幸福感と痛み マインドレスネス・マインドワンダリングと創造の陰陽
今回は「禅・瞑想・マインドフルネス」と「うつ」「統合失調症」のカテゴリーを含む記事で、脳科学と感性の両方で考察した記事になっています。
◇「リエゾン療法」とDLPFC
あなたのその腰痛、「腰」ではなく「脳」に原因があり、劇的に改善する可能性が…! 治療しても効果がなく、一度治ってもぶり返すなど長引く「慢性腰痛」。最先端の治療現場では、「脳」の働きを改善し、慢性腰痛を克服する対策が、大きな成果をあげています。
整形外科・精神科・心療内科が連携して治療に当たる方法を「リエゾン療法」といい、心と体の両方からアプローチする、と言う意味では「心身一如」とも言えます。
例えば慢性腰痛(3ヶ月以上続く腰痛)は、「肉体そのものの炎症による激しい痛み」だけとは限らず、本当は既に腰痛が治っている場合でも、
脳の「痛みの回路」の興奮を沈める機能が衰えていることによって、痛みが継続し続ける錯覚が起きていることがある、ことがわかってきました。
具体的には背外側前頭前野(DLPFC)の活動が低下し衰えている、ということですが、なぜDLPFCの活動が低下し衰えたのかというと、「強い恐怖心」によるストレスが原因、ということなんですね。
実はこれはうつとも関連します。DLPFCの活動が低下し衰え、そして扁桃体が活性化し「恐怖・不安・悲しみ」などの情動反応が過剰に表出してくる脳内パターン=うつ病とも言えるからです。
そしてこのタイプの「慢性腰痛」に有効なのが認知行動療法なんです。面白いですね、体の痛みだと感じるものなのに「認知」へのアプローチで治るわけだから。まさに「心身一如」です。
また「マインドフルネス」も前頭前野に作用しますので、長期的に行うことでとても良い作用があるわけです。関連する外部記事を紹介しておきますね。
「大企業の研修に”瞑想”!? パワーエリートの間で常識化する「マインドフルネス」」より引用抜粋
2005年にサラ・レーザーらが発表した論文『Meditation experience is associated with increased cortical thickness』によると、
瞑想の達人20人の脳をMRIで撮影したところ、前頭前野の背内側前頭前野と島の2カ所の組織が厚くなっていたという。いわゆる第三の目と呼ばれる、額の中央の裏あたりだ。
背内側前頭前野は客観性を生み出す部位だ。島は身体感覚を最後に統合する部位であり、体の情報は脳の各部位で処理され、その情報が島で統合される。島は扁桃体につながり、情動を生み出す。
経験は物理的に脳を分厚く成長させ、機能を強化させるのだ。そしてマインドフルネスは、身体感覚を客観的にとらえ、情動と身体性を一体化させるように脳の形を変えてしまうのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
では次は痛みと反対に、「幸福感」というものの脳科学に関する記事の紹介です。「生み出された痛み」と同様に、「幸福だ」と感じるのも、それに該当するメカニズムが脳にある、ということですね。
脳の特定部位に「幸せのカギ」京大チームが解明 幸福増進につながる成果か より引用抜粋
幸福を強く感じる人ほど脳の「楔前部(けつぜんぶ)」という部位の体積が大きい傾向があることが分かったと、京都大などのチームが20日付の英科学誌電子版に発表した。
チームの佐藤弥・京大特定准教授(脳科学)は「楔前部の体積は瞑想(めいそう)トレーニングで変わるという研究報告もある。将来、幸福増進プログラムの開発や、幸せを感じる脳の仕組みの解明につながる成果だ」と説明した。– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
ブログ過去記事 ⇒ 幸福と不幸の理屈のタテマエとホンネ「集団錯覚」と「あなたらしさ・私らしさ」
脳は単一の場所だけが機能しているのではなく総合的に機能する複合的な臓器であり、一部だけ見ても全体は見えないでしょう。
そして「心」というものは、脳の一部だけではなく、小脳・脳幹 ・脊髄、前頭前野、大脳辺縁系、あるいは脳以外の臓器・身体も関連していると私は考えており、その総合表現としての現れということですね。
マインドフルネス・マインドレスネス・マインドワンダリング
ここからは「禅・瞑想」のカテゴリーになりますが、今日はマインドフルネス・瞑想法のパラドックスがテーマです。
上記に紹介の記事に出て来る脳の「楔前部(けつぜんぶ)」は、以前書いた「マインドワンダリングとDMNの応用」という過去記事での「DMN」に関連するものです。
過去記事 ⇒ マインドワンダリングとDMNの応用
「楔前部(けつぜんぶ)」は例えばプロ棋士の使う部位でもあり、
そしてDMNというものはそのバランスによって「自己認識」「記憶」「情報の統合」、ひらめきや創造性に繋がる作用にもなれば 、鬱や統合失調症にも関連する作用にもなる、ということです。
あれ?って思いませんか?マインドフルネスはDLPFCを正常化し痛みを減らす、そしてマインドワンダリングは幸福と関係する..ん?何か矛盾しているような..? と感じませんか?
