存在強者と存在弱者

少しだけ興味があるというか、「本人に聞いてみたいこと」のひとつに、「玉木宏さんは一夫多妻制についてどう思いますか?」という実にくだらない悪趣味な質問があります(笑)

玉木宏さんはなんと答えるのだろうか?

「あ~あの100人とか365日とかネットでいわれてる件ですか.. (しばし沈黙).. そうですね、私が相手を厳選し、私のルールに絶対服従するという条件なら100人でもOKです。365日は無理ですが、300日であれば理論上は可能です。」

とか一切表情を変えることなく冷静に語ったら面白そうですね。

 

ではまず一曲、ブヌン族の八部合音です♪ その声、音は大地根に差した身体の音。 この音に触れると身体の基部に響き共振する。大地とヒトのダイナミズムに満ちた音。かつては人の存在をしっかりと支えていたゆらぎたちは、いまや微かなものとなり、人の自我と大地はますます調和を失い離れていく。

六龜高中合唱團【 布農組曲 】布農族傳統歌謠 – LOUIS 錄意思影音藝術製作

 

 

存在強者と存在弱者

世の中には様々な話題のニュースがあり、それをインフルエンサーたちがインパクトのあるウケのいい言い回しで多くの「いいね」をゲットするが、劣化コピー&編集能力ではあってもそれはそれなりに高い能力ではある。

ある種のエンタメ能力としてみればかなりの能力だといえるかもしれない。

インフルエンサーでなくてもウィットの利いた表現や、レトリック能力の高い多様な表現やときに過激な文言が飛び交い、多くの正負の反応が発生する。それもまたそれぞれにある種の表現力だったり、ニッチな話題であったりはするとは思うが、

しかしそれらは総じて「まだまだエコーチェンバー内におけるボスザル的な弱者の立ち振る舞い」の次元なのだろう。

おもしろきこともなき世をおもしろく」という言葉はけっこう好きではあるけれど、それにしたってまだまだ弱者次元の開き直り的な生の肯定力ではある。

本物の強者はたかだかツィッターにおいてレトリックなんて不要、炎上なんて不要、まして「道」を極めるがごとき修練や努力、開き直りなど不要。「話題」も不要。何故なら「存在それ自体が世界を動かす」からである。そのひとつが以下のツィートである。

 

 

「笑って腹筋をするだけ」でこの破壊力、これが性的魅力資本の力である。「魅力資本」であれば犬や猫も安定して強いが、しかしそこに「性的魅力」の大資本家が合わさると、もはや「腹筋」は特別な付加価値を与えられる。

性的魅力資本とは、性的な魅力によって社会的な価値を得られることです。エロティック・キャピタルやセクシャル・キャピタルとも呼ばれます。性的魅力資本は、人種や文化によって評価が異なることがありますが、見た目、セクシーさ、活力、表現などの要素から成り立っているとされています。

ポッキー持って笑いながら走るだけでブレイクしたガッキーと同じく、「ネギ腹筋😊」だけですべてを凌駕する。この性的魅力資本を超えるのは「パンダ」くらいしかいない。

「笹を食べているだけ」「座ったり転んだりしているだけ」を「有料で見る」ためにたくさんの人が集まる。さすがに全盛期のガッキーですらパンダにはかなわない。よって「魅力資本」の哺乳類最強はパンダである。

 

では「おっさん」は?  存在するだけでうっすら嫌われ、中でも見た目がより感じ悪いと「存ハラ」という暴力になる。もはや「不快な見た目の虫」に近い扱い。

このような存在弱者としてのおっさんは「おもしろきこともなき世」を「あれこれ工夫しておもしろくする」のが精一杯だが、「魅力資本」を持つ「存在強者」は「おもしろきこともなき世」が「ただその人が在る」というだけで一瞬で世界の色を変えてしまうのであった。

 

ところで「自己肯定感」という言葉も今ではどこでも聞く言葉になったけれど、そのほとんどは「自尊心」と同じ意味合いで「他者との比較ありきのもの」のようである。

やはり「存在肯定感」のほうがいいですね。そして「肯定」というのは別に褒められるとか特別な何かみたいなものではなく、ただ在ることをそのまま認めるという肯定くらいの自己承認の感覚だが、

どうも結構多くの人がそれでは嫌なようで、もっと強力な「他者からの肯定」を求めすぎているように感じることがある。

そうなると自尊心というよりも承認欲求のほうが近いのかもしれない。承認欲求が強い人がそれを十分に得られないことを「自己肯定感が低い」と感じる場合、このブログで意味するところの自己肯定感≒存在肯定感とは全く別のものになってしまう。

「私は価値のある人間だ」というような承認には「他者」が必要で、だから他者から「○○と思われる」を確認することで「私はこんなに○○な人間だ」を自他に納得させようとする。

「価値がある」という場合、そこには何かの基準をもとに評価する「比較」が常にある、ゆえにそうならざるをえない。

「○○を生きる」ではなく「○○に見せたがること」によって○○は常に見過ごされていく。幸福そのものを生きるのではなく「幸福に見せたがる、幸福だと思われるように生きる」という在り方によって自他を欺く。それはむしろ「存在否定」に近い。

そこに「ただ在ることをそのまま認めるという肯定」はない。

 

自己肯定感の定義や意味の違いはあれど上に紹介のツィートの先生の言うこともわかる。「自己愛」というものは否定的に語られることが多いけれど、コフートの自己愛の捉え方はそうではなかったように。

「自己愛」に関しては私はどちらかといえばコフートの方に近い捉え方をしているので、自己愛も大事だと思うんですね、特に「男性」は。それがないから女性に比べて男性には可愛げがない傾向があるともいえるでしょう。

傾向性として男性はどこか自分を粗末に扱うのを男らしさという風な自己否定の感覚があって、でもそこには男性が道具的存在として社会の役に立つうための自己モノ化傾向や、闘争世界に適応するための暴力耐性の強化が関係しているでしょう。

「社会環境が男性に求める強さ」のウエイトが自己愛よりも自己否定の方に相性が良かったゆえにそうなっている、という構造的な力学がある。しかし構造は徐々に変わりつつある。

コフートの「健全な自己愛」は現在も有効だと思うんですね。それにしてもコフートってもうずいぶん昔