父性の弱体化  逆支配と応用ギルトトリップ  

今回は、先にフーコー、ルークス、ルーマンの権力論について、そして次に「疑似イノセンス」~逆支配、ラストに「応用ギルトトリップ」という視点から考察した記事を書いています。

では先に一曲紹介、長瀬有花さんで「とろける哲学」です。確かに哲学の破壊であり、無意味への拡散です(笑)

父性の弱体化と生権力の関係についてですが、これはフーコーの権力論に基づいて考えることができます。 フーコーは、古典的な権力である「殺す権力」とは異なり、従属者たちを「生かす権力」を意味する生権力という概念を提唱しました。

生権力は、人間の生に積極的に介入して、しかるべきやり方で管理・運営しようとする現代的な権力のあり方です。 例えば、人口統計学、医療、衛生、教育、保健、福祉などの分野で、人間の生を規制し、最適化し、増殖させる技術が生権力の具体的な形態です。

フーコーは、生権力は18世紀以降に発展したものであり、それ以前の権力は主に「殺す権力」であったと主張しました。 しかし、これはあくまで歴史的な区分であり、現代においても「殺す権力」が完全に消滅したわけではありません。

むしろ、生権力と「殺す権力」は相補的に作用し、人間の生を管理するために用いられています。 例えば、戦争、テロ、刑罰、※ 自殺(経済的圧力、社会的排除、政治的迫害などの社会要因における自殺の場合)などの現象は、生権力の枠組みの中で「殺す権力」が発揮される場合です。

一方、三次元的権力とは、ルークスが提唱した概念で、権力の行使者が被行使者の認識や選好をコントロールしつつも、(それを被行使者に悟らせずに)権力行使者にとって不都合な考えをもたないように誘導する権力です。三次元的権力は、一次元的権力と二次元的権力の上位に位置する権力です。

生権力と三次元的権力とは、ともに「人間の精神に働きかける権力・目に見えない権力」であるという点で似ています。ルークスの権力論に関しては過去記事でも扱いましたが、

以下、ルークスとニクラス・ルーマンの権力論への批判的考察の論文。

 

「権力論の構造 -ステイーブン・ルークスとニクラス・ルーマンの比較から」 より引用抜粋

権力論の陥穿
一個人主義論的伝統と社会システム論的伝統【11LukesとLuhmannは権力論としての問題を包含していた。Lukesの場合は、三次元的見解における「真の利益」を理論化することなく行為者の個人的選好を「歪曲」する権力を論じていた。

Luhmannの場合は、権力のコードの共有をシンボルの能力に帰したために、諸行為者間の差異を無視し、コードは諸行為者間で一様に共有されるという論理をとってしまう。

両者の抱えた問題は権力論全体が抱える問題として定式化できる。それは、権力現象の同定を個人的属性に還元しきることも集合的属性に還元しきることもできないという問題である。

個人的属性への全面的還元は権力現象の同定を当事者の主観的判断に徹底的に委ねようとするために、逆に行為者の個体性を超えた判断基準を必要とする。

その基準を提出できないことは、いわば「幻想的な権力」を可能にしてしまう。一方で集合的属性への全面的還元は、その集合性の徹底ゆえに集合性が行為者の個体性の「集積」であることを隠蔽してしまう。

そして結果として、観察者の主観的判断に全面的な信頼を与えてしまうために、当事者の了解構造を捨象した盗意的な権力論を生み出してしまう。

つまり、権力論に期待された権力現象の同定能力・説明能力は、個人的属性と集合的属性の両者を加味した論理が必要とされるのである。個人的属性をミクロ、集合的属性をマクロと呼ぶならば、LukesとLuhmannの試みは「ミクロとマクロの接合」の失敗の二例である – 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒  権力論の構造 -ステイーブン・ルークスとニクラス・ルーマンの比較から

 

生権力は、身体を調教することで人間の精神を支配する規制権力と、人間の性に関する知識や言説を生み出し、人間の性を規定するセクシュアリティの権力という二つの側面から、人間の精神に影響を与えますが、その権力の源泉や主体は不可視であり、抽象化されています。

