質的・個別的なるもの 「解釈」と「前提」を問うこと

エドマンド・リーチは、呪術の効験は、隠喩(メタファー)を換喩(メトニミー)に取り違えるというところに由来すると捉えました。つまり、あるものを別のものに例える隠喩を、あるものと深く関係しているもので置き換える換喩として理解することで、呪術的な関係を構築するということです。

たとえば、「Aさんに対して何らかのレッテルを張り、そのレッテルがAさんだとしてAさんが攻撃される」というような場合において、レッテルはAさんを例える隠喩であると同時に、Aさんと深く関係している換喩でもあります。レッテルを攻撃することで、Aさんを攻撃するという呪術的な関係が成立すると考えることができます。

しかし、このような場合には、呪術の効験は、隠喩を換喩に取り違えるというよりも、換喩を隠喩に取り違えるということになると思われます。 つまり、Aさんと深く関係しているレッテルを、Aさんに例える隠喩として理解することで、呪術的な関係を構築するということです。

したがって、エドマンド・リーチの捉え方とは逆の方向に比喩の取り違えが起こっていると言えます。 このように、呪術の効験は、隠喩と換喩の間の関係に依存するということがわかります。

ではここで一曲 ♪ シャイトープ「ランデヴー」です。Z世代に人気のバンドですが、「ランデヴー」を聴いているとある種の普遍性というか、時代が変わっても人が入れ替わっても、変わるものと変わらないものがあり、「相変わらずそういうもの」という質があることを感じますね。

 

 

質的・個別的なるもの 「解釈」と「前提」を問うこと

村上靖彦 氏の「客観性の落とし穴」の言いたいことはよくわかります。氏がAかBかの二元論ではなく、その話に両義性を含んでいることもわかります。また、質的研究に関しては別のテーマで記事を書いたこともありますが、

気になるのは質的研究それ自体ではなく、そこにも「党派性に基づく政治的正しさ」が入ってくることです。その「質」を解釈する思考の「前提」を問うことや疑うことを許さない姿勢であれば、それはある種の信仰化した価値基準でしょう。

たとえば「原発の問題」もそうだし、「個人の問題か環境のせいか」のような二項対立もそうです。そこには「党派性に基づく政治的正しさ」が「前提」にある。いや、そもそも「学問」の世界もそれは同様。

構築主義本質主義」の二項対立において、たとえば「ある属性の行動」を擁護したいときに、構築主義的な解釈によって「それは社会的に作られたもの」として責任を回避させ、

逆に「ある属性の問題」を批判したいときには、「社会的に作られたものなのだから変更できるはずだ、しかし本人がそれに拘っているからそうできなかった」と自己責任化して叩く、つまり「お前の場合は本質的な問題だ」とする。

このように党派性に基づいた政治の力学がその「解釈」に入ってくることで、不平等かつ不公正な形で恣意的に「ゴールポストを動かす」ということが行われたりする。特に「認めると不利になったり不都合だったりするとき」にそれが行われる。

なので結局は大小の「権力闘争」によって「質」へのアプローチも変質してしまう。

『村上靖彦「客観性の落とし穴」 エビデンス主義には問題も』の記事に、『エビデンスとは要するに、客観的で統計的な事実のことだ。エビデンスは個人の行動に伴うリスクを計算可能であるかに見せかけ、自己責任論を強化する。』とありますが、これも「解釈」する人の政治性によって「何を強化するか」が真逆になることがある。

たとえば「ある属性の問題」を批判したいときには「客観的で統計的な事実(とされたもの)」を使っているにも拘わらず、「ある属性の行動」を擁護したいときには、「経験の生々しさ」で共感を呼び込み、感情の高ぶった集団のパワーだけで物事を押し通そうとしたりする。

メディアもそうですが、よく「ジェンダーギャップ指数」という統計を水戸黄門の印籠のような絶対の指標のように掲げている人が結構いますが、これは非常にわかりやすい「客観性の落とし穴」の実例です。

➡  「日本はジェンダーギャップ125位」をそのまま受け取ってはいけない…「指数」が反映しきれない現実の世界  女性が結婚相手を選べない国より日本のほうが下位にランクされる理由

ジェンダーギャップが計算可能であると見せかけた統計」でありつつ、丁寧に見ていけば全く杜撰な指標だからです。しかし「党派性に基づく政治的正しさ」でガンギマリしている人々は、「このエビデンスが目に入らぬか~」とばかりに使いたがります。

「自分たちはそうしてきた」にも拘わらず、「雑な統計では現実の複雑さを全然捉えられない」という「他者」からの「質的な指摘」を認めようとすらしない。それが「政治」の力学で「思考がキマった人」のとる行動パターンなんです。

そして先鋭化したマイノリティ運動等に対して、市井の当事者たち「個々の質的な語り」「活動家の主張とは異なる語り」をしても、全く聞き入れないんですね。

そういうことを平気でやっている、やってきた人たちが、市井の当事者たちから反論されたり、雑な統計をもっと多角的に分析されて「より高解像度な客観的事実」を提示されたりすると、恣意的に「ゴールポストを動かす」のです。

「認めると不利になったり不都合だったりするとき」にだけ、エビデンス主義が~と言い出すのです。普段は「不都合な他者の個別性」を平気で排除しながらそういうことをする。だから信用ならないというのであって、私は質的研究の視点は重要だと考えているのです。

市井の人々がその人なりの語彙力や思考力でロジカルに自身の個別の語りをしたり何かを書いていても、「凄くロジカルだけどエビデンスがない」とかスパッと否定したり、小馬鹿にしたりしてきたのは、むしろ「声の大きな専門家・学者たち」の方であり、そういう流れがあってここ十年で世の中はエビデンス主義になっていったんですね。

自分たちがそうなることを望んでそう働きかけてきたくせに、自分たちがそれによって返り討ちにあい始めると途端に手のひらくるっくるーなんです。

たとえば↓以下のポストでも冷静に指摘されていますが、エビデンス主義が~と言い始めていた連中が、手のひらくるっくるーして「このエビデンス使えるかも!」って短絡的に「絶対の指標」みたいにしてしまう。

「自分たちに都合がいいか悪いか」の党派性でしか「他者(当事者)のことも学問・データも見れない状態」、まぁその手の専門家や学者のそういう姿勢に対して問いかけているということ。

「チェリーピッキング的に党派性でエビデンスを使用する人」のためにこそ「質的研究」の意義があると私は思います。