政治的野蛮さ  意味と身体性

コロナ以降、さらに生真面目さと潔癖主義が加速しましたが、なんか個人がやらかす度に学級会で反省会やらされてるみたいな空気感にみなが嵌って、滑稽なショーをやってる感じです。

「社会学者が教え子に..」みたいなニュースも興味がなく、「終わりなき性愛を生きろ」って感じで、勝手にしたいように生きればいいんじゃないでしょうか。

それよりもあの「クックック」はちょっとセンスないなぁと。そっちの方がほんの少し気になります。その意味でキングダムの 王騎大将軍の「コッコッコ」なる表現は素晴らしいセンスを感じますね。

豪快な人物の笑い方として「カッカッカ」はよくあり単純すぎる、かといって「キッキッキ」は気味が悪い、「クックック」は攻撃的な割に小物感がある、「ケッケッケ」は卑しい感じがする。やはり「コッコッコ」は素晴らしい。

あと、ブラタモリがマンスプ云々、というような話もありましたが、それも興味がなく、

それよりも、あまりに昔の話で記憶が曖昧なのですが、昔、眞鍋かをりさんが、恋人にしたくないタイプに「タモリ」をあげていて、その理由が「デートで崖とかに連れていかれそう」みたいな話だった(と思う)。

「この崖はこういう地層で..」みたいな話をされるのが嫌なのか、崖自体が嫌なのかはわかりませんが、しかしそのとき思ったのが「崖の何がそんなに嫌いなのか」っていう感覚です。

タモリは昔から変人的な趣味の人で、私も地層とか古墳とか工場とか崖とか度々いくタイプですが(笑)、まぁそのほかも基本的に悪趣味なので、なんとなくタモリに親近感を感じて思わず笑ったんですが、

私の場合は知的な興味のウエイトより、身体がその場に行くことを望んでいる感じで、探検的な感覚で突き進むのが好きですね。

基本的に私は計画的な「旅行」は好きではなく、泊まる場所もサービスの行き届いたホテルや旅館ではなく、行き当たりばったりの旅で、設備のほとんどないようなキャンプ場とかで自炊したり、面白そうなとこを見つけたらとにかく行ってみる、その場その場で決める、探検自体を楽しむ旅が好きです。

ではここで一曲紹介♪ レディメイド – Ado で 夜にワルツのcoverです。響き合う声の波がとても心地よいです♪

 

 

成田悠輔さんが、「僕はもう唯一の解決策ははっきりしていると思っていて、結局高齢者の集団自決、集団切腹みたいなものではないかと…」「消えるべき人に消えてほしいと言い続けられるような状況を、もっと作らないといけないのではないか」等の発言があり、スタジオが笑いに包まれたという一連のやりとりに批判が噴出し、

最近は彼がビールのCMに出たのが許せんとか、東大に呼ばれたのが許せんとかでキャンセル必至みたいになってます。

しかし、「男は歩くディルド、寄生虫であり生きる資格はない」とし、「社会を転覆し、男性を抹殺することをめざす組織SCUM(男性皆殺し協会)」の結成を呼びかけ、実際にアンディ・ウォーホルへの殺人未遂まで引き起こしたヴァレリー・ソラナス

そんな彼女の本「SCUM Manifesto 」の邦訳記事の反応に、「去勢におびえる男性陣」「びびるだろうね!楽しいな!」と語る北村紗衣さんのやりとりも、それを読み、聞く側の属性および捉え方次第では似たような印象を抱かせることもあるでしょう。

また、上野千鶴子さんの『ギャルゲーでヌキながら、性犯罪を犯さずに、平和に滅びていってくれればいい。そうすれば、ノイズ嫌いでめんどうくさがりやの男を、再生産しないですみますから。

ただし、そうなった場合、彼らの老後が不良債権化するかもしれませんね。ところが、彼らが間違って子どもをつくったらたいへんです。子どもって、コントロールできないノイズだから。ノイズ嫌いの親のもとに生まれてきた子どもにとっては受難ですよ。そう考えてみると、少子化はぜんぜんOKだと思います』 という話にしても、

