無責任を背負う者たち 

 

責任の範囲というは社会に限定されます。社会を超えたところ、その根源は誰にも分からない。その分からなさについて、無責任に「こうだ!」と言い切るところから宗教が倫理・道徳が始まり、そもそも存在それ自体には倫理・道徳・責任など存在しない、それが「生」なんですね。

逆説的に、「無責任を背負う存在」が前提にいる、いたからこそ人間社会は何かの中心となりえる権威的な判断の前提、倫理・道徳の元になる価値基準の前提が生み出され、またそれに基づく「専門的な足場」を得て、ようやく「責任」なるものが成立し得る、ともいえます。

生それ自体には「人権」なんてものはありません。「人権」は価値・意味の領域に存在し、生それ自体には意味も価値もないので「人権」などないのです。

それは「無責任を背負う存在たち」の営み・歴史によって生み出されたものです。「意味・価値」の次元における弁証法的発展がなければ近代社会は成立しえません。

とかなんとか堅苦しく書いたところで、実際は「無責任」にも多様な質があり、いろいろと悩ましいことが起きてくるのも事実です。以下の「伝導対勧誘」のショート動画は面白いです。 まぁ詐欺やもどきが多い世界なので胡散臭いと思われてもある程度は仕方のないことなんですね。

 

 

 

無責任を背負う者たち 

トーマス・ジョン という人がある動画で紹介されており、「占いタクシー」をいくつか見たのですが、身体が何か「違和感」を感じるんですね。(私はそういう違和感を大事にします。)

調べてみると、トーマス・ジョンは、セレブや一般人から多くの支持を得ている霊媒師ではあるのですが、彼の能力には懐疑的な意見も少なくないようです。

彼の批判者の中には、彼がインターネットやSNSで事前にお客様の情報を調べていると主張する人もいます。また、彼が出演したリアリティ番組には、彼の能力を検証するために仕掛けられた罠があったという報道もありました。

さらに、彼は過去に詐欺罪で有罪判決を受けたこともあり、その信頼性にも疑問が持たれています。2009年には、Craigslist(クレイグズリスト)で偽のアパート広告を掲載し、家賃希望者から保証金を詐取する事件を起こしました。

この事件によって彼は逮捕され、その後、PR会社ZTPRによってイメージアップのためのサービスを受けました。しかし、彼はこのPR会社に対しても支払いを怠り、訴訟を起こされています。 ➡ Thomas John who ran Craigslist scam is sued by PR firm tasked with improving his image

 

彼の能力の背景が実際のところはどういう質のものなのか、この件はこれ以上深入りしていないのでわかりませんが、私は「霊能的なるもの」を全否定はしていません。むしろ神秘体験及びある種の感性体験は昔からあるので、なじみの深い領域ではあります。

それはさておき、よく霊能者、霊媒師とかが語る話というのは、処世知・人生訓と変わらないものも多いですね。スピ版の処世知や人生訓、優しい説教だったり、あるいは「カウンセラー」の原型ともいえるでしょう。こういう「役」は必要なものだったからこそ生じ、今も続いています。

その流れの中で、あるものは科学・他の専門と結びついて社会的な役割として、正当な手続きを経て責任ある資格を与えられてもいる。

見方を変えれば、霊能者、霊媒師とかが語る話というのは「勝手に決めつけた押しつけがましい話」であり、処世知や人生訓、優しい説教の類の中でも最も「無責任なもの」ともいえます。

だから=「悪い」ということではありません。しかし、ときにそれで人を欺き騙しながら大金を得る人もいます。

そういう悪質な使い方をする人、カルト等のテーマは過去にも書いているので省きますが、「無責任なもの」でしか救えないことはあるんですね。

世間一般の処世知や人生訓はある種の予定調和で、そのお約束感をお互いにわかっている人が殆どですが、それに囚われると自らを鋳型にはめてしまう。

ですが、私的なことへの囚われが強すぎて堂々めぐりになっているときには、むしろ「非私的」な話によって「私」への囚われが外れ、無限ループから外れることによって私的な問題を楽に見つめることができる。

けっきょくは、その人の状態、捉え方次第でどう作用するかが変わるものともいえますね。

「雑談」もそうですが、全く無意味な軽い会話、そういう「深くない話」「本質的な話ではないもの」こそが逆に助けになるというのは、緊張と弛緩、ボーっとする時間の役割と同様に、一旦外す作用を含んでいます。

「本質的な話」とか「深い話」とかばかりする人、(玄人の語りに多い)そういう人たちが何か真摯に伝えようと頑張っているのはわかるんですが、生真面目すぎるんです。だから「非私的」な無責任な世間一般の処世知や人生訓に妙に過剰反応する。

焦点を一旦ほかのものに移して外してあげることは、ささやかですが、いや、ささやかだからこそ作用するもといえます。

「無責任さ」やある種の「適当さ、いい加減さ」のようなものが、かえってある状態にある人には救いになるだけでなく、それどころか「真摯な私的な語りばかりを聞かされるゆえに潰されていく人」もいる。

 

ico05-005 たいそうおかしいと思うことは、自分の好きな仕事を見いだせない者を蔑視する現代日本の風潮だ。「自分のやりたいことがきっと何か一つあるはずだ」というお説教は、正真正銘の嘘だ。ほとんどの人は、目を皿のようにして探してもそんなものは見つからない。– 中島義道 『働くことがイヤな人のための本』

 

「もっといい加減で適当でいい、真摯でなくてもいい、深くなくていい、好きなことを仕事にできなくてもいい、凡庸で結構、そんなに賢くなくてもいい」、みたいな適当な感覚、そういういい加減さが日常に不足している人も案外多い。

だからなのか、YouTubeにはスピ系の動画が再生回数多くて結構びっくりします。霊能者、霊媒師とか昔の話ではなくて、令和においても「シャーマニズム的人生訓」を求める人が多いんでしょうね。

しかしなんだかんだ言って、その手の「言葉」の作用よりも、↓こういうのが最強なんじゃないかと個人的には思います。

 

「あなたのおかげで今がある」みたいな「意味や価値の文脈に回収されるもの」ではなく、むしろそこから外れたものが存在を黙って支えていることがある。そういうことを全く言われない人が人を支えていたりもする。

「それ自体を生きる存在」は「評価されない領域」を生きているので気づかれない。「何をされたのかしているのか」も気づかれもしないものが、実際は存在を支え助けていたりする。

比較するようなものでもない全く別の質のものを比較し優劣をつけて、「あんなものは○○だ!」とネガティブ反応に囚われるのは、それ自体が硬直性の強さであり、平たく言えば「頭の固さ」ですね。

ツィッター等で語っている高学歴インテリにも結構多いですが、強迫観念的な生真面目さがある人は自身の発話の硬直性や攻撃性の強さに気づいていないことも多いんですよね。