昔になるかな。)
「To be」 歌詞一部
周りは不思議なカオで 少し離れた場所から見てた
それでも言ってくれた 宝物だと君がいるならどんな時も笑っているよ
泣いているよ生きているよ
君がいなきゃ 何もなかった
ここでの「君」とは何か? いわゆる「理解のある彼君」のことか?(笑) 「笑うにも泣くにも、前提となるその君がいないんだよ!俺たちは!」とアレルギー反応を起こす人もいるかもしれない。「自由恋愛反対!」「異性愛謳歌のJPOPなんてクソ!」と。
しかしこれは「理解ある彼君」「他者」の意味ではないだろう。ここには社会化された存在の別面、心の中にいるインナーチャイルド的なイメージを感じますね。失いながら守りながら、どうにかして(試行錯誤して)何かを磨き上げた、そこには創造性が生きている。創造性、それは生きることそのもの。
「To be」という曲名は、シェイクスピアの「ハムレット」で有名なセリフ「To be, or not to be: that is the question」ー「 生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」の「To be」からとったらしいですが、ハムレットのこのセリフの解釈、訳には意見の相違があるんですね。
小田島雄志さんの訳では「このままでいいのか、いけないのか」で、文脈で観ればこちらの方が自然なんです。しかしそういう解釈の話はこの歌の文脈ではないので、「To be」=「生きるべきだ」でそのまま聴いています。
ところで、陰キャも陽キャも根源的には存在しないのです。ヒトは陰陽のゆらぎで生きている。構造が極端な偏りを生み出しているだけで、その結果、太極(創造の源泉)が失われ、そう見えるだけで、実際には存在はどちらかに固定はされないのです。存在は本来「太極キャ」です(笑)
「CAROLS」もいいなぁ。浜崎といえば私はこの2曲が好きです。⇒ 浜崎あゆみ / CAROLS
反逆と野生
えもいわれぬ、言葉にできない事象に、燻ぶった状態で参与しつづけていくことが体験である。いわば体験とは、性急に言葉にしないこと、拙速に答えをださないことで、いつかその体験が折々の別体験とむすびつきながら啓いていくであろういくつもの可能態を去勢しないで、まるっと抱えていくことである。
— 中島 智 (@nakashima001) April 4, 2021
自然科学のような専門性は、知的体系を理解していなければその膨大な知の領域を何も深く正確に理解できません。「知覚では全く知りえないもの」、「極めて隠されたもの」を推論し実証することによって解き明かしていきます。「実」としての法則です。
自然科学は神学のような観念体系とは全く比較にもならないほど膨大な知の体系を有しながら、尚且つ「未だ知られていないこと」の方が多いのです。
しかしたとえば音楽の場合、音楽の学者や学校の先生が音楽を一番理解しているか?とはならないんですね。確かに音楽の歴史とか様々な音楽の「概念」や音楽に関連する知識は沢山知っているでしょう。
しかし音楽は感性を含んだもので、無意識を含んでいます。そして無意識というものは元々学問で概念で理解するようなものではなく、権威には独占出来ない質のものです。
誰かが所有し権威化したり専門化するようなものではないんですね、本来は。アボリジニが芸大など行かなくても見事な芸術を生み出すように、創造性も感性も無意識も、アカデミアに囲い込めるようなものではないのです。
概念知、データは学者が大量に有していても、それは「感性そのもの」においては意味を持たないんです。音楽の勉強などやってない人が「音楽で思考し、創造する」、そこには言語的理解とは異なる、そして本では理解できない音楽の知があり、感性それ自体が発見していく。そして本来は宗教も同様なのです。
ある主張が真実であるかどうかを確認しようとするとき、仏教は最大の権威を「経験」に、次に「推論」に求め、「仏典の権威」は最後に来る(ダライラマ)
「科学と仏教における方法論的親和性について」 より引用抜粋
ディグナーガやダルマキールティによって展開され大成した仏教論理学派では「信頼すべき権威」(聖教量)を独立した認識手段として立てず、「推論」(比量)のうちに含めた。
(中略)
