「正しさ」の多元性 言語・文法と能動態・受動態・中動態
今回は「正しさ」というものの多元性がテーマで、言語と文法からの視点をメインに、そして「能動態・受動態・中動態」に関して考察しています。
「能動では、動詞が主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり、主語は過程の内部にある」(言語学者エミール・バンヴェニスト)
「正しさ」は論理的な正しさと倫理的(道徳)な正しさがありますが、論理展開には帰納法と演繹法があるため、論理的でさえあれば正しい、とはなりませんが、「前提」が普遍的・客観的事実に基づくのであれば、演繹法による論理展開が導くものは「正しい答え」です。
帰納法は統計的な要素を含むので「数」による相対性が生じます。
と、そのように言えても、現実はそう単純ではありません。複数の要因や力学が複雑に絡んでいる動的な現象を扱う際には、ひとつの公式で全てを説明できるほど簡単でも単純でもないからです。答えもひとつではありません。
例えば医学ではプロの経験則、帰納法による検証、そして演繹も両方使われますが、そしてベネフィットとリスクの関係で見た場合、医療でいうならEBM(エビデンス・ベイスト・メディスン 根拠に基づいた医療)によって、
リスクがベネフィットを上回ることを避け、可能な限り信頼できる有効な手段を用いようとするわけで、これは絶対的な100%の安全ではなく、
一部の例外が発生する意味でゼロリスクではないわけです。にしても総合的に他の手段よりは安全でリスクが少ないから選択されるわけです。
EBMは100%有効・最適であるわけではないため、その差異・誤差を埋めるために帰納法による検証や、NBM(ナラティブ・ベイスト・メディスン物語に基づいた医療)が必要とされるわけですね。
医学というのは、知識とバイオテクノロジーを、固有の価値観を持った患者一人ひとりに如何に適切に適応するかということである。
ピアノのタッチにも似た繊細なタッチが求められる。知と技をいかに患者にタッチするかという適応の技と態度がアートである。その意味で医師には人間性とか感性が求められる。(故・日野原重明先生の言葉)
理想的には100%「私失敗しないので」がいいですが、トロッコ問題のような「現実的な選択を迫られる状況」というのは様々な意味での限界性・有限性によって必ず発生するわけですね。
トロッコ問題的な状況を含む現実世界にあって、ゼロリスクを追求しすぎる姿勢は「全体としてのリスクを増大させる」ことにも繋がります。
このような現実における「正しさ」というものは何でしょうか?
「対応する側」の目線であれば、少数よりも多数の利益を優先させる方をとるでしょう。ですが、「当事者側」から見た正しさは、自身が決して見捨てられない、あるいは「100%の成功」でしょう。
ですが、合理性やら理論やらの正しさでなく「当事者でなければわからないもの」というのはあるんですね。
〇 がん専門医が末期がんになって分かった たった一つの大切なこと
↑上に貼ってあるリンク先の記事のように、「大事なこと」「正しさ」が「立ち位置」によって反転してしまうことがあるわけですが、
このように「正しさ」というものが現実での制約を受ける、そして生身の切実な経験によってしか気づけないものがある、というのはこれに限ったことではなく、
「人を殺してはいけない」という「道徳的な正しさ」もそうですね。戰爭では「人を殺す」ということが認められるわけです。ですが殺してはいけないが「絶対」であれば、皆殺しにされるか、あるいは国を失います。
また「赤ちゃんによる暴力」や「心神喪失状態での殺人」は同じものとして問えません。つまり善悪は、それをなす主体の状態や「意志・責任」の所在によっても変化する相対評価でもあるわけです。
論理的な正しさは「である」、倫理的(社会道徳)正しさは「べき」であり「数の論理」に強く作用を受けます。そして「自我」は社会化によって「べき」に条件づけられ、「理性」は正しい知識によって「である」に条件付けられます。
倫理的(社会道徳)正しさは価値判断であり、論理的な正しさは事実判断です。