三次元的権力は、権力の行使者が被行使者を操作・誘導して、権力行使者にとって不都合な考えをもたないようにすることで、人間の精神に影響を与えますが、その権力の行使は隠されており、明らかにされません。

このように、生権力と三次元的権力とは、それぞれ異なる方法で、人間の精神に働きかける権力であるといえます。

フーコーの権力観と進化心理学の「逆支配(リバースドミナンス)」の概念は、それぞれ異なる視点から権力関係を考察していますが、フーコーの権力観では、権力は一方向的なものではなく、相互的で動的なものとされ、弱者が強者に影響を与えるという「逆方向の権力」も存在すると考えられています。

しかし、これは弱者が強者を直接支配するという意味ではありません。

一方、進化心理学の「逆支配」は、弱い者たちが、強い個体の振る舞いを制御するという進化の概念ですが、これは、生物の生存と繁殖の成功に寄与する行動や心理メカニズムが自然選択によって進化するという進化生物学の視点から考えられます。

これら二つの概念は、それぞれ異なる視点から権力関係を考察しているものですが、私は権力は単純な支配と服従の関係だけでなく、より複雑な相互作用を含むものであると考えています。

 

イノセンスの解体は通常の場合は親が担当し、十代~モラトリアムの期間を経て大方終わるものとされています。イノセンスの解体ののちに去勢(諦め)が生じ、この諦めは最初の通過儀礼ともいえます。

「私がどのように振る舞おうが、それを一切否定せず全的に受容してほしい」というのは、無償の愛を他者に求めているわけですが、このような幼児的万能感とイノセンスの解体は関連しています。

「自分の思い通りに他者(社会)が動いてくれる」のが「当たり前」という感覚が幼児的万能感です。そこには「他者にも許容の限度・限界がある」という他者への労わりも配慮もなく、「己への配慮と自由の最大化」しか考えていないのです。

そして「全的な受容」が誰にでもイノセンスの解体をもたらすとは限りません。

 

問題はイノセンスの解体が生じず、逆に「相手をコントロールできてしまったとき」なんですね。そのような「疑似イノセンス」にとどまった状態の大人が存在します。

「疑似イノセンス」とはアメリカの精神医学者ロロ・メイが提唱した概念で、表面上は無邪気さ、無害さ、純粋さを装っているが、実際には自己保護や他者への批判など、異なる動機を持っている状態を指し、

自己の責任を回避したり、権力に対する防御壁として使用されることがあります。また、成長を妨げ、新しい認識を得ることを難しくする防御機制ともされていますが、

「疑似イノセンス」にとどまった状態の大人に飲み込まれない、余裕がある人ならまだいいですが、しかしそういう人が「イネイブラー」となり相手の依存心や自己中心性を肥大化させる共犯関係になる可能性はあり、その場合、別の他者が被害を受けることになります。

また十分に対応することができず、相手に飲み込まれた場合は、逆支配が生じ、それが慢性的に続くような時もヤバい。民主主義社会では逆支配は正当化され支持されやすいため、支配とみなされずに維持・継続されやすいからです。

それが「問題」として意識される段階ではもはや手の付けようがないほど暴走し先鋭化している場合があるんですね。

 

応用ギルトトリップとしてのフェミニズム

「逆支配」はある種の先鋭化した社会運動、ポピュリズム等にも見られますが、ある種の人々にとって「相性のよい思想、都合の良い思想」というものがあります。

ここからは、「その思想をどのような状態の人がどのように利用しているか」、さらにその中でも「より自己中心的な人々がその思想を利用した場合どうなるか?」をテーマに書いています。

 

「弱さ」を逆手にとった価値反転や逆支配は、あきらかに男性よりも女性の方が卓越しているのです。それは男性の生物学的な傾向性を上手く利用して行われます。かなり本能的なものなので男性はこれに操られてしまうことは日常茶飯事なのですが、バランスが調和していれば破壊的なものではありません。

男性もある程度は「操られることを望んでいる」ともいえる、そういう本能があるからです。平たく言えば男性はその意味においては「馬鹿」なんです。しかしこの「馬鹿さ」というのも両義的で、長所でもあるんですね。

