バランスという身体知が生む愛と直感

師走はバタバタ忙しく時間が取れないまま年末に至りました。下書きのままだった記事を一気に更新。もう今年もあっという間に残り一日です。よいお年を。

 

ところで「実家が太い」というよく知られたワードが再び師走のSNSを駆け抜けていきましたが、こういう雑な概念だけで何か他者の人生のすべてをわかった気になっている人は世の中に多い。

しかし貧乏な家庭の人が切羽詰まった意識でお金の心配をするような負荷もなく、「好きなことだけに集中できる」、そして何か一つのことを拘りをもってやり続けているという場合、「結果が出やすい条件をひとつ持っている」とはいえるでしょうし、

お金や能力がないことで断念しなければならない現実があり、そこには最初から機会の不平等がある。

しかし、自身が空しく虚無であるとき、何か遠いところに、キラキラしたところに喜びや幸せがあるという錯覚が生じやすい。いや一部の人は確かにす順当に目標を達成し、深刻な不自由もなくそういうところで生きているのは事実ですが、それは縁が縁を呼んで自ずとそうなった偶然のひとつである。

「自ずとそうなった偶然」という表現は、ひとつひとつの現象には本質的には何の意味もないが、そしてひとつひとつの関係性(縁)だけをみれば「偶然」だが、その偶然が別の関係性(縁)を呼び、縁が縁を呼んで自ずとある結果に導く必然的な偶然、という全体がある。

何らかの限界、有限性には個人差、多様性があるはあるとはいえ、「先に与えられた偶然」によって生を類型化し「だからこうなんだ」と全てに当てはめてしまうと、多元的な可能性を自ら閉ざしてその範囲に自己完結してしまう。

 

少し話はズレますが、個々のプロセスは均一ではなく、そこには様々な「サイン」が出ている。このサインを「読み違う」「見落とす」場合、縁が縁を呼んで自ずとある不幸な結果や、袋小路、四面楚歌のような状態に導く必然的な偶然が生じることがある。

このサインは「直感」で読み取るもので、ここに「心身の状態」が影響します。これは「経験知」だけではないんですね。また、「脳」だけで受け取るものでもなく、「身体の心」を含めた全体で受け取っているもの。

だから「他者」と比較する前に、まず少なくとも自身の「心身」を荒んだ状態、屈折した状態にしないことは大事です。

 

ではここで一曲。寺尾紗穂さんで「僕らはいつも」です。この曲で今年を締めたい気分です。今年一番心に残った「歌声」です。

 

 

芸大とか人文科学の学生のおおよそ七割が女性ですが、『好きなことだけしていても、男女双方から低く扱われず結婚もできる可能性が大きい属性』が、男性より人文系を選ぶ傾向性が高くなるというのは、そこに「前提」として「環境要因(社会要因)」が作用しているでしょう。

なぜ日本は「稼がない男」に対して厳しいのか

 

そして「好きなことに熱中する人たち」が、「特に好きでも嫌いでもない仕事でシッカリ稼ぐ人たち」を何らかの優劣で比較して否定するのは違うなぁと思いますね。

言い方を変えれば、「好きだから」ということだけでは完結しない実務・仕事があり、「必要だから」をしっかりと生きる、そういう形で生活や社会を支えている働きや人々・属性が「前提」として存在するからこそ、その「場」に「余剰」「余裕」が生じ「好きなことだけしていても生きていける」ともいえる。

「土台を支えている愛」というのは無言の身体の働きなので、地味で目立たない。だから不可視化されやすいが、そういう物言わぬ骨太な愛の働きが「宙に浮いた愛」を力強く支えてもいる。

以下のショート動画は双方の思いが可視化されていてとてもよいけれど、大概は「地味で目立たないもの・無言の働き」ほど不可視化されていて一方通行だったりする。お互いに別の形で何かを支えているのだということがわからない人はすぐに一方を否定する。

 


