中途半端な玄人たちの不毛さ

今回は「中途半端な玄人たち」がテーマです。「旅」の話も少し含めて書いています。

ちょっと前に、原発の処理水がどうのこうので騒がしくなっていましたが、小泉進次郎氏が笑顔でサーフィンする姿が全てを持っていっちゃった感がありました(笑)。

以下にリンクを貼っている動画に出てくるスェーデンの男性、「最強の魚菜食主義者」を自負しているようですが、「日本の魚はマジ上手い!」と絶賛しています。日本の魚をバクバク食べているんですよね。【ファン1億人】日本移住した理由は?

私も東北産のものを全く気にせず震災後も食べていますが、処理水の件も科学的に考えて問題はないと考えています。ですが、それを言うだけで食ってかかってくる人もいます。

 

こういう政治が強力に入ってくる話は、党派性でヒートアップしやすい人が出てくるけれど、ほんとうにその人が科学的な議論ができる人なのであれば、異論に対して口汚く威嚇し続け、馬鹿だのクズだので片づけようとしないはずなんですね、まぁそういう科学以前のところでわかってしまうものがあります。

〇 中国原発のトリチウムが上限超え 福島第1処理水の最大9倍

 

「プライドやメンツや引っ込みのつかなさ」だけで意地になっているならまだいい方で、活動家と連携して動いている専門家になると、党派性バイアスによって特定の前提からしか物事が解釈できなくなり、それを事実判断にも乱暴に接続していくようになるので、ある面では「素人以下」になってしまうんですね。

 

中途半端な玄人たちがもたらすもの 

いろんな都市、町に暮らしてきたので、どんな場であれ人であれ両義性があり、良し悪しを簡単には単純化できないし、その土地で実際に暮らしてみないとわからないものがあるとか、そういうのは当たり前の感覚なので、その手の話を書くことはあっても、私自身はあまりそれに興味はなく、

まぁそもそも何かの理想を外に追い求めている状態でもなければ、そういう話は旅なんてしなくてもおおかた誰でも自然とわかることでしょう。

サピエンス本体だけをみれば生き物としてのヒトはそもそもそんなに変わらない、ある種の類型を共有している。生活の基本的な部分というのはどんな場でもある程度は共通しているのは、同種の生き物である上は当然なので、わざわざそういった現実の再確認をするために旅をしようなんていう気にはならない。

旅をしようが自分と異なる他者と遭遇しようが、「似たようなもの」しか発見できないというのは、そこで気づかされているのは「今のわたしに見えるものはこんなものくらいしかない」という事実でしかない。

「旅」というものは人それぞれ多元的なものなので、その質をひとくくりにはできないものです。しかし「中途半端な妙な玄人感をだそうとする者」にかぎって、「旅とはこういうものさ」みたいな「本質語り」とか、決めつけることをすることがあるけれど、総じて実につまらないので興味がない。

案外、その道で突き抜けた人の方が「このひとポエムの化身なんじゃないか」みたいな弾けてる人がいたりして、その方が面白いですね(笑)

以下に紹介の『BLUE GIANT』ですが、こういう音楽馬鹿野郎の猪突猛進の物語って好きなんですよね。またこういうのにすぐ影響を受けて「JAZZを始めました!」みたいなあの単純さも好きです。

さらにそういう人が、ちょっとかじって、JAZZって凄い!って感動したり、覚えたてのうんちく語ったりするのもいい感じ。

 

 

まぁそうはいっても程度ってものはあるんだけれど、「何かに感動したら素直に表現する、浅かろうが深かろうが関係なくそうする、ストレートにポエムな人」の方が、玄人感をだそうとする中途半端な者よりずっと好感が持てる。

人文系なんていらないんじゃないの」というような世間の風潮も、案外この手の中途半端な玄人っぽさ、捏ね繰り回したひねくれた言い回しとか、「薄っぺらい癖に深いつもりの傲慢さ」が引き起こした印象なのかもしれない。

しかしそういうところは右とか左とかに関係なく、一部のアカデミア人にも見られる現象であるため、こういう反発のムーブは、「人文それ自体」が嫌われているわけではないのでしょう。