女性にも別の意味で「馬鹿」なところがあります。それによって「献身」したりしますが、それでダメ男に何度も騙されたりすることあります。

「頂き女子りりちゃん」の事件ではこの「馬鹿さ」がマイナスに作用して男性が騙され、「ロマンス詐欺」「ホス狂い」の場合は女性がそうなるように、これも相手との組み合わせや馬鹿さの程度、バランス次第で良くも悪くもなる両義的なものです。

この双方の「馬鹿さ」と組み合わせ・バランスによって関係の質が変わるので、あまりに賢くなりすぎてもダメなんですね。しかし最近はこのリミッターを解除し際限なく見境なくやり始めたので、男性の方が離れ始めています。特に若い世代がどんどん否定的になってきています。

生き物としてのバランスというものまで崩してしまっては、土台が維持できなくなります。なんでもかんでも構築主義の理屈で考えてしまうから、「人は地上の生き物に過ぎず有限の身体を生きている」という基本すら忘れてしまい、無限大の「私」の肥大を起こしてしまうのです。

話を戻しますが、たとえば男性が女性からDVや性被害や暴力や精神的支配を受けていても不可視化されやすい。だからイノセンスの解体が生じないまま逆支配が成立し、そのまま継続してしまうことが起きやすい。

女性の方が甘え・依存・弱さを許されるので、SNSでは「メンヘラ」と表現される属性の人たちがイノセンスの解体を男女関係の中で行う場合、男性が「受け」の側になることが多い。SNSで「理解のある彼君」と表現されますが、メンタルヘルスに問題のある弱者男性の「受け」の側になる女性は極めて少ない。

「受け」の状態を「点」でみれば依存の状態であり、さらに相手をコントロールするためにギルトトリップを仕掛けてくることが慢性化しているなら、それはもはやNPDBPD等のパーソナリティ障害のレベルである場合もあるでしょう。

ギルトトリップとは、「他人に罪悪感や責任感を抱かせて、自分の望むように行動させようとする心理的な脅迫や操縦」です。そして「逆支配の形で行われるギルトトリップ」は不可視化されやすい。だからここでスポットを当てているわけですね。

罪悪感は人間の行動に強い影響を与えまますが、ギルトトリップをかける人は、それを他人を操作するための道具として使います。

相手を「加害的な存在」とし、「自分はその被害者である」という風に設定して、相手の良心や自尊心に働きかけ、相手を不安にさせたり、罪悪感に苛まれるように仕向けて、「従順」にさせようとします。そして価値を反転させることで、相手を「下」にして叩き続ける。低次の防衛機制ばかりを過剰に使っているんですね。

だから日本のフェミニズムとイノセンス、ギルトトリップが合体するとある種の無敵モンスターが誕生します。

 

「女性のパーソナリティそれ自身の問題や障害」は正常、あるいは男性優位社会の被害者としての感情表現とされ、「男性」に対しては女性側が問題を構築し続け一方的にジャッジし、女性の問題・障害に無限に寄り添うケア要員へと誘う、これは「逆支配の形で独裁化した女権による男性の去勢」であり、

そして「ありのまま思想+無限の可能性」は「女性の幼児的万能感の未昇華を肯定するためにある」ともいえます。

しかし幼児的万能感丸出しの人たちだけでは社会は回りません、誰も責任をとらない社会になるからです。なので「男性だけ」に徹底した理性的な行動制御を求め、法・制度で管理し拘束し、責任を負わせるようにするという極端な不平等条約が一方的に締結されていく。

「イノセンスの解体されていない女性」にとって、それは「母性」の代用品となる思想ともいえますし、「逆支配にも使える思想」にもなります。

NPDやBPD等のパーソナリティ障害の女性は、自分の欠陥や無力さを認めることができず、自分の理想的な自己像を守るために、誇大性や依存性などの防衛機制を使うことがあります。また自分の感情や思考に対するコントロールができず、感情的に過剰反応したり、分裂的に思考したりします。

その際に、フェミニズムの思想は、自分の問題や苦しみの原因を男性や社会に責任転嫁することを可能にし、自分の立場や行動を正当化することを容易にし、自分の怒りや恐怖や憎悪を正当化し、発散することを奨励し、自分の感覚や感情を優先することを主張しますので、NPDやBPDをより強化してしまうことがある。

そしてパーソナリティの問題が不可視化され正当化され続けることで、「思想を盾にした際限のない他害」が可能になる。このような「思想概念を用いた応用ギルトトリップ」によって、インセンスは解体されず幼児的万能感のまま「なんでも自分の思い通りに人や社会が動いて当然」という感覚が維持され続けます。

自分を見つめることもなく、否定性を受け取めることもなく、周囲が全て肯定し快刺激しか与えないように配慮する環境というは、究極の温室環境です。

そのような温室にいるから自分はそのままでいられる、と思い込めるだけで、それはその人が変わったわけでも成長したわけでも回復したわけでもなく、その環境設定をしている他者が下支えをして「立たせているだけ」に過ぎないのです。これは自立ではありません。

特定の属性がその依存による負担を義務化されているような状態、そんな構造の社会を「当たり前にしたい」みたいなことを言う人というのは、未だ回復も自立もしていないし、幼児万能感を残している人ですが、

問題は「そういう人を依存したまま自立させないようにしている人たち」が専門家・支援者にいるということ。それはそのような当事者と専門家双方の「不満」と「利」が一致するからそうする。

 

ico05-005激しい不平不満というものは、その原因が何であれ、根底では、自分自身に対する不満である。 – エリック・ホッファー

 

「イノセンスの解体」を成人後に旦那や理解のある彼君でやってしまう、というのは、自身を子供とし、相手を「親」の代わりとして扱う依存と甘えの構造ですが、まぁその方法でもイノセンスの解体が生じ、自立・回復していく人も中にはいるでしょうが、

しかしそれは条件が揃った時だけで、そうではない場合、無限ループし、どこまでも責任から逃げ続け文句をいうだけの依存的存在となっていくでしょう。

男性におけるイノセンスの解体は「背水の陣」だからこそ効果があるともいえます。男性は「理解のある彼君」のような「他者からの全的な受容」が生じにくい属性だからこそ、全的な受容の体験が強力な心的作用をもたらし、個として責任を引き受けていく主体になっていくともいえます。

しかし「受容がおきやすい属性」には馴化が生じ、それが当たり前になってしまう場合、さらに相手に受容を求めて肥大していく可能性があるわけです。こっちが無理ならあっちに乗り換えていけばいい、みたいな感じに、責任を引き受けずに依存の生を生きるだけになる。

無償の愛、無条件の愛を他者から得て当たり前、要求すればそれが通って当たり前、そういう感覚になってくると、他者・社会のリソースをより多く奪うようになっていきます。そして他者にかかる負担や苦痛に痛みを感じることなく、ただ自分の願望を満たすことが最優先になっていくでしょう。

だから依存症やNPDやBPD等のパーソナリティ障害の人にとっては、「イノセンスの解体された女性」=「大人の女性」は男性よりもコントロールが難しい嫌な相手なんですね、同じ属性ゆえに「応用ギルトトリップ」を仕掛けても男性のようにはいかない。

そこでフェミニズムの概念を使って「裏切者(例:名誉男性)」として加害者にしたてるわけですね、そうやって相手をコントロール下に置こうとするか、仲間外れにして孤立させて追い込む。(女性がよくやるイジメのやり方)

日本のフェミニズムは「女性は悪くない」一辺倒の包摂になりつつあり、悪や責を「男性」に負わせようとします。つまり、イノセンスの解体されていない女性を無限に受け止めさせようとする「甘えのシステム」としても機能してしまう。

「個人的なことは社会的なこと」も、個人(イノセンスの解体されていない女性)の問題を、社会(大人の男性=パパ)に丸投げするための責任転嫁に都合よく用いられる両義性があります。

結局そのやり方は、「幼児的な他者」から何をされてもどこまでも受け止めるだけの社会的存在を外部に作って解決しているだけで、その社会的役割を「プロ(専門家)」と「大人の男性」に丸投げしているだけ、ともいえますね。