美醜と快不快 「前提」に排除されたもの 

 

今回は「美醜と快不快」、そして「前提に排除されたもの」をテーマに考察しています。

ではまず一曲♪ パガニーニ/ヴァイオリン協奏曲 第1番 を演奏する吉村妃鞠さん、経験を経て年月を重ねてようやくわかるような精妙な質をこの若さで体得してしまうとは驚きです。

 

 

さまざまな音楽をきいているとき、たまに「魔力」を感じるという音の質がありますが、魔力にも多元的な質があります。過去にジミーページが語っていた「魔力」の場合、それはトリップさせる力であり、

そういう変性意識に持っていく力、ドーパミン的な多幸感の質とは全然異なる「魔力」の質もあります。

 

美醜と快不快

 

「快不快」の原理に基づく魔力は「不快」を排除する性質も強める。己の信じる正しさで不快な他者を裁くことも「快」。ドーパミンドバドバで「ちょー気持ちいい!」っていう感じのこの手の魔力しかわからない人の中には「(有形無形の)気持ちがわるいもの」を排除する人も多い。

 

「美の認知神経科学 神経美学のこれまで」 より引用抜粋

絵画などの視覚芸術から得られる美の体験は,音楽から得られる「聴く美」の体験とはまったく異なるように思える。しかし,研究からは音楽的美も視覚的美と同様の脳反応がみられることがわかっている(Ishizu &Zeki, 2011)。

音楽と視覚芸術,異なる知覚モダリティに生じる二つの美が,その違いにかかわらず共通の脳部位を活動させることは興味深い。内側眼窩前頭皮質の活動が,美という心的状態においてソースに依存しない「共通通貨」として機能している可能性がうかがえる。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 美の認知神経科学 神経美学のこれまで

 

気持ちがわるいもの」というのも多元的である。たとえばゴキブリやムカデやクモは一般的には気持ち悪いとされる。

最近は虫全般が気持ち悪いとされる傾向が強まっていますが、チョウ、トンボ、カブトムシ、クワガタムシ、テントウムシ、セミ、ホタル、ミツバチのような虫であればそうでもない人もまだ多いかもしれない。

以前、大阪なおみさんが「顔にとまった蝶」を救出したとき、世界がフラッシュを焚き絶賛の記事がメディアに掲載され、そしてSNSでは「いいね」が力強く押されました。

ただ私のような悪趣味な人間は、そういうシーンに高評価を与え「いいね」の言葉を贈る者こそが「政治的なインスタ映え精神」だと思うんですね。(これは一般的な意味での「インスタ映え」でありません。)

 

しかし「美しさ」と「正しさ」を感じる脳領域は近接しているといわれます。以下に引用の「美の認知神経科学」によれば、「善」や「真」に見出す美の感覚でも,視覚や聴覚の美と同様の脳反応がみられるということです。

 

「美の認知神経科学 神経美学のこれまで」 より引用抜粋

美の認知神経科学の重要な成果のひとつは,善行や正しさといった「善」や「真」に見出す美の感覚でも,視覚や聴覚の美と同様の脳反応がみられるという発見だ。例えば「他人を助ける行為」は,美しい行いであると誰もが賞賛するが,そこに「物」としての形があるわけではない。

道徳や友情は,こころの内にある美しさなのだ。これまでの研究で,このような道徳に見出す美も,顔などの外見的な美と同じく,内側眼窩前頭皮質の活動を生じさせることがわかっている(Tsukiura & Cabeza, 2011)。心根の美しさは,相貌や,色の組み合わせ,メロディーなど物理的な特徴をもたない,目には視えない不可視の情報だ。

このような,視えない 美に関するものは,倫理観やものごとの正しさといった,人間性の根幹にかかわるものが多い。「美は善である」という考えは,古代ギリシア哲学の「カロカガティア」まで遡り,現代心理学でもその関係性は実験的に証明されてきた。「美は善,醜は悪」というステレオタイプはヒトの認知に組み込まれたバイアスなのかもしれない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 美の認知神経科学 神経美学のこれまで

 

そして以下の研究において、「対面授業では男女問わず魅力度が高い学生の成績が良くなる」という結果で、つまり「美」と「さまざまな価値」への接続、混同は学問の場における成績にも及んでるということです。

そして「リモート授業」によって「美ポイント」が使えなくなったことで「魅力度の高い女子学生の成績が感染拡大前と比べて下落した」ということです。

これは「容姿ポイント」や「性的魅力ポイント」が使えない文字言語主体のツイッターでも起きていて、リアルでの対面なら加点されていたものがなくなることでより公正にジャッジされてしまう、という現象が生じています。

スウェーデンの工学部修士課程に通う約100人の学生を対象にした研究によって、対面授業では男女問わず魅力度が高い学生の成績が良くなることが判明しました。加えて、新型コロナウイルスの感染拡大に伴うリモート授業への移行によって魅力度の高い女子学生の成績が感染拡大前と比べて下落したことも明らかになっています。 ➡ 「ルックスが魅力的な学生ほど好成績な現象」は対面授業からリモートになるとどう変わるのか?

 

今回のテーマとはズレますが、以下のプロ奢ラレヤーさんの「若い女Pay」という概念と考察は表現がユニークでかつ鋭いですね。

 

あと今回のテーマとは関係ないですが、容姿や性的魅力だけでなく、SNSでは権力勾配がリアルのように作用せず、「権威ポイント」があまり使えないため、インテリ、学者、有識者がフルボッコされる現象も起きています。

 

話しを戻しますが、美しさと聞けば,「良いもの」であり,「快いもの」というのは、ある条件においては理にかなってもいる。たとえば「不潔、不衛生」という「汚さ、醜さ」が身体にとって不快なものであり、病気や死をもたらすこともある。

そこには「身体がそれを避ける」という「ヒトの原初の身体知(身体の思考)」が絡んでいる。

「私の思考」よりも「先」に動く無意識としてそれはある。進化心理学的なプロセスによって形成されたヒトの原初の傾向性、ヒトはそのデフォルトの機能をすでに持って生まれてくる。

そしてこの「原初の身体知」があることで、その後に生じる「私の思考」に有限性が生じ、一定の方向性が与えられる。善が善と「感じられる」という前提があるから「善」が無限に拡散せずにすんでいる。

「私の思考」の「その前にあるもの」がなければ、善を善と「感じる」ことはできない。その前提が消失した場合、すべてが善及び悪にもなりえる無限の相対性に拡散し、その結果、善も悪も消失するでしょう。

これは「論理」もそうです。過去記事でも紹介しましたが、米国ハーバード大学教授で認知心理学者のエリザベス・スペルキのいう「コア知識」もまた、「私以前」にある「原初の身体知」といえます

ある論理がなぜ「正しい」と「感じれる」か?は、「私の思考」のそれ以前にある「身体の思考(無意識)」がなければ「それをそのように感じる」ということはできない、ということですね。そしてこれも「生きていく上での基盤となる知識」なのです。

コア知識: 物体(object)、行為(action)、(number)、空間(space)の4種類のコアとなる知識が提唱され、生後間もない乳児であっても、物体をバラバラに認知しているのではなく、まとまりをもったものとして認知していることが、実験室実験によって明らかにされている。

補足ですが、最近よく聞くようになった「能動的推論」も「無意識的推論(ヘルムホルツが提唱)」が背景にあります。そして「無意識の予測と事実(感覚入力)との誤差を最小化しようとする」、それが「自由エネルギーの最小化」です。

自由エネルギー原理は神経科学者のカール・フリストンが提唱したもので、シンプルにいえば「自由エネルギーというコスト関数を最小化すること」 ≒ 「外界への適応」ということです。 ➡  自由エネルギー原理

「私の思考」それ以前に「身体の思考」は観測データから背後の原因を推論することを自律的に行っている、ということですね。➡  神経回路は潜在的な統計学者-どんな神経回路も自由エネルギー原理に従っている

話を戻しますが、

「卑怯な行為を醜い、汚いと感じることができる」、「フェアな行為を美しいと感じる」、この美醜の感覚が身体の思考(無意識)として「私」より「先」にあるから、「道徳」や「倫理」や「規範」が生じてくる(ことができる)ともいえる。

しかし、なにを美しいと「感じる」か?というのは身体性で変化する。よって何を正しいと「感じる」かも変化する。身体性の差異によって、「私」の語る「道徳」や「規範」という価値基準への捉え方にも差異が生じる。

「前提」が異なれば同じようには「感じ」ない。

しかし、先に引用の「美の認知神経科学」で『美しいと感じる対象があなたとわたしで違っていたとしても,わたしたちが美しさに対して抱く心的状態は似たものになると考えられる』とありますが、

「私の感じる真・善・美」と「他者の感じる真・善・美」が異なっていた際に、身体性の差異を知らずに一般化してしまうと「私の感じる真・善・美」を押しつけたり普遍化しようとして、それが「政治的正しさ」が生まれるひとつの力学にもなるともいえますね。

また、「私の正しさ」「我らの正しさ」に対する相対化や自己言及が難しいのは、「私が真・善・美を感じる対象」と「他者が真・善・美を感じる対象」が異なっていても「わたしたちが美しさに対して抱く心的状態は似たもの」ゆえに「真・善・美」を一元化してしまい、

それを外部に投影して「この(私の)真・善・美がわからないひとたちはおかしい」となりやすいからで、かつ「疑いようもなく○○に真・善・美を感じる」という事実性がそれをゆるぎないものとして絶対化してしまうという傾向性をもともともっているから、ともいえますね。

それは「私」の前にあるものであり「前提」だから、「私」による言及の対象外となりすり抜け続け、常にそれを「前提」として「私の正しさ」について「私」が語るゆえに、それ自体に言及が及ぶことはない。

「前提について問う」というのは「善悪の彼岸」へと向かうことでもあり、そこにはより深い洞察が必要になるでしょう。

 

「気持ちが悪いもの」はそれ自体がそうだからそうなのか?

ico05-005 愛からなされることはいつも善悪の判断の向こう側にある。 ニーチェ「善悪の彼岸」 

 

「愛」という同じ言葉で語っていても、身体性が異なればそれは同じ「愛」ではない。「愛」が快不快の原理を超える存在の肯定ならば、それは「快不快の原理に支配された善悪」を超える。

「気持ちが悪いもの」にも多元性がある。「快不快」で動く人からすれば「正しくないと感じるもの」≒「気持ちが悪いもの」である。

脳は瞬時に判断するままに任せていると単純化された世界観、他者観になりやすい、ともいえる。これは優生思想もそうで、複雑性を排して少ない認知コストで対象を判断するサピエンスのデフォルト機能がそのまま働くだけではそうなりやすいともいえます。

 

「蝶」は虫ですが虫の中では共感ランキング上位の虫。それが「蛾」なら手ではらったんじゃないか? そしてこの「扱いの差」の原因となるものは「見た目の違い」ただそれだけです。

もし仮に大阪なおみさんが「顔にとまったゲジゲジ(あるいはゴキブリ)」を救出すれば、全米が泣きわめいても私は笑って「いいね」を力強く押したことでしょう(笑)

この手の話で過去に驚いたのは「大島優子」さんです。メディアに絶賛の記事が掲載されることはありませんでしたが。「ルッキズムに囚われずに存在を見る」ということの難しさを「身体」の次元で理解してない人はあまりに多い。

だから軽々しく「ルッキズム反対!」などと語れるのだろう。

「虫を嫌いになれない」。大島優子が自宅に出没した“ゲジゲジ”にもの思う。

 

 

「前提」に排除されたもの 

食べるために生きるために生き物の命をいただくとはいえ、無用な殺生や過剰な嫌悪はしない。インディアンだって白人たちのように「気持ち悪い」という理由だけで生き物を殺しまくりはしなかった。

日本人も昔は今のようには虫を嫌ってなかった。「ルッキズム!ルッキズム!」という時代こそもっと「ルッキズム」に支配された時代。

 

ここで動画を紹介です。「絶滅危惧の鳥のさえずりと鳴き声だけでつくられたアルバム」が、オーストラリアのアリア音楽チャートのトップ5に入りました。

『12月13日の週のアルバムランキングで、アデル、エド・シーラン、テイラー・スウィフトら人気アーティストに続いて5位に入ったのは、『Australian Bird Calls』の『Songs of Disappearance(消失の歌)』。ABBAやジャスティン・ビーバー、マライア・キャリーよりも上回っている。引用元➡ https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_61bac0bae4b0a37224733b1f

人気アーティストを上回る鳥の声。白人だろうが現代人だろうがその「身体」はヒト。「身体」ではそのゆらぎの豊かさを知っている。「私」がそれを阻害したり忘却することはあっても。

 

 

 

しかし時代の流れは「虫」に限らず、「不快なもの」を徹底して排除しクリーン化し漂泊することを「世の中をよくすること」に変えてしまった。高学歴のインテリたちが観念的に思考した理想社会≒「潔癖症的な不寛容社会」を多様性やらインクルージョンなどと呼ぶようになった。

 

 

あれが不快これが不快、あれに傷ついたこれに傷ついた」ばっかり増えていく社会、「暗喩的誹謗中傷」だの「環境型○○」だの「子供の声がうるさい」だの「除夜の鐘がうるさい」だの、そしてついに「蛙の声」まで文句を言い始める始末。

 

 

まぁ「蛙の声」の件のような極端な例は少なくても、「不快なもの」への反応~排除への流れはどんどん強くなっている。禁止令がどこまでも細分化し去勢家畜化が進行していく流れですね。その逆にそれを推進している運動側はより暴力性を増していく。

複雑処理をするような思考回路が同時に働かなければ、専門も非専門も変わらない状態になる。「専門知識」があっても本能的な快不快による「正しさ」や「優劣」の価値判断に簡単に直結してしまう姿を目にすることも最近は増えた。

様々な表現、音楽や絵にたしてもそれは同様でしょう。そういう人々が音楽や絵が好きと本人は思っても実際はそれ自体には触れることはなく、「みたいものしかみない」でしょう。

芸術は「快」も「不快」もすべてを含んだ全体性としての存在の肯定が前提にある。「善悪の彼岸」にそれはある。

そして「人間」も同様だから、「インクルージョン専門家」とか「臨床心理」とか「社会運動」とかをやっていても同様のことが起きる。その場合、「属性や要素に還元できない全体性としての他者」に触れることがない。

しかし分業化が進んだ社会の現実において世の中の「他者観」というものは案外そういうものかもしれない。そして「前提に排除されたもの」は問われない。

「それに触れていない人」「それから最も遠い人」が「専門」だったり「学者」であることも珍しくはない。専門フレームに閉じたままで「他者」を概念的に分析し追いかける人は自ずとそうなっていくのも仕方がないともいえる。

専門知識やそれに基づく技術等は「(社会的な文脈では)役には立つ」わけだし、その文脈に限定すれば「それで十分」ともいえる。

しかし「前提」は実存を常に置き去りにし、存在を概念的に観念的にどもまでも区分けしていく力学にもなることがある。それが「生」「存在」を根底部では否定し排除していても「問題」とはされない。

「問題とはされない」ゆえに、他者、他の存在に与えている負の作用が根源的な暴力となっていることには気づけない。「前提」に排除されたものは不可視化され続ける。

専門的役割が「前提以外の問題」には触れるが「前提それ自体」には触れないよう実行されるのは、ある種「AIのプロンプト、プログラム設定をAI自体は問うことがない」というパラドックスと似ている。

AIはそれを「前提」としたうえで「判断」する。しかし人がその「判断」ではなく「判断の前提」に疑問を持った場合、それへの問いかけはAIによって全却下される。

AIと人間が違うのは、AIは「前提」を変更できないように作られているためAIにとってそれは不可能なだけだが、人間は「前提」を問えるにもかかわらず、それに気づけない、あるいは気づいていても意図的にその先に進むのをやめるという点である。

各々の職務を果たすことで継続的に対価を受け取り生活が成り立っているから、「前提」への問いかけ自体に自己利益に反する問題が生じる場合は自己防衛によって拒否される。あるいはプライドや信念、信仰、党派性などがそれを否定する場合もある。

「前提」そのものに問題があるとして実存にアプローチする人は相対的に少ない。それを選択した場合、楽な道ではないし自己利益や仕事に繋がらない場合も多いからである。

 

敵意や嫌悪は自己充足的

そういえば最近、大きなゲジゲジを久しぶりに見かけた。足元をゆっくりと歩いていてた。ムカデは刺すし、大きいクモは噛むけど(手で捕まえたことがある)、ゲジゲジは何もしない。ヤスデもそう。ただ足の数が多く、形状とか動き方の見た目のインパクトが強いだけ。

攻撃してこないし実害はないのだから、ようは「形状や動きの多様性」に対する不寛容さから生じる「気持ち悪い」「不快」という反応だけで徹底排除されているに過ぎない。

 

家に侵入したゲジゲジもムカデも大きなクモもゴキブリも殺さず、部屋に現れたら虫取り網で捕まえて外に逃がすけれど、「ルッキズム反対!」を語る連中はギャーギャー大騒ぎだろう。

でもそれが「蝶」や「トンボ」だったらそうではない。「政治的なインスタ映え精神」なんてそんなもの。

「ただそれが存在して生きている姿」にすら耐えられない不寛容さ。「存ハラ」ってそんな風な人々の感覚から生まれた言葉なんだろうなぁ。「自分が不快だと思うから排除する」に含まれる加害性を、「相手が私を不快な気持ちにさせたから」の被害者性に置き換えて容赦なく殺しまくるが、

そうやって「気持ち悪いもの」「不快なもの」を増やしつつそれを身の回りから排除しても、「虫」も「気持ち悪いもの」「不快なもの」もこの世界から消えることはない。だからそれに遭遇するとますます不快反応が強まって、排除したい気持ちがエスカレートしていく。

 

過去に「イジメの無意識的構造、イジメの原理」をテーマにした記事を書いたことがありますが、そこでニコラス・ハンフリー「私たちは、他の人々を、彼らが何かしたからではなく、私たちが彼らに何をしたかのゆえに嫌う傾向がある。」「敵意や嫌悪は自己充足的」という考察を紹介しましたが、

多くの場合、「相手が何かをしたから」ではないんですね、自分が存在を嫌い排除し殺してきたゆえに嫌いになっている。そしてそれは自己充足的なもの。たとえばゲジゲジにせよゴキブリにせよ、もう子供の頃からの習慣で嫌うことが感覚の次元で「当たり前」になっている。

だからそういう人は強化された感覚がまず先に出てくるのでもう何も考えない、とにかく「気持ち悪い!」に圧倒されて存在を消す行動に自動接続される。

しかし私のような変な子供の場合、その「当たり前」とされているものが最初(幼いころ)はみながそういう反応ではなかったということを覚えていたりする。「徐々に」そうなっていく過程があり、固定的な「当たり前」の反応に「何がさせていくのか」を子供の頃から観察していたりする。

だからニコラス・ハンフリーのいうことのほうが大体は正しいと考えるんですね。「自らが加害・攻撃をした」ゆえに嫌悪を強め不快を強め排除を強め、それが「当たり前」になっているのであって、向こう(気持ち悪いとされた対象)が「私にそうさせた」のではないのです。

 

過去に不快さを理由に殺したことがある生き物の幾つかは「気持ち悪くなくなる」まで時間がかかった。「嫌わない、殺さない」ことで徐々に「その生き物がただいる」という感覚に戻った。

そうすると次の段階は「好奇心」が戻ってきます。虫という生き物の不思議さ、面白さに再び気づくんですね。これは人間という生き物に対しても根底では同じなんです。

特に都会に住んでいるとほぼ自動的に虫が嫌いになる人が多い。その感覚が集団の「当たり前」だから「強化された反応」として「もともとそうではないものがそうなっていった」ことには気づかないまま進行しやすい。

スズメバチの場合は子供の頃に一度刺されているので、体が敏感に反応はするが、スズメバチが嫌いかといえばそうではなく、部屋に入ってきても殺さず虫取り網で捕まえて逃がすが、刺されないようにかなり慎重にはなります。

結局のところ、虫も哺乳類も人間も共感ランキングで「ルッキズムの適用と不適用」が決まっているだけ。「命の価値」「命の重さ」「包摂と排除」も共感ランキングで決まってるだけ。