「配給されたもの」と「自ら生えるもの」

 

配給された自由」という表現、尾崎豊の卒業の歌詞にある「仕組まれた自由」みたいで面白いですね。

「自由」とは『自らを由(根拠)とする』と書きますが、『自由を他者に語りながら「他者に思考の前提を植えつけている者たち」』というパラドックスに気づくこともないまま、本末転倒のループを生み出し続ける先生たちというのは、ある意味で「自由であること」「多様であること」を恐れている人か、自分の望む形に他者を変えたい人たちなんでしょうね。

1つの大学の特定の「枠」の中で、1教師の思考フレームで考えられた自由な在り方とやらを、ただそのままの型通りに行う、まさに「そういうところですよ」の実例。

 

ではここでまず一曲♪ フランス出身のキーボード奏者Domi Lounaと、アメリカ出身のドラマーJD Beckによるジャズ・デュオ「DOMi & JD BECK」の曲です。この変化自在な旋律の素晴らしいゆらぎとリズムが気に入っています。ジョジョの「ストーンオーシャン」からそのまま出てきたようなDomi Lounaの雰囲気がいいですね~♪

 

話を戻しますが、「1先生、1大学ごときの思う通りにはならない」という過剰さこそが若さの持つパワー、野生の実存。「自ら生えるもの」というのはときに「教師の思考の型」を破壊してしまうほどの力があり、それが過剰さであり創造性の持つ力。

 

 

「配給されたもの」と「自ら生えるもの」

大学というプランター内で先生に「植えられたもの」に基づいて思考することを、「俺たちは処世に熱心な世間の凡庸な連中とは違って己の頭で考え、自由を生きているのだ」なんて思い込んでるようでは、「アカデミック牧場で牧人権力に飼いならされた家畜」に過ぎない。

それは「不自由」の別の形式でしかなく、先生の思考の型で考えている、考えさせられているだけ。ほんとうに自分の頭で考えるというのは、「危険なもの(何が起きるか何が出てくるかわからないもの)」をそのうちに含んでいる。

それは先生にとって最も危険なものゆえに、頭が良く力関係・立場が上位にある先生によって「巧妙なやり方で」去勢されることになる。「あいつら(気に入らない連中)は噛んでもいいが、飼い主の私(私たち)だけは噛むなよ」と躾けられる。

しかしそんな「高度な知性」の小賢しさに収まりきらないもの、その圧力からはみ出していくものこそがポテンシャルである。

「高度な言い回し」にすっぽりと丸め込まれることなく、そんな狭い世界をさっさと卒業し、あるいは出禁か破門にされるくらいで丁度いい、その方が面白いのが育つ。しかしそれは全方位の危険性と大きな失敗と隣り合わせでもある。

 

個々の実存とは均一なものではなく、実存は唯一性ゆえに他者と異なり、「個の自由」は多様で無限性の質を持つからこそ、それは教師の思考フレームの範囲を遥かに超える。

『「配給された自由」に反発する者、靡かない者への威圧的な言葉や同調圧力』が自由と多様性を奪っていることへの無自覚さ。己がフレームに囚われている無自覚な権威的存在は「自由を生きたままにする」ということが出来ずに方向付けてしまう。だから『「私」の考えた自由の観念』を他者に「植えて」しまう。

「他者の実存から自ずと生えてくるもの」を己が思考の鋳型にはめてしまう大小の権威たち。これは「多様性」の話も同様に、そもそもそれ自体を生きている人は「植えない」し「植えられない」。「大きな声でこうしろああしろを言う側」も「宗教の信者のようにそれを聴く側」もそれ自体を生きていない。

 

「自ら生えていない者たち」はすぐに他者に観念を植え付けたがる。しかし「自ら生えている者たち」はそんなもの不要なので拒否する、そうするとネチネチと説教したり、しつこく絡んできたり、逆切れしたりする。そんな連中にかぎって「自由」だの「多様性」だのを声高に語り、観念だけを押し付ける。

 

「私的なもの」の根源は自然界に根差し、実存の根は「社会の外部」にある。唯一性に根差すものは個々が自らの力で知ることであり、「他者」に教わることではなく、その意味では「生」も同様。そして芸術以前の創造性それ自体も「心」の本源も同様。

根源的な本質においては専門も先生も不要どころかむしろ「邪魔」になることもあります。「孤独」によってしか知りえないもの、という意味とはほんらいがそういうもので、「孤独について先生が教える」というのも不要なこと。

「その領域においてはそれ等は総じて不要」という前提がまずあって、それが孤独の中で考える=自分で考える(自由)ということ。これはあくまで「その領域においては」の話であり、「先生という存在がこの世に不要で邪魔」という話ではない。

「一人でいること」=「孤独」だと思っているような雑な思考は、「己が思考フレーム」が既に「複数の他者の概念や思考の型」を前提にした思考をしていることを見落としてしまう。孤独における個人の思考にも社会(複数他者)が存在している。

逆に、『「己が思考フレーム」を含めて見ている何か』と共にあるのであれば、それは複数他者と共にあっても「孤独」の中を生きている。この「何か」は常に孤独で、最初から最後までそういうもの。