相対主義も、それが価値への相対なのか、事実への相対なのかによって異なり、事実への相対が「認識相対主義」を生み、例えばこれが無制限になると「反科学」へと繋がることもあるわけです。
科学の「価値中立性」で、事実判断に重きが置かれるのは、価値判断が「存在すべきもの」についての判断であり、科学は「存在するもの」についての事実判断だからです。
ところがこれも他の角度を加えて「言語」に注目すると、価値と事実の分離がそう簡単ではない、というものが見えてきます。
「事実と価値(fact and value)」より引用抜粋
「だが、われわれが日常使用する用語のうちには、「勇敢/臆病」「清潔/不潔」「熱心/不熱心」「緻密/粗雑」といったように、事実への言及が同時に価値的評論ともなるような言語が溢れており、
これを一概に事実と価値のどちらかに分離することはできない。これに関しては、たとえば、ヘア Richard Mervyn Hare のように、
自らの「指令的(prescriptive)」な表現を「記述的(phrastic)部分」と「態度表明的(neustic)な部分」との合成として説明したり、
あるいは同じヘアが、価値の事実への「随伴(supervenience)」を想定したりする考えを示しているが、ここには依然として事実と価値の二元論は保持されている」(神崎[2006:359])
◆厚い記述と薄い記述
□「これに関して、上記の表現を「厚い(thick)概念」と呼び、これを「善/悪」「正/邪」といった「薄い(thin)概念」に対立させて、前者に事実と価値の二分法にとらわれない独自の位置づけを与えたのは、バーナード・ウィリアムズ Bernard Williams である。
これとは独立に、クリフォード・ギアーツ Cliford Geertz は、文化人類学者の立場から、ある特定の文化や社会において有意味であるような行為記述を「厚い記述」と呼び、
行動主義の学者が観察するような普遍的な行動記述を「薄い記述」と呼んで区別している- 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
このテーマに関連する参考PDFを以下に紹介します。
参考PDF⇒ 事実認識と価値判断の問題
価値や意味は関係性の中で生じるものあり、その本質は絶対的なものではありません、それは事実の因果関係の探求とは異なります。
自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由である
① 能動態と受動態の二項対立=「する」対「される」 ② 能動態と中動態の二項対立 = 「自由意志」対「決定論」
②では「主語が過程の外にあるか内にあるか」が問題とされる、ということですね。
「意志を強く問う言語」・「尋問する言語」の登場によって、私たちは「する」と「される」の内でしか自身の行動を捉えられなくなっている、
「する」と「される」の外側がある、それが「中動態」であり、これは以前過去記事でも紹介した「受動意識仮説」にも通じるものがあり、ナラティブアプローチやオープンダイアローグ(開かれた対話)とも関連します。
主体が無意識の方にある、「無意識の側から行動を捉えている」とも言えますね、どうすることも出来ない「決定論」な部分に焦点を当てます。
西洋の二元論は顕在意識による「外在」をメインに扱うものであるのに対し、東洋には無意識(内在)を扱う一元的視点があり、そこでは中動態を扱うわけです。
「中動態」は東洋思想、例えばナーガールジュナの中論、唯識理論など、西洋であればスピノザの「内在原因」にも関連する深いテーマです。
「顕在意識の側」に行動の主体があるという捉え方の方が主観としては普通のはずです、なのでこの場合は行動の結果が重要になるので、結果に対する「責任」から「意志」が「原因」として問われます。
ですが、「私の意志」が行動に先立つには『「私」が「身体」に先立つ主体』であることが前提になりますが、実際は「身体」の方が「私」に先立つものなんですね。
能動態・受動態が中心になったのは、「意志と責任」と結びついた現代の「大人の事情」が密接に関係しているため、「中動態」は隠れている、あるいは隠されている、ともいえるわけです。
