実存的不安~否定的同一性  フェイスとアイデンティティ 

 

今回は、社会学・心理学、そして「フェイス」という概念から否定的同一性をテーマに考察しています。

「現代の生きづらさ」というのは、まぁいろいろあるのでひとくくりには言えないでしょうが、

そのひとつに、再帰的近代化の中で、内外の双方向からの複雑化した問いかけに応えられない板挟みに圧縮されている存在状態と、過度に抑圧化された実存的不安(無意識)から生じるものがあります。

 

「コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論」より引用抜粋

日常的な常識では、自我がまずあって他者と交流していくように考えがちだが、社会学的には逆に、他者との関係がまずあって結果的に自我意識が成立すると考える。

また常識では、自分というものがまずあって、それが外在的な役割を引き受けると考える。役割は、取り替え可能な仮面であって、自分そのものではないと考える。

しかし現実には、役割を引き受け、役割を生きることによって、はじめて自分自身をたしかな存在として感じる。すなわちアイデンティティの確立・自分らしさ・生きがい・精神の自由・自己実現といった現象が可能になるのである。

このように、一般にわたしたちが自覚していることと社会学的認識とはしばしばくいちがう。人間関係としてのコミュニケーションも、常識や一般通念で誤解されていることがらのひとつだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論

 

ではここで柘榴さんのcoverによる「命に嫌われている」を紹介です。

 

柘榴さんのバージョンも凄くいいですが、「Vo.めゐろ」さんのバージョンも凄くいいですね、以下にリンクを貼っておきますね♪ ⇒ 【歌ってみた】 命に嫌われている。 Vo.めゐろ

 

聴いた瞬間、曲・歌詞の雰囲気がamazarashiに似ているなぁと思いましたが、捉えかたの角度はそれぞれに異なっていてリアルさがとてもいいです。

私が感じたことは、命「に」嫌われているんじゃなく、「存在が蔑ろにされた現実」の中では、深い意味で命「が」嫌われている、という方が自然な感覚かもしれない、ということですね。

部分としては愛されていても、存在は「全体性としては嫌われている」という意味です。

これは受動的に捉えるなら「嫌われている」となりますが、能動的に捉えるのであれば「命を嫌っている」とも言えます。

僕らは「命を嫌っている」、そんな僕らの心の投影された世界に僕らは生きている。だから僕らの「命が嫌われている」、

つまりみなで首を絞めあって互いに嫌い合ってるような世界に生きている、「みながそんな世界の原因であり結果でもある」ということですね。

 

無意識には主語がない、存在への嫌悪は自身への嫌悪にもつながります。また、親や大人たちが存在を嫌悪している場合、それは子供たちの意識に転写・反映され、子供たちは存在を無意識で嫌悪していきます。

その集積の結果、潜在的に存在への無慈悲さが強化され、憎しみのエネルギーは鬱積していきます。一般人でもキッカケさえあれば一気に無慈悲な集団的な暴力性としてそれは現れてきます。

 

ではもう一曲、そらるさんのcoverによる「死ぬにはいい日だった」をどうぞ♪

 

とはいえ「命の現れ」の全てが嫌われているわけではなく、その中の深いより普遍的・本質的な生命・存在が見過ごされている、だから命はある意味で常に蔑ろにされていて、

どんな人であれ、絶対は存在せず、本質的には「存在論的安心」によって「実存的不安」を打ち消し続けることで虚無に飲まれないように日常を維持している、と「思い込んで生きている」わけですが、

これはハイデッガー的に言えば「存在忘却」ですが、キルケゴールが神への自己放棄によって虚無を超えようとしたのに対し、ハイデッガーは「」を意識することで、「交換不能な一回限りの唯一の自己」へと意識を向けさせました。

実存的不安」は、「無常である生の本質、絶対の安定も絶対の信頼もない変化し続ける現象の本質」から発生する自然感情であるため、なくなることはありません。

そしてこれに本当にダイレクトに向き合うというのは、現世の根源的な否定にも繋がる可能性があります。何でも安易に向き合えばいいというものでありません。

そしてそれを超えるというのであれば、思考の遊びや哲学的な考察では不可能であり、常に生じ続ける「実存的不安」を打ち消す方向性ではなく、逆にそれを生み出す主体の方へ自ら向かっていくことです。

それは思考に止まる範囲ではなく、「自我を超えた悟りへの道」へ向かうことであって、自己実現の対極にあるものです。

 

ico05-005 経験は、経験に対する欲望のように消えることはない。私たちは経験を積む間は、自らを探求しようとしてはいけない。(ニーチェ)

 

本質的に絶対の安定などないからこそ、安定しなければカオスに飲まれ、絶対の信頼などないからこそ、信頼関係が必要なんですね。

そして根源的な人生の意味・価値が存在しないからこそ、「意味」・「価値」が創出されることが必要なんです。

日常の中では様々な意味・目的・価値が生み出され、そして存在論的な問いに対して例えば「神」という絶対価値が生み出されたりする。

 

ギデンズのいう「存在論的安心」は、エリクソンのアイデンティティの「基本的信頼」とも関連しますが、「基本的信頼」というベースがあって「存在論的安心」が無意識レベルで生じる、