マインドレスネスは、マインドワンダリングとは異なります。マインドレスネスは「極端さへの囚われと眼差しの固定化」です。ではマインドワンダリングとは何でしょうか?
例えば一般的な意味でのマインドフルネス瞑想というのは「条件づけられた瞑想法」のひとつで、「拮抗条件づけ」としての作用があり、
そのために治療として、あるいは自己実現のために役立てられているんですね。抑制や心身のコントロールに作用するものを主眼として応用しているので、その領域ではそれで全然いいのですが、
これに囚われ過ぎることもある種の瞑想病に繋がります。瞑想法もその本質はある種の「条件づけ」だから、「条件づけられた瞑想法での眼差し」に強く条件づけられるというパラドックスにハマります。
本来「堅苦しく真剣に盲信的に頑張る」ようなものではないのです。
瞑想病というものは有害なものからそうでないものまで色々ありますが、マインドフルネスは基本的にその適応範囲で適切に役立てられている場合は有害性はないとはいえ、「変に真剣に過剰に頑張るような人」ほど眼差しが逆に固定化されます。
「観察者と観察されるもの」の関係性・運動バランスが変化しただけで、「主客の本質的な構造性」は何も変わっているわけではないし特別な存在になるわけでもありません。
ある種のマインドレスネスへの「拮抗条件づけ」としてマインドフルネスが有効に作用しても、今度はマインドフルネスがより深い領域でマインドレスネス的なものになっている、ということもあるわけです。
形無きマインドフルネスは、「マインドフルネスがマインドレスネス的なものになっている様」もただそのまま見るんですね。
バランスを欠いて囚われが強い状態では、マインドワンダリングの本来の作用は上手く働かず崩れ、それはマインドレスネスへと向かいやすくなります。
だから「拮抗条件づけ」として形あるマインドフルネスが有効に作用しますが、あくまでもそれは限定された領域での作用と有効性の話しであり、客(見るもの)と主(見られるもの)の同化一体化を外す作用です。
「主客の一体化した全体性としての自我運動」=「自己」が、その運動性を変化させるために自我の全体性の「ある特定の部分の運動性」をあるがままに見て脱同化させているだけです。
ですが本質的に主(見られるもの)は、客(見るもの)から独立して存在してはいないし、別々のものではない以上、脱同化が負の作用を外す条件づけにはなっても、存在自体が何か別のものになるわけではないのです。
そして過剰な囚われがなく心・精神のバランス状態がある時の本来のマインドワンダリングには、「存在と主客(自己)への固定的な一体化」を外す作用があるんですね。
この時には「拮抗条件づけ」としてのマインドフルネスも外れますので無意識が自由に活動します。
「意識的な気づきのための方法と視野の限定性」から外れる、自由に彷徨う主客(観察者と観察されるもの)の運動、そしてこの外れた自由状態を見ることが「形無きマインドフルネス」であり、
この時に見ているものは自我の全体性であり、生自体が瞑想になるわけです。実はここに創造性の昇華と統合という全体性としてのバランス状態が生じるんです。
創造性の陰陽
ここからはさらに感性的な話を含みますが、
うつや統合失調症は見方を変えると「創造の病」とも言えるんです。なぜ芸術家や天才にはうつや統合失調症、あるいは何らかの精神のバランス異常が多いのか?
それはそもそも「創造性の陰陽」はバランスをとることが難しい性質があるからです。バランスがある時それは豊かな幸福に繋がりますが、崩れた時は深い苦悩に繋がります。
そして創造性がその反対の表現に反転した場合、それは「破壊の陰陽」となるのです。陰性であれば内側を破壊し、陽性であれば外側を破壊する傾向に向かうんですね。
物事・現象は相互作用とバランスで成り立っており、常に正の現れをするとは限りません。外側の自然界も同様で、バランスが崩れれば大きな変動が生じます。
人間という生き物がそれだけ創造性が高い生き物だからこそ、地上の動物の中で最もバランスが崩れやすく、だからこそ豊かさも破壊性も極端になりやすいわけです。