成田 氏と同じく「消えるべき人に消えてほしい」を彼女の価値基準と観点から言っているにすぎず、しかも彼と同じく学者の立場でそういうことを言っているわけですね。結局、「どの属性を対象に言っているのか」だけの違いです。

しかし党派性バイアスに基づく者たち(活動家及びそれと連携して動いている専門家等)は、いつものとおりの反応です。己がバイアスでジャッジし、明らかに非対称で不公正なジャッジをし続ける。 そしてメディアもアジェンダ設定によって特定属性の問題や言動にしかスポットをあてない。

この不平等さをそのままにしておいて、○○平等などとのたまっても反発されて当然。

 

ところで最近、漫画家の鳥山明さんが亡くなられ、海外でも追悼の声が広がっています。日本の漫画・アニメはほんとうに凄いですね。そういうものが生まれる土壌が豊なんですね。しかしそれは時に不当な圧力や非難、侮蔑を受けてきた歴史があります。

そして現在もキャンセルカルチャーの対象になったりしています。➡  世界中で愛される、日本の「マンガ・アニメ」は、社会学者や教育学者によって不当に弾圧され続けてきたことを掘り起こしておく

 

滑稽なショーや「集団で威圧しながらの再教育」のやり方を見ていると、昭和の「マインドコントロール研修」のポリコレ版であり、そして「与論は常に私刑である。私刑は常に娯楽である」の普遍性を痛感します。

前にも書きましたが、やっぱり芥川龍之介は頭が良すぎで繊細でかつ持病があったから、人間界に絶望したんだろうなぁと思います。

は大人のたしなみですよ。それぐらいの感受性を持ってる人じゃないと、俺は友達になりたくないから」とリリーフランキーさんは語っていて、まぁ人に優しい語りとは思うんですが、鬱も多様性なので人格・人間性に関係なく起こるものでもあるんですよね。

おそらく芥川龍之介も複合的な併発のケースなのでしょう。でも「彼のやりたいこと」を周囲の誰かが否定したり反対したりするようなことはなかったようです。人がほんとうに潰れるときというのは、「好きなことを諦める」とかそういう次元ではなく、もっと生身の絶望があることも多い。

まぁ「鬱になったこともなく、障害特性等もなく、身体屈強で気も心も強く頭も良くて高学歴」、そんな者や、「理解ある彼君」に包摂される属性は、「そのどうにもならなさ」というのはわからないことかもしれませんが。

 

『 文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代り実業家になるとか、工学士になるとか云ったらかえって反対されたかも知れません 』

『 このころになると、不眠症ばかりでなく、幻覚や妄想知覚も芥川を苦しめるようになる。歌人で青山脳病院長の斎藤茂吉が治療にあたっていたが、病状の経過は思わしくなかった。「こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」と『歯車』(1927)の主人公は訴えている。 』 引用元 ➡ 自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」壮絶な最期 神経衰弱による不眠症、幻覚や妄想知覚も

 

「己の周囲数メートルしか見ていないインテリ」にとってはむしろ、「いろんなことが昔よりはよくなった」と思える社会であり、

たとえば「女性の教員が学生から心無い言葉を浴びせられる」とか、「外国人が何か嫌なことを言われたり理不尽な目に合うと」か、そういう共感しやすいものだけがよく目に入るのでしょう。

しかし、この社会には、そんな程度の負の作用ではなく、遥かに過酷で人間扱いされずに自殺に追い込まれている人々、そんな日常を生きる人がいる。だからそういう「目に入らない共感されない人々」の方が現実には遥かに多く自殺している。

「(今現実に進行中の)見たくない属性の死」「共感なき属性の現実」には目もくれずに、「未来に生じるかもしれない我々の不安」は過剰に騒ぎ立て、「安楽死が~」「高齢者が~」「女性が~」と、「世間に共感を得られそうな訴え」だけには余念がない。