「存在論的安心」が自己肯定感のベースにあり、これがあるからこそ、『本質的になくすことは出来ない「実存的不安」』が過度に意識に上がってきて虚無に飲まれるのを防ぐことが可能になるわけです。

 

〇 補足 現代思想の系譜
〇 再帰的近代化 メモ
生と死の〈弁証法〉と〈内在的終末論〉への願望
再帰的近代社会における敵対性
心理主義化社会のニヒリズム
心理学化する社会の向こう側 ―来るべき社会学的ケアにおける
批判と臨床―

 

ラスト一曲、Sia「 Free Me」の歌詞(一部)と動画の紹介です。

 

「Free Me – Sia 」歌詞・和訳 ー 引用抜粋

あなたと見つめ合いたくない
恐れているの 見えてしまうかもしれないものを
気がついたらここにいた
私は燃えている炎
(中略)
だから私を解放して
そう 私を解放して
私が逃げ続けている この苦しみから
疲れてしまって 崩れ落ちている
私を解放して
そう 私を解放して
私が逃げ続けている この恥ずかしさから
ぼろぼろになって あなたを呼んでいる

引用元URL ⇒ Free Me – Sia 和訳と紹介

 

フェイスとシェイム

 

人間には2種類の「基本的欲求」があります。それは生理的欲求心理的欲求ですが、生理的欲求は一次欲求といわれ、睡眠欲・食欲・排泄欲・性欲などで動物的な基本欲求とされています。

心理的欲求は二次欲求で、成長・発達の過程で生じるもので、自我欲求・社会欲求・自己実現欲求などがあり、人は社会の中で生きる動物でもあるゆえの他者との関係性の中で生じる欲求です。

「他者との関係性」によって生じるものは様々なものがありますが、ここから、末田清子さんの「多面的アイデンティティの調整とフェイス(面子)」という角度から、アイデンティティを考察してみます。

参考⇒ 末田清子著『多面的アイデンティティの調整とフェイス(面子)』

 

まず、概念をシンプルにまとめます。

フェイス(面子)、背後にあるシェイム(shame:人間の支配的な感情-自分が拒絶されたり否定されたりした時に伴う感情 )とプライド(pride:自尊心)

シェイムを正面から認める = 「acknowledge:承認」、迂回させて気づかせないあるいは気づかないようにする = 「bypass

<例> シェイムが強すぎる ⇒ お互いに「拒絶されている」という想いが強まる⇒ 関係破綻

シェイムが弱すぎる ⇒ 関係性に飲みこまれてしまう ⇒ 例:DV、モラハラ、パワハラの被害者で加害側に飲まれて抜けられない状態

<研究によってわかった結論>

結論1  「フェイス(面子)は、個人がある特定のアイデンティティに思い入れをもつ指標である」

結論2  「フェイス(面子)が脅威にさらされずシェイムを感じることがないと、アイデ ンティティは強化されない」

結論3  「自己のフェイスが侵害されるあるいは脅威にさらされたとき、そのシェイムに向き合うことでプライド(自尊心)を取り戻したとき、 アイデンティティは強化される」

結論4  「自己のフェイスが侵害されるあるいは脅威にさらされても、そのシェイムが迂回されると、アイデンティティは強化されない」

結論5  「あるカテゴリーのアイデンティティに関わるフェイス(面子) が侵害された(潰された)ときのシェイムは、別のカテゴリーのアイデンティティでは払拭されない」

結論6  「自己のフェイスが侵害されるあるいは脅威にさらされたとき、シンボルが潜在化されるとアイデンティティは弱まる」

 

例えばキリスト教徒は、迫害され時、そのシェイムに向き合うことで、プライド(自尊心)を取り戻したとき、キリスト教徒というアイデンティティは逆に強化される。宗教者の信仰は迫害され時に逆に強化される傾向性に当てはままりますね。

 

 

〇 ピグマリオン効果とは、他人から期待を持って関わられることが結果に与える「正」の作用

ゴーレム効果とは、他人から期待を持たないで(悪い印象を持って)関わられることが結果に与える「負」の作用

そしてこの二つの作用が発揮される条件は「外発的動機付け」が優位な状態で、かつ対象に対する依存度・信頼度が高い場合です。

内発的動機付けが優位の場合、この作用に関係なく自身のモチベーションを保ちます。また、「外発的動機付け」が優位であっても、全く信頼も依存もない対象からの作用の場合は強く作用はしない性質のものです。

ハロー効果とは、ある対象を評価する場合に、その対象が持っている多くの属性のうち、「ひときわ目立つ優れた特徴もしくは劣った属性」に引きずられて、対象全体の評価が歪む現象です。

ハロー効果のの方向性はスティグマとも関連します。肩書とか容姿とか出自とか、まぁそういうものです。

例えばカルトの場合、組織外部からはゴーレム効果・負のハロー効果が作用しますが、

組織内部ではピグマリオン効果が作用することで、心はより楽で気持ち良い方に流れるために、外部の否定と内部の肯定は解離していきます。そして外集団・内集団バイアスは自然と高められていきます。