「見えないもの」であるこの態が、本当は人間の主体であるという事実は、科学的にも部分的に実証されつつある深いテーマでもあるわけです。
これだけが全てだとは私は考えていませんが、受動・能動だけではない態がある、そして「意志と責任」という角度からは見えない行動の原理がある、という認識は、物事・現象の捉え方を広げ解放します。
◇ 関連記事の紹介
〇 『中動態の世界』がひらく臨床 ――臨床と人文知をめぐる議論が再び活発化することを期待したい評者:松本卓也
〇 我々が「行動の原動力」だと考えるもの 「中動態の世界中」意志と責任の考古学/國分功一郎 著 感想①
〇 【読んだ本メモ】國分功一郎『中動態の世界 意思と責任の考古学』(医学書院)
〇 『中動態の世界 意志と責任の考古学』善でもなく、悪でもない。あいまいさを語る幻の文法
〇 (書評)國分功一郎著「中動態の世界 – 意志と責任の考古学」を読んで考えたこと
〇 『責任という虚構』
以下「ニーチェの言葉」を二つ紹介します。
事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである。
一段深く考える人は、自分がどんな行動をしどんな判断をしようと、いつも間違っているということを知っている。
こういうニーチェの言葉は「極端」だと思うでしょう。ですが脳科学的に見た場合でも、これは真実であるともいえるんですね。また探求者が「深淵」に飲み込まれないために必要な態度である、とも言えます。
〇 脳はこんなにダマされている 〜気鋭の脳科学者が明かす「ココロの盲点」
ではラスト以下に精神科医・名越康文 氏による「正しさ」にこだわる心理に関する外部サイト記事を紹介します。
「「正しさ」にこだわる人の共通点 “過去の無力な自分”と闘っている可能性も」 より引用抜粋
(前略)
怒りの結晶が体内で疼(うず)いている人にとっては、世界のすべてが自分の過去と結び付けられるんです。「正義の人」は強要しがち
ただね、そこから性急に「あなたも許せませんよね、あなたもそうですよね?」と、周りの人たちに同意を求め出すパターンに流れると、ちょっとやっかいな場面になります。
そんな過去の怒りや苦しみを持っていない人の場合、でもとりあえず理屈はわかるから「たしかによくないことですよね」とか、ちゃんと返事するでしょう。
そうすると「じゃあなぜ立ち上がらないんですか?」なんて厳しく問われてしまったりする。
「これは社内改革が必要です!」とか「法に訴えましょう!」とかヒートアップされると、こっちは正直キョトンとしてしまいます。
でも、熱っぽく正義を説いている側からすると、あいまいなこちらの態度は、なんていう無知だ、なんていう無関心だ、挙げ句はなんていう偽善者だ、という風に、勝手に断罪されてしまうことになる。
(中略)
少し距離を置いた冷静な態度に触れると、余計に当人は怒りが類焼していって、部署や会社の問題を通り越して、「この腐った日本社会を変えなければならない」とかね。どんどん正義の人として先鋭化していく。
(中略)原因は「自分の過去」にある
ともかく内なる情念に衝き動かされて、ある種の熱狂状態の中で正義や正論を説こうとしている人というのは、実は「自分の過去をやり直そうとしている」というのが心の本質だと思うんです。
しかもその「やり直し」の作業って、ほとんどの場合、自分の努力で過去の痛みを昇華するという方向は取らないんです。自分を傷つけた相手の行動を「変えさせたい」という形を取るんですね。
(中略)
ちょっと話がそれました。ただ、もし僕たちが子どもの頃から、それぞれの能力や好みに応じた適切な「実践」の場を与えられていたら、ネガティヴな情念に苛(さいな)まれる人生がずいぶん減るのになあ、とは思うんですね。みなさんも、自分が過剰なほど「正しさ」にこだわる局面、そこに反応が鈍い他の人たちを「許せない」と感じてしまうことがあったら、ちょっと落ち着いてセルフチェックしてみて欲しいんです。
それは自分が傷ついた「過去」を取り戻したいだけではないのか?と。もしそのまま暴走すると、他のみんなの「いま」や「未来」とすれ違ったままになっちゃいますから。