また、「好きなことに熱中する」というドーパミンの作用だけを「愛」としてしまう場合、「愛」を極めて狭く捉えてもいます。依存症もドーパミンの作用であり、その意味では同質で、両者を分けるものは「程度の差」でしかないんです。

だから「ドーパミンの愛」は「どの程度なのか」のバランスが大事になるんですね。「愛」とだけいえば抽象的ですが、それは「身体」から切り離されたものではない。

ドーパミンとかアドレナリン過剰で自己愛が強い状態でそれに飲まれているときは、人は相手の気持ちとか生活のバランスとか考えられなくなることがある。それで自己崩壊して破滅したりもします。

しかし、「ドーパミンの愛」に囚われている人ほどバランスを嫌がったり否定したりするのは、まさに「ドーパミンらしさ」とはいえますね(笑)

まぁ人も動物の一種であり進化のルーティーンを生きている哺乳類。しかしそこからはみ出す「過剰さ」もあるのが人間、とかなんとかいってみても、その「過剰さ」とやらの正体は「脳内物質の奴隷がガンギマリ状態になっているのを、自由意志での選択だと勘違いしているだけ」だったりもします。

ここでのバランスは、それは身体性の変容によって自ずと生じるものです。しかし自己完結している人はドーパミンの作用だけを「愛」と捉えて生きてしまう。

 

ここで話は少し変わりますが、ハライチ岩井勇気さん、ご結婚おめでとうございます。しかし酷いもんですね、相思相愛の二人の大人の男女が互いに考えて決めたことなのに、「グルーミングの可能性が非常に高い」とか勝手に決めつけて、凄い侮辱でしょう。

そういうことを相手を変え対象を変えながらずっとやってるんですよ、先鋭化したフェミニストたちというのは。

「過剰に誰かを何かを肯定にしたり絶対化したり、過剰に誰かを何かを否定したり怒り散らしたり、スラップ訴訟したりキャンセルしたする人たち」というのは、それぞれ対象が違うだけでやることなすことがよく似ている。

でもそろそろこういう人たちも私人逮捕系YouTuberと同様に、きっちり法的責任をとらせた方がよいくらいの状況になっているように思います。あまりに放置し過ぎでしょう。

ハライチ岩井勇気さん「逆プロポーズ」だったんですよね。ですが、そもそも逆だろうがなんだろうが人の結婚のプロセスなんて私的なことなんで外野は無関係でしょう。

ただ、あれが仮に「三十代後半の頃の竹野内豊」とかだったら全く問題にならないどころか、一部の過激なファンたちが相手の女性を悪く言う可能性大。つまり「見た感じの雰囲気」で勝手に「このおっさんはこうに違いない!」と決めつけて叩いているだけ。

まぁ最近の一部の「声の大きな人達」が信頼されなくなっているのも、そういうところなんです。しかし岩井さんって、下衆の勘繰りとレッテル張りしかできない人たちとは真逆で、人のことを思いやれる優しい男ですね。今回の騒動でむしろハライチ岩井勇気さんを応援したくなりました。

 

「ハライチ岩井勇気、妻・奥森皐月から“逆プロポーズ”受けていた 結婚までの葛藤も語る「厳しい目で見られる」」 より引用抜粋

今年の初め、奥森の両親に挨拶をした上で交際を始めたという2人。そこから結婚に至った経緯について、奥森を“皐月”呼びしながら説明した岩井は「1ヶ月くらい前(10月頃)に話している時に、話の流れで『いつか世間に公になった時に、厳しい目で見られるな』って話した。その時、俺“この関係をどうしたら良いか”色々考えて」と振り返り、「これは2つしかないと。“別れる”か、“結婚する”か。でも、皐月には俺は結婚とか言えなかった」と吐露した。