 

 

否定的同一性」を強化している場合は、シェイムに向き合わせることが一般人とは逆に作用する。

それは「シェイムに向き合うことでアイデンティティは強化される」が負の形でそのまま作用し、否定的同一性が強化されてしまうからです。

ただ、否定的同一性がそれほどでもない場合は、「自己のフェイスが侵害されるあるいは脅威にさらされたとき、シンボルが潜在化されるとアイデンティティは弱まる」の方に向かいやすくなるため、

否定的同一性がどの程度の強さなのかによっても変わる、ということですね。否定的同一性が強化されている状態では、徹底して向き合わせて直面化させるやり方では昇華されません。

それは「一般人、あるいは基本的な部分は壊れていない人の正しい反省の姿勢」なんですね。

現実直視の方向で内省的な洞察を高めるものですが、それが出来るくらいならそうなってはいないわけで、変容性内在化と昇華が生じるには、一般人とは異なる順序が必要なんです。

一般人の社会化されたアイデンティティは、一時的な脱線やミスをした際に、シェイムに直面化させることで強化・回復され、アイデンティティとのズレが自己修正されるわけです。

ですがそういう基礎部分が不足し抜け落ちているような自己形成不全状態の場合は、追い込みや徹底した直面は、そもそもそれを受け止める正のアイデンティティがないため、受け止めようがない、

何も受け止められずダイレクトに存在が否定されるだけであるために、自己愛を強化することで原始的な防衛を強化することに繋がるわけですね。

「ないもの」が成長したり育つことはない、という単純な事実によってそうなるわけです。

 

結論4 「自己のフェイスが侵害されるあるいは脅威にさらされても、そのシェイムが迂回されると、アイデンティティは強化されない」ということですが、

徹底した存在否定によってネガティブ感情が強化されている場合、迂回は難しいでしょう。

なので、正負のどちらの作用であれ、シェイムに直面化させることは全て攻撃として感じられ、低次の防衛機制・原始的な防衛機制が優位になりやすい傾向に向かうわけですね。

そのため慢性的な敵意と闘争性の状態となり、粗暴・凶悪になったり、極端に冷淡・排斥的・敵対的になり、外部の世界を排除していく傾向性を高めたりする。

そもそもズレを感じる正のアイデンティティの人格ベースが貧弱なわけだから、ますます自己中心的になっていくわけです。

コフートは傾聴を重視し、そして転移を肯定的なやり方で使って成長を支え助けるのですが、

この母性原理的な補助過程を経た後に、カンバーグの父性原理的な「内的世界を解釈し直面化させ、表象を統合する課題のやり直し」を行わせ「鍛え治す」やり方に移行すれば、「シェイムに向き合うことでアイデンティティは強化される」に進めるということですね。

囚人に優しいノルウェーの再犯率は16%と日本の半分以下」という事実は、「フェイス(面子)が脅威にさらされずシェイムを感じることがないと、アイデ ンティティは強化されない」の結論が当てはまり、

また、「あるカテゴリーのアイデンティティに関わるフェイス(面子)が侵害された(潰された)ときのシェイムは、別のカテゴリーのアイデンティティでは払拭されない」の結論から考察すると、

いきなり否定的アイデンティティを潰すような働きかけをした場合、そこで生じたシェイムは、正のアイデンティティでは払拭されないということです。だから段階的な過程が必要なんですね。

よってこの二つの結論から、ノルウェー式の場合は「犯罪者」という負のアイデンティティが強化されず、正のアイデンティティへ自然に移行しやすくなる、ということです。

 

「否定的アイデンティティ」が生じた力学のひとつに「両価性」があります。両価性 ⇒ 逆説的な反応 ⇒ カウンター・アイデンティティという流れですね、以下に参考として外部サイト記事を紹介します。

 

「アンビバレンス(両価性)」 より引用抜粋

アンビバレンス(両価性)

ひとつのものごとに対して、相反する感情を同時に持ったりすることは、アンビバレンスや両価性と呼ばれる。人が悩みを抱えるときに両価性が強まった状態となりやすい。

一方で、ものごとに相反する側面があるということを受け入れられず、ひとつの視点でしかものごとを見れない場合も、それはそれで問題が起きやすい。

自分の視点でしかものごとが考えられないので、ある種の頑固さをもっており、他人の意見を受け入れられないことがある。

逆説的な反応

両価性の強まっている相手に何かを強要すると、正反対の行動を行うことがある。
(中略)
自分に興味を持って欲しい、自分だけを見て欲しいという欲求から正反対の行動を取ってしまう。愛されたいがゆえに心理的に優位に立とうとするのである。愛されないならこちらから嫌われるという心理が働くこともある。

カウンター・アイデンティティ

逆説的な反応のひとつとして、カウンター・アイデンティティと呼ばれるものがある。
(中略)
周りから認められないというのは自己否定に繋がりやすいので、価値の逆転を行うことで自己肯定しようという一種の防衛反応である。

反社会的な活動などはカウンター・アイデンティティによるものであることが多いと言われている。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ アンビバレンス(両価性)

 

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