外から見て「群れている / 一人でいる」という目に見えているものしか見ない思考は、人が複数の人と一緒にいれば「社会的に思考しているのだろう」と考え、人が孤独の中で考えたり見つめていたりすれば「個人が世界を見ている」と単純に考えたりしますが、それではどちらも「社会の外」には出ていないんですね。

 

そもそも学者というのは社会的な存在であり、また「学問」というもの自体が社会の下部構造の上に成り立っている。それが独立した何かだと思っている人々は、世俗とは異なる上位存在的な特別なものとして扱われることを社会に求めて領土化したがる。

また、大学をあるタイプの人々の「居場所」のように考える人もいるが、「居場所」というのは多元的な意味を持ち、それが「我々のような者たちを認めてほしい」という心理的な「私」の承認欲求に基づくものなら、「実存」が孤独と共にあるということと相反する欲求でしょう。

孤独と共にある実存は「それ自体が居場所」ゆえに、唯一性としてただあることそのものが肯定され認められているから、「大学の先生がそうなるように働きかける」ことなど求めない。「自ずと生えるもの」には「居場所を他者に認めてもらうこと」などそもそも不要だから。

孤独と共にある実存は天上天下唯我独尊であり、「我々(特定タイプの人々)の居場所を社会に求める」というような「集団(群れ)の思考(社会的思考)」とは相反します。

何かを領土化するために活動する専門的権威というのは、「社会運動(政治)」を行っているのであって、それは「孤独と共にあるもの」が自ら考えていることではない。

 

ここで私は「社会」とか「政治」というものを「悪いもの」のように考えているわけではなく、単に、「社会」とか「政治」の外部の思考のように見せつつもその内部にいる、ということに無自覚な人々の思考の型とはこういうものだ、と考察した上で、その負の作用について書いています。

「配給された自由」と同様、「配給された関係」「配給された場」は、「実存」と「孤独」のその多様性、野生を見失わせている。しかしそのような者たちの声だけが権威化され正統とされるような、ある種の「思考の型の類型化」が生じている。

「類型化」というのは、「何をカテゴライズする」みたいなわかりやすいものだけではなく、思考の型それ自体がある種の類型になっていても人はそれを「前提」にして考察するので、それ自体の類型には気づきにくい構造になっています。

学術的な概念は古今東西の他者の思考フレームの膨大な集積であり、その創造的な組み合わせが学問的な思考の型になっています。

どれだけ知の次元が高度で博識であっても、特定の他者のグループの認知的・言語的な枠組み(思考の型の類型化)を逃れていないどころか強化する。それは社会的な作用の一種であり、孤独と共にある実存の忘却にも繋がっているのです。

「物理的に一人」であっても思考それ自体は一人ではなく、「思考が巨大な群そのもの」として既に同化した状態(フレームの強固な状態)の思考運動は個別性ではないんですね。

 

『「処世知」に染まった大衆の思考』は根が浅く単純で、その思考の型は類型化されてはいても、それに対して妙なこだわりもないので、ポロっと外れることがけっこうな頻度で起きる。そのときに個別性を自然に取り戻すということが生じる。むしろアカデミア人の方が個別性から遠い(ということに無自覚な人が多い)。

「変人=個別性」ではないように、「どこにでもいるような人、組織の中でそつなく働いている人」のような人の中にも個別性を生きている人がいる。

そして「味が薄い、平坦、浅い」というような質の中にもそれは自然と生きている。これは「愛」も同様に。もちろん「過剰さ」のなかにも「拘り」の中にもそれらはあるが、そこだけにあるわけではないんですね。

SNS映えするような、あるいは他者が見聞きしてインパクトがある凸凹の激しい人生、レアな人生経験、過剰さや偏りなど、「わかりやすい個別性」の話はある層にはウケはいいが、

この種の「型にはまった個別性の観念」は「処世知」よりも自覚しづらいという点で根が深かったりもします。

そして大衆が「処世知」を軽く口ずさむのをイチイチ真に受けて反応したりすることがあるが、むしろその反応こそ「大衆とは形が異なるだけの別の類型化された思考の型に囚われていること」を自ら告白している姿でしょう。

「社会的なるもの」への過剰な嫌悪・否定・反発というのは、「その人の別の社会的な思考」による同族嫌悪に過ぎないというのは、何を「善」とするかがその人のイデオロギーに基づいていて、その基準によって嫌悪・否定・反発している、という構造と同様。

「自己投影」はフレーム内で思考している以上は根源的に逃れられない。「専門フレーム」も同様に、それ自体が特定分野の思考の型を前提に有している以上は、「類型化」からも「自己投影」からも逃れならない。

フレームを外すというのは、社会の外部に出ることであり、それは専門としての概念や思考の型も外すということ。

 

それにしても人間界は、「自由」なんてものですら専門家や先生等に教えてもらわないといけないほど野生を失ったようだが、「その状態こそが不自由である」というパラドックスも見えないまま、「自由を教えようとする」ことでさらにそれ自体を見失わせていく。

カチカチにフレーム化した思考が見習うべきはもはや猫界だ。以下に参考動画を紹介。この強力な同調圧力ならぬ同鳥圧力! しかし同鳥圧力に一切屈しない猫の腹の座った態度。これぞ「生えているもの」である。自由とは野生に根差した心から生じる。