このように、「共感されない属性」に社会はスポットを当てない。「ここまで存在を無視されるのか」という透明な領域を彼らは生きる。人は基本なかなか死なないものだが、そういう環境下ではけっこう簡単に死ぬし簡単に狂う。人は強いが同時に弱いものだ。

 

 

「政治的野蛮さ」

年を取っても未だ「公立の中学」や「体育の授業」がトラウマになってるようなタイプのインテリは、それ以上の現実など大人になってからも無数にあることを身体で全く知らないまま生きてこれた存在。

身体で知っていればそんなもの「お遊び」の次元でしかない、というレベルの現実の中で多くの人が生きている。

大地から離れた天竜人が、大地の近くで生きる者たちの「怒りの身体」に叩きのめされる、それが革命。インテリ天竜人が「政治的正しさや観念で怒っている」のは大地の怒りではない。それは彼ら・彼女たちの領土拡大の権力闘争や、支配の合理化、安全・安定・維持継続のための怒り。

「古典を読め!」のふやけたスノッブやバラモン左翼の言葉よりも、権威性を持たず地位もない生身のオタクたちの文化の方が生命力・影響力があるのは当然のこと。蛇蝎のごとく嫌われていた状態から、その孤独の中で創造したのだから。過去の偉人の権威性にしがみついて飯食っている連中とはマナのパワーが違う。

スケープゴートを求めるサピエンスたちは近代も原始も変わらず、結局ポリコレ過剰社会に適応する人々というのは「綺麗な野蛮人(グローバル資本の家畜)」であり、体制側によるミーム的支配の合理化によって骨の髄まで煮込まれたカモネギでしかなく、

欧米ミームによる同化政策、綺麗な植民地化によって飼いならされた畜群なんですね。昭和版の畜群の方がまだ支配を逃れていたともいえるんですが、そんなことにももう気づけなくなっているほど家畜化されている。

グローバル資本とバラモン左翼は共犯者であり、そのような連中は皆が同じ基準の道徳・規範に束縛されていた方が有利な状態を維持でき、既得権を守れるゆえに手を組む。

まぁ本人たちはそれに基づく活動が「反逆」「体制側への抵抗」とか思っていたりしますが、体制の飼い犬をやらされていることも知らないまま吠えている状態。

とはいえ昭和も令和も、人間自体はアップデートなんてしていない。むしろ退化しているところもある。しかし高齢化が進んでいる社会ではそれが退化には感じれない。支配・管理される代わりに、家畜が好む安全・安定・快適な環境が用意されている。そこでじわじわと魂が腐っていく。

高齢者ばかり増え若者が減ると、創造性も停滞し「安全・安定」ばかりが意識され、それを脅かす言動、不安にさせるものや過剰なゆらぎを極度に恐れるようになっていくため、そういう言動に過剰反応するようになる。

身体が老化し弱まった高齢者たちの硬直した防衛本能が世界に投影されていくだけなく、女性原理優位社会に向かうことで、加速度的にそういう傾向が強まっていく。「体感治安」が実際の現実の状況よりも優先されるなんていうのもそうですね、客観的な現実ではなく、主観の方が変化している。

「安全・安定」の「安」という漢字は、「女性が家(うかんむり)の中にいる様子」を表し、「不安」という漢字は「女性が家にいない状態」を表しています。漢字というのはよく出来ていますね(笑)

まぁそれはともかく、こんな硬直した管理社会では、若者は本来のゆらぎを自然に無意識に発揮できなくなる。それによって元々恵まれた条件を持つ子供とそうでない子供の格差がさらに広がり固定化される。

また極端な異常者や自己愛過剰な者や先鋭化した社会運動みたいな「政治的野蛮さ」だけが目立つようになる。とくに最近は、左派の「道徳的優位性を得るための政治的蛮行」が加速していますね。「道徳的優位性を得る」=「我々は正義」➡「暴力を正当化」という思考回路だからそうする。