たいていは「社会学は嫌いではないが一部の社会学者が嫌い、芸術は嫌いではないが一部の芸術家が嫌い、科学は嫌いではないが一部の科学者は嫌い」というような類の話が多いのでしょうが、

しかし同時に、それを生業とする集団や組織にみられる傾向性が原因でいろいろと摩擦が増えてきている、とういう要素も含まれていることはあるでしょう。

 

旅をして思ったのは、そこで暮らしている人の方が馴化が生じてしまって意外と気づいていない、ということが結構ある。「日本の良さに海外で暮らして初めて気づく」に似たことが度々あったりする。

これは文化もそうで、伝統ゼロでこれをやれと言われたら不可能な次元のことを軽々とやってのけている。「本人はそう思っていない」というだけで、実際は後世に引き継がれていく文化資本は、「ありのままのただのヒト」を想像以上に引き挙げてもいる。

「たいしたことない」「どこに生まれても暮らしても人は大してかわらない」と思い込んでいるだけで、相当に特殊で稀有なことを当たり前のようにやっていたりする。価値の次元でみればそれは紛れもなく「高さ」の質を持つ。

当人たちにとってはあまりに当たり前のことなので、「どこでもこんなもんだろう、人間なんて」という感じだが、まぁその「その溶け込み方」がまたいいんですよね。

ここで以前書いた「精霊が生きている」という比喩についての補足ですが、これは何かの良し悪し、優劣の価値判断ではなく、無意識の生命力を感受したものを表しています。それはその場にいる当人すら気づいていないことが多い。

大概はそれを知らないまま溶け込んでいる状態で、価値判断ではそもそも捉えられない質のもの。だから何らかの意味・価値のモノサシで土地や他者を見ようとする見方では見えない。

 

話は変わりますが、無意識の生命力とは違って、「外から来たばかりの人」の方がパッと何かをメタすることがある。そして「その当たり前が素晴らしいんだ」ということに気づいたりする。

「第一印象は結構当たる」とかいわれますが、それにもやや似ていますが、対象のことをよく知らないときの方がむしろ「見えるもの」がある。「地元の人の方が地元に気づいてない」というものは意外にある。

人間も同様に、ずっと一緒で相手に慣れてしまっている、そこにいるのが当たり前になると、逆に見えなくなるものがある。家族の問題でもそうで、まったくの第三者だからこそ見えるもの、わかるものがある。しかも「表層」ではなく「核心」のようなものを捉える時もある。

近すぎる関係だからこそ逆に興味を持って対象を見ようとしていない、見ているつもりで見過ごしていることがあったり、当たり前だから「あんなの別にどうでもいい」という感覚で、鈍麻化しているということはよく起きている。

「部外者に何がわかる」「現場の人間でない奴に何がわかる」というよくあるあれもそうですが、「現場」や「その場所」の「当たり前」が、逆に全くの部外者の来訪によってメタされることで再発見される、という現象をたびたび見てきた。

長年、特定の場を足場にしている人が、強固に形成されたフレームを超えて客観的に評価したり柔軟に捉えたりすることができない、ということがしばしばあり、これは悪い部分だけでなく、外部から見て素晴らしいものがあってもそれに気づかなかったり、そのまま一代で消えていく、というようなことも結構起きている。

ところが「きゃーこれ可愛い!」「なんてすばらしんだ!」みたいな単純な感動から入る人の方たちは(全てではないが)、パッと気づいてすぐにそれを表現して実行してしまう。

フレームをいとも簡単に超えることで、逆にその良さを再発見して繋いでいったり、外部に気づかせる橋渡しになっていることもよくある。

「フレームをいとも簡単に超える」というのは人によっては無礼で無思慮に映りもするが、そういう人がいるから活気も出てくるし、内輪だけで閉塞せず、場に流れやゆらぎが生じるともいえる。

しかし、「部外者に何がわかる」的な反応、妙な玄人感をだそうとする中途半端な者が、むしろそういう無邪気な質のものを「薄っぺらい」として、すぐに「格付け」みたいなことをしたり、党派性に拘ったり、様々な縄張り意識で潰していたりすることがある。

人文系に限らず、先細りになる分野・組織・業界とかでもそういうことはよく起きている。中途半端な連中ほど、しょぼい形で素人に絡んで優越感を得ようとしたりする、そういう「さもしさ」に無自覚なんですよね。