確かに「仏典の権威」(信頼すべき権威)は科学と決定的に異なる認識手段と位置づけられるが、ダライ・ラマによれば「仏典の権威は論理と経験に基づく理解を越えるものではない」[Dalai Lama 2005a: 24]。この考えは、例えばアサンガの『大乗阿毘達磨集論』に見える。そこでは「直接知覚とは、自身の対象があり、顕現するものに誤りのないものである。推論とは、直接知覚(で認識されるもの)以外への信頼である。信頼できる教えとは、この 2 つに矛盾しないものである」16 とされる 17。
(中略)
基本的に経験主義と推論を重視するという点で仏教と科学は似ているけれども、経験的な事実とは何かという問題や、推論の方法に関しては、著しい違いがある。仏教で実証的な経験というとき、それはかなり広い経験主義的な理解をしており、五感による証拠に加え、瞑想状態で得られる経験も含んでいる [Dalai Lama 2005a:
31]。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 科学と仏教における方法論的親和性について
現実では「知」は権威に囲い込まれています。そして学問の「知」による階層化が、格差の固定化と再生産の大きな力学になっているのです。「知」のシステムは階層の上にいくための、あるいは固定化するための手段になっているともいえます。
ではここで社会心理学者 小坂井敏晶 氏のオンライン講義「教育という虚構」の動画の紹介です。う~ん本質へ突っ込みますね~なかなかのロックな学者さんです(笑)
追加更新ですが、つい最近出た本で、ハーバード大学教授で哲学者のマイケル・サンデル氏の著書「実力も運のうち 能力主義は正義か?」もおすすめです。格差の枝葉末節を観れば様々ですが、先進国社会における「人生の階級化・分断化・差別化」の大きな力学・構造のひとつはここにあるでしょう。
⇒ 「人種差別や性差別が嫌われている時代にあって、学歴偏重主義は容認されている最後の偏見なのだ」マイケル・サンデル『実力も運のうち 能力主義は正義か?』試し読み
マイケル・サンデル氏の本と合わせて、カズオ・イシグロ氏のインタビュー記事を読むと、彼の問いかけの意味がさらによくわかるでしょう。
「リベラルアーツ系、あるいはインテリ系の人々は、実はとても狭い世界の中で暮らしています。」、「リベラル側の人が理解しないといけないのは、ストーリーを語ることはリベラル側の専売特許ではなく、誰もが語る権利があり、私たちはお互いに耳を傾けなければいけないということです。」 カズオ・イシグロ
⇒ カズオ・イシグロ語る「感情優先社会」の危うさ 事実より「何を感じるか」が大事だとどうなるか
前回の記事でも少し書いていますが、「人権」や「科学」のみならず、現代社会、西洋先進国社会の型(資本主義、合理主義、理性主義、個人主義)等は、キリスト教ミームの進化の過程で生まれたものをその雛形として土台にしている。
その意味でキリスト教はニンゲン世界の創造の過程での巨大な役割を持ったミームであり、ネガティブな面はありつつも物凄い力を持ったミームだったのです。
「理性主義のシステムとしての資本主義」より引用抜粋
ローマ ・カトリックの普遍主義は,理性主義が志向する一般性 ・普遍性と重なってくるし,聖職位階制は,まさにヒエラルキーである。また,宗教改革 における免罪符批判においてなされた,信仰を各人の良心に求める観点は,個人を析出することになり,個の自律性や自由につながる観点と言える。
カトリシズムやプロテスタンティズムという派閥的相違を反映して,それぞれの特異性において表現されてはいるものの,一 般論的に言えば,キリスト教の特性は,システム論的に,理性主義の観点を体現するものと言えるのである。
それは,間接的ではあれ,キリスト教のパラダイムが近代の準備に一定の貢献をしていることを示すと解釈できる。この点でも,プロテスタンティズムの教義が資本主義的行動様式や価値観につながるものであることに注目するものの,単にその言説的教義内容のみをもって資本主義との連繋を語るウェーバーは,表層的であると言わざるを得ない。
すなわち,中世社会において体制内化したローマ ・カトリック教会を批判して,本来の教義に向き合おうとしたルターの観点は,言説的内容において近代を用意するイデオロギー的基盤を成すだけではなく,システム ・イメージの形成に寄与するという点 で,システム論的意味をももっていたのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 理性主義のシステムとしての資本主義
