外的な自然界と内的な自然界の同期  不可知な領域と中立一元論  

 

ico05-005「朝起きたら、太陽の光と、おまえの命と、おまえの力と感謝することだ。どうして感謝するのか、その理由がわからないとしたら、それはおまえ自身の中に罪がとぐろを巻いている証拠だ。」 ショーニー族の首長、テクムセ

 

今年もあっという間に後一日を残すばかりです。本当に一年が早く感じる今日この頃です。この記事が今年ラストの記事です。今年もお疲れさまでした(^-^)、では良いお年を。

 

 

 

外的な自然界と内的な自然界の同期

 

「24時間」という地球の自転周期、この「大自然の運動・リズム」は生き物の個々の「内的な自然界」である「体」にどのように同期しているのでしょうか?

 

「地球の自転周期、タンパク質が原子スケールで記憶」より引用抜粋

多くの生物は、地球の自転に伴う周期的な環境変化(日射強度や温度など)に合わせて自身の生命活動を周期的に調節し、健康的で効率のよい生活を実現しています。
(中略)
バクテリアから哺乳類に至る多様な生物について生物時計の研究が行われ、現在では時計と病気のつがなりが分子レベルで解明されつつあります。一方、「24時間」という周期がどのような仕組みで実現されているのかについては大きな謎とされてきました。

研究グループは、シアノバクテリアの生物時計を対象にこの謎に取り組んできました。シアノバクテリアの生物時計は、3種の時計タンパク質(KaiA、KaiB、KaiC)をATP※2と混ぜ合わせるだけで再構成できます。

2007年には、KaiCが水分子を用いてATPを分解する化学反応(ATP加水分解反応、ATPase)が、周期の決定因子と深く関係ていることが示されており、生物時計の遅さを生み出す根源KaiCの構造や機能に秘められている可能性が指摘されてきました。 – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 地球の自転周期、タンパク質が原子スケールで記憶

 

 

量子もつれ・量子コヒーレンス

 

私たち生命は地球・宇宙の大自然の原理と切り離せない全体性です。

 

大自然のリズムとゆらぎは、内界の自然界と同期しています。この同期が狂うと、それは生理的なバランス異常のとして現れてきます。無意識はあらゆる存在に作用しています。

 

 

生物の様々な謎を解くかもしれない量子生物学とは

量子もつれとは 2つの粒子が遠く離れていても 何らかの方法で互いに影響を 及ぼしあうことで アインシュタインでさえもこの考えを嫌い 「不気味な遠隔操作」と 言い放ちました
(笑)
アインシュタインが気に入らぬことには 不安が残ります 単一の分子内の 量子もつれの状態にある2つの電子は 繊細なダンスを演じます

 

もうひとつ「量子もつれ」の関連記事を紹介しておきますね。

量子もつれが時空を形成する仕組みを解明~重力を含む究極の統一理論への新しい視点~

 

 

いつか科学の進歩によってこのような領域のメカニズムが現実に生かされるところまで落とし込められたら、そこにはとてつもない可能性がある、と感じることもあります。

 

とはいえ、量子生物学に関しては、まだオカルト的な仮説の域を出ないものでしょう。

 

 

 

とはいえ、あまりにエビデンス主義にばかりに偏っても、唯物論的な自然科学における還元主義の限界だけでなく、唯心論も同様で、それは生命・存在の全体性とそれぞれの質的な違いをおろそかにする場合もあります。

科学は根拠・事実に基づくものであり、エビデンス(根拠)に基づいて医療を行うというのがEBM (エビデンス・ベースド・メディシン)、

そしてHBM (ヒューマン・ベースド・メディシン)は「人間」に基づく医療、NBMは以前に書いたナラティブアプローチに関連する「物語と対話による医療」という定義ですが、

これは認知科学人間性心理学の関係性にもあてはまるものがあると感じますね。ヒトは単なる物質・モノ・機械ではありません。同時に単なる心・精神のみの非物質的存在でもありません。

人という全体性として向き合う時、HBM・EBM・NBM というのは、 それぞれに必要であって、互いに補い合うもの、という姿勢であればどれもがそれぞれに役に立ち、

それぞれが対立的に主張し否定し蹴落としあえば、その分離性は不毛な権威主義的な闘争性・イニシアチブの奪い合いへと向かっていくだけでしょう。

そしてそこに特定の専門分野の「縄張り意識」と、「利権を基準にした正しさの主張」の拡大意識ばかりがある時は、肝心の「人間そのもの」 が置き去りにされるわけですね。

 

物理学と脳科学

 

ここでまず、二人の学者(物理学者と脳科学者)の興味深い対談の記事を紹介します。ブルーバックス創刊50周年記念特別対談 大栗博司×池谷裕二『科学は「幻想」か』

 

科学であれ何であれ、「認知」というものが脳・神経に条件づけられた活動である以上、「根源的・究極的なものは知り得な」という「認知」パラドックスがあります。

どのような「客観的姿勢」といえども、観察行為そのものが「条件づけられた認知」によるものでり、本質的には「観察者が観察するものを条件づけている可能性」はぬぐえないのです。

これは物理学者だけではなくて、脳科学者でもそうです。

脳を観察していることそれ自体が観察者の認知機能に条件づけられているわけだから、脳科学的知見も純粋な意味での客観的事実では在り得ない。

つまり根源的な存在の真実を定義しようとしたとき、それがであれ科学であれ人間は循環論から抜け出せない。

なので循環論に消耗する不毛さにとらわれ立ち止ることには本質的な意義はないんですね。と、過去の私の試みのひとつでもあるものを一回全否定しては見ましたが、現在はこれを全否定しているのではなく、全肯定も全否定もしてはいないんですね。

つまり「究極の普遍的真理」これを証明すること自体が不可能だからです。我々が知り得るのは、その「何か」ではなく、「何かでないもの」と「条件づけられた真実」のみです。

なので普遍的なるものへの言及は、どのように緻密で合理性があっても、それは感性的な主観を同時に含み不確実性のままなんですね。

我々は不確実性・不安定のカオスの中で、何が真実かを知り得ないまま生きている、「知り得ないものを知り得ない」、笑っちゃうほど当前のことです。そのような生き物として全体性の中で共に在る、それだけです。

そしてその条件づけられた人間の主客の世界の中で、何が出来るか、どう生きるか、どう在りたいのか、あくまで「人間ベース」それでいいいのです。

何故ならそれが誰であれ、我々は特定の種に生物学的に条件づけられているということだけは「みな同じ土台」だからです。

 

不可知な領域と中立一元論

 

以前、「中立一元論」での人間観・世界観と言うものを書きましたが、

過去記事 ⇒ 現象学・実存主義  「動的平衡」と「純粋経験」

 

「中立一元論」

「肉体と精神は分離できない 一つのものの両面」であり「心的でも物理的でもない、その両方の特性を併せ持った中立的な実体で世界は構成されている」という捉え方です。

 

物質であれ精神であれ、絶対な普遍的真実が存在しない、というところが立ち位置です。

 

何故このような視点が「人間の全体性を捉える時」に有効かといえば、例えば物質を量子レベルまで突き詰めていくと、それは現実的・日常的な定常的な物質としての明確な特性・常識・ 法則とは異なる状態であり、

また心・精神も「個」を離れたものとして全体性として見れば見るほど、それは相互依存的な関係性の中で生じている「状態」であるだけで、「個」の主客のリアルは本質的には絶対性を持たない非実体だからです。

つまり根源的な領域を掘り下げていくと、実体は要素には還元できず、また複合的な作用の中で相互依存的に形成された個と全体は、分離できるようで分離できない不可分な一体性を持ち、

「現実」とは何か?それはどこに視点を置くかで変化する質の多層性・複合性が同時に存在する全体性であり、還元主義的な1元性での眼差しで捉えることは出来ず、

その眼差しが特定分野の専門的な認知領域内では明確に役立ち、現実的に必要であり有効であっても、「全体性」から見れば1部分 であって、

部分へ囚われることによって逆に他の部分を見失う、見落とされるものを生むわけですね。

それぞれの質の異なる現象の捉え方に固執せず、状況や関係する領域や有用性に応じて内外の役割を適切に使い分
ける柔軟性を持っているのであれば、

「根源的には物心いずれの要素にも還元できない現実」を部分に固定せずに現実的に全体的な人間の生を生きることにも繋がるわけです。

 

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