「政治的野蛮さ」というのは、「政治的正しさ」で人を過剰に裁きたがる人間によく見られるもので、正しさや大義名分を盾にすれば、己の憎悪や攻撃性・残酷さをあたかも「善」のように正当化できると思い込んでいる、「近代の皮をかぶった野蛮へと退行する群れの意識」なんですね。

まぁ一見すると「昔より優しい社会」のようにも見えるし、そういうところも確かにありますが、「老化」の全体的な進行で「恐れ」が強まった脆弱で不寛容な社会ともいえる。

そして高齢者の増大、女性原理優位社会は、己が非弱さ、恐怖・不安の回避のために強い暴力性を外注化するしるかなくなり、国家の暴力に依存しつつ同時に「政治的野蛮さ」を支持し、気に入らない対象を暴力で「排除させる」ことで己が家畜の生を守護する、その方向での全体主義的傾向を加速させる。

 

意味と身体性

ヒトの野生は、「政治的野蛮さ」のような変質し肥大化した残酷さの質ではなく、身体の心によるものです。本来のヒトの野生を私は否定的な意味での野蛮さだとは思いません。ニンゲンの野蛮さに対して否定的なだけです。

アフリカもそうでした。もともとは素朴な民族が独自の文化の中で暮らしていた。そこに「政治的野蛮さ」を持つニンゲンが入って支配し管理してきた。文化を破壊し白人の神を拝ませた。大地を区分けし、己の都合でアフリカのヒトビトを欧米の家畜にした。

そしてアフリカは永遠の分断の地となり、魂と身体が切り裂かれた。

魂は大地に宿る。その土地のものを食べ、その土地の自然界に調和した文化の中で育まれていく。それは忽然一体化したものであり、ゆえに全てのものは「部分」ではなく「精霊」が宿る。全体でひとつの世界であり、個はそのワケミタマである。

古典なしには醸成できない文化の豊かさの質がありますが、その文化がマナを失わずに生きた詩の力(神話の生命力)を持ち続けるには、大地と存在が調和していることが大事。

たとえば五行理論だけあってもダメであるように、天・地・人が調和していないと、その文化の「型」だけは残せても、そこにはマナが失われているので、その詩は既に枯れている状態ともいえるんですね。

また、日本の自然やそれと調和した生活・風景が、気候変動や産業構造の変化などで失われた場合、大地がマナを失う。そこで祭事だけが残ってもそれは既に枯れている。

よく神社仏閣や地方の街に旅で行ったりするのですが、「精霊」が未だ宿る場というのはあり、枯れている場もあります。それは五行理論だけで決まるのではなく、その場とその場で暮らす人々の調和もとても大きいのです。

「古典的なるもの」を伝える側(師)の人々はまだ身体性が残っているので、その人にとっては枯れてはいませんが、伝えられる側(後世の人々)は多くは既にその身体を失っているか、乏しい状態なので、「意味」だけしか読み取れず、その詩に「命が宿っている」ことを感じれないのです。

古典に未だ詩の生命力を深く感じれるかどうか、そこにはテキストを読めるかどうかだけでなく身体性が絡んでいる。そして人の心を無意識の次元から動かすのは身体性です。

なので、文化を継承するというのは単純にテキストを残すとか、その意味・解釈を授業で行うとかだけでは後世の人々はついてこない。そうやって世界各地で「若者の○○離れ」が起きているのも、既に身体が全然合わなくなってきているからです。キリスト教しかり、仏教しかり、他の伝統文化しかりでしょう。

そこに無理にテキストを与えても、無意識がついてこないので、強い動力にはならないんです。ほんとうに「魂」を残したいのであれば、身体から身体に伝えていかないとダメ。

釈迦が現代の規範からみてどうだこうだとか、学者の「史実ベース」の知見もそれなりに面白いですが、釈迦の生き様やその伝えられる教えには、スノッブやアカデミア人とは全く異なる凄みを感じるのは確かであり、その「凄み」が身体性でありそれが詩の生命力を生み、神話を支えている。