しかし近代社会は行き詰まり、様々な領域で限界性を有し、特定の問題を深刻化もさせている。それは西洋的なロゴス的知性の限界ともいえます。そして「レンマ的知性」は現在の限界性を超えるひとつの思考の型であり、ロゴス的知性とレンマ的知性が合わさりクリエイトされることで、可能性の幅、領域が広がることを感じています。
これぞミームの「領域展開」ですね(笑)
このままでいいのか、いけないのか
哲学的思考での存在論 認識論、そして「自由意志と神の意志」、「人が動かすのか天が決めるのか」等、ロゴス的知性で思考する西洋の思考の型は、それが多様化しても結局のところ、「矛盾」を前提にした弁証法的神学のようにロゴス的知性の範囲に完結した形而上学にしかなりません。
ロゴス的知性では「実」に触れることはなく、どれだけ多元的であれ概念としての思想しか生み出せません。永遠に概念知の矛盾と弁証法の中で、虚の創造性が新たな観念を生産していくだけなのです。
レンマ的知性はロゴス的知性では捉えられないものを思考で把握する知性ですが、それも「実」そのもには触れていません。
「中観派とその論法」 より引用抜粋
伝統的な仏教理解において, 空の教えは瞑想などの実践と切り離して考えることができないものである。
(中略)
空には論理で説明しているレベルと, 瞑想によって体験するレベルのものがあるというのである。
(中略)
空は, 概念を超えたものであり, それは二元論的意識で理解するのでは不充分で, 二元論を離れた最も微細なる原初からの心によって捉える必要があり, そのための実践法として密教がある。
(中略)
ナーガールジュナやチャンドラキールティが説いた, 主張を持たないという空の理解は, 体験的理解のレベルである。 しかしそのような空を理解することは極めて困難であり, 誰にでもできるものではない。 ナーガールジュナは 『宝行王正論』で至福の法は説く相手を選ばないと虚無論に陥ると注意 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ 中観派とその論法
話を戻しますが、創造性の源に触れる時に湧いてくる「実」の力をここで「野生」と呼びます。実存の根源は概念以前に在る何か、そして「実」の力としての「野生」を失う時、概念の奴隷となり、ゆらぎを失う。
「私」の前に存在の意志はある、存在は常に「今」「未知」を生きる。「世界に開く」というのは未知へと向かうこと。「無心」というものはシンプルですが非常に深いです、無心ゆえに「心を動かす」ことができる、「無心」「無為自然」は、存在の自由意志なのです。
それはある種の「反逆」です。ここでの反逆は闘争を意味しません。知を含めたあらゆる権威から自由な心、です。
「信仰を捨てる」ということ
信仰者は、「信仰を捨てる」のを悪い事のようにいいいます。しかし「信仰」という思考運動も、「信仰を捨てる」という運動も、「根源的な信仰(環世界)」を元に生じている信仰状態(特定観念の選択)の差異でしかなく、
そして「信仰を捨てる」という運動性は、より深くより複雑な世界へ開いていくための「ミーム的進化」に繋がるものなんですね。
無意識の領域から観れば、「信仰を捨てる」ことは「信仰そのもの」がより複雑で精妙なものへとクリエイトされていく過程なのです。自我領域から観れば「一貫性・同一性と共に在るアイデンティティを失った」かのような否定的なものに映っても、あるいは「裏切り」的なイメージであっても、
実際は「アイデンティティ」それ自体が「私」の連続性であり、連続性は自我のループ、慣性運動で、この慣性運動を止めるのは、より大きな視座が必要で、そしてそこから外れていくというのは創造性の働きなのです。
クリエイティブな力が加わらなければ、「信仰」と「アイデンティティ」に同化した「私」の連続性は終わらず、ただ一貫性の中で閉じ続けるだけです。
そしてその枠の中で、時間と共に強化されていく終わりなき「私」の完結した眼差しから切り取られた世界のイメージの固定化が生じ、「世界」という神秘は、概念に分割された静的な「虚」の意味世界に置き換わっていくだけなのです。
そこに固定化されることで、生の複雑性を見失っていくのです。言い方を変えれば、「クリエイティブに在る」ということは、連続性ではなく、飽くなき変容性であり、それには「強さ」と「柔軟さ」が必要で、「開いていくこと」への恐れを超えなければならない、のです。
変容と共に、「世界は日々新しい何か」、「その都度異なるものとして触れられる何か」、「現前する動的な全体性」として個の実存を揺らがせ続ける。