また、奥森へ結婚を切り出せなかった理由については「この選択は、相手の人生を決めちゃうことになる。(今後奥森は)色々世界が広がっていくと思うし、1人の人としてちゃんと仕事をしたいはず。活動をする上で、そこに結婚ってなると、違うバイアスがかかっちゃうって思った」と回顧。「そんなことを考えたら『俺には言えないわ』って思った。その中には、自分の保身とかも入っていると思うけど、1番は向こうのことを考えた。結婚を突きつけるのは酷すぎると思った」と話した。

そんな中「その時に、皐月が『じゃあ、結婚しちゃう?』って言った」と、奥森から結婚を切り出されたという岩井。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ハライチ岩井勇気、妻・奥森皐月から“逆プロポーズ”受けていた 結婚までの葛藤も語る「厳しい目で見られる」

 

「○○への想いが強いからこそ積極的に行動する」というのは、どちらかといえば簡単なことです。想いと行動の方向が一致しているからです。ですが、「どれだけ想いがあっても、相手のことを考えて身を引く」のは想いと行動が反発している関係だから、想いが強いほど苦しくて難しくなる。

だから「何でも自分の思い通りにしたい幼児的万能感に満ちた人」「依存性が強い人」「衝動的な傾向性が強い人」にはほぼ不可能になりますが、

他者に過度に依存しておらず思いやりがある人は、何かの強い感情・想いがあっても、同時に相手のことを考えることができるがゆえに、葛藤しモヤモヤする辛いプロセスから逃げずに自分なりの答えを見つけていく。

その答えが必ずしも自分にとって気持ちの良い答えとはかぎらない場合でもそれを選択する、というような否定性を受け取めていける人は強くて優しい。

彼女はいい男を見つけたと思いますよ。まぁでも相手が「待つタイプ」だったらそのまま終わったのでしょう。そうやって終わっていく関係もこの世に沢山あるんでしょうね。

 

認知科学者の郡司ペギオ幸夫さんは「愛は国宝と同じ」と語ったことがあるとのことですが、そう考えると「自分にとっての国宝であっても、相手のことを考えて身を引く」っていうのは、サピエンスにしてはけっこう凄いことやってのけていることになります。

脳科学者・恩蔵絢子に聞く、恋に落ちたとき、脳内はどうなっている⁉〜後編〜の記事で、「脳科学では「出会い頭にこの人と結婚するかも」という第六感が働くことを「ビビッとくる」って言いますよね。が、実は脳科学的にはそれはいかなる現象なのか、具体的なことはなにもわかっていません。」とありますが、

「正気」で働く直感というのは大体が「確率的なもの」です。しかし「確率的に一番正しい解」を導くにせよ、科学的エビデンスにせよ、そこには常に反証可能性がある。条件を変えたり、凄く複雑な現象の場合はそれだけでは説明がつかなくなったりする。

「迷う」というのは物事を確率的に見ている。それに対して「狂気(とひとくくりにいわれているもの)」というのはいろいろあって、ある種の変性意識の状態が出す直感というのは「確率的なもの」ではなく、「それそのもの」を見て触れてしまうことがある。

その場合それはその人にとって「唯一の正解」になる。ただその直感の精度には、「心身の内的なバランス」が関係しているんですね。

 

よく世の親たちが「私は子供を愛している」と語り、そこには確かに(本人にとっては)強い思いがあり、しかし同時に、どれだけ偏ったことをしていてもその親の拘り、直観、確信だけに基づいて偏愛し続けることがある。

また、パーソナリティ障害の次元においても「愛」は存在します。しかしそのような愛は「幼い愛」「病的な愛」です。精神分析の概念でいえば「部分対象関係」が色濃く残存した愛は偏愛となり、他者を傷つけます。

人が人を傷つけることはパーソナリティ障害でなくても生じますが、様々な意味でバランスが異なるんですね。だから「障害」と言われるわけです。

対象愛というのは「相手」がモノやコトではなく、自分とは別の心を持つ存在であり、「自分 ➡ 好きな対象」という一方通行の関係ではない。だから「何か自分が好きなことに熱中する、ハマる」のように、個々の嗜好・選好の傾向性に条件づけられた完結した愛ではない。

広義の愛の捉え方でみれば、生き方としての「俺流」と「愛」は部分的には重なるが全体ではない。そのような愛は「拘り」であり「執着」の一種で、全体対象としての愛の成熟度はその視点からは見えない。

「何か自分がほんとうに夢中になれるもの、ハマるものがない」という人で、心が成熟し愛の深い人は沢山存在する。「ドーパミンの愛」からは見えない愛の質があります。オキシトシンもそのひとつでしょうが、それだけはないんですね。様々な質的差異があり、それは「身体」の内的バランスの差異・多様性ともいえます。

対象愛というのは個人の中で完結した世界ではなく、「自分とは別の心を持つ存在(他者)」との関係の中で育っていく動的なものです。そこにも無意識の変容が生じていて創造性が作用しています。

このプロセス自体は「バランス」とは異なるんですね。通常、人がバランスというとき、静的に捉えていることが多い。だから「バランス」を『「私」が意識して行う形』のようなイメージを持っている。

食事の栄養バランスとか、睡眠、生活のリズムのようなバランスは大方そういうもので、健康にとっては大事ですが、しかしそれとは異なる質の内的バランスがあります。無意識が見出していく動的な過程にあり、静的な形を持たないバランスです。

それは創造的なものであり変容と共にある。例えば「丹田」を例にするなら、これを静的に捉えている人は、身体を安定はさせるが同時に硬直させます。「軸」とか「体幹」もそう。

他にも「身体」そして心・技・体を支えているバランスがある。しかしこれも『「私」が意識的にとっているバランス』ではなく、ひとつの全体として調和しているとき、それは無形でありつつ変化自在の動的なバランスを生み出す。

 

 

バランスを静的なものとして考え、観念としてしか捉えられない状態は、以下の動画で最初に出てくる太陽系の静的な形とイメージに近い。それが「語り方」にも現れることがある。その場合、「バランス」に対して「良い/悪い」、「必要/不必要」の二元論でしか語れない。

しかし実際には太陽系はその全体がゆらぎながら螺旋運動している。太陽と地球と月の絶妙なバランスの中には力が宿っている。しかしこれは「星が意識してとったバランス」ではない。この「無意識のバランス」が生命を支えている。

 

 

対象がモノやコトではなく「他者」であるなら、相手も自分を見ている。「相手 ➡ 自分」の逆方向のフィードバックがある。「これは愛だ!」と自分でいったところで、それは「愛の作用」にはならない。この「愛」と「作用」の関係がわからない一方通行の偏愛の状態を「未熟な愛の段階」という。

このような「未熟な愛」によって何が起きたのか?どのような苦悩を他者に与えたのかなんて考えてみたこともない人は、「子供」がどのように感じ、親に対して「どう問いかけたのか」を聴きもせず、また聴いても独自の直観・欲動だけに基づいて偏愛し続ける。

これは親にかぎらない。指導者や先生、何らかの教える立場の者にもそれが見られることがある。

以前書いた「本質」のテーマも似ていて、「本質の話」が本質それ自体を伝えないどころか、むしろそれに触れることを妨げる、ということが「玄人の語り」にこそむしろよく起きることがあり、これは「愛の話」にも繋がっていますが、

動的なバランスは「私以前」の身体・無意識に自ずと生じているもので、たとえばそれが対人関係においてであれば、「私」を超えた「他者」が厳然と存在し、その存在を認め、「わからなさ」に触れるときに自ずと生まれる。そして対人関係において自ずと生まれるバランスは「愛」の働きとして「作用」する。

そしてその作用が何かを育む。そのとき、どのように「地味」で「無味」で「過剰さを感じない平穏・凡庸な形」であっても、そこには「愛」が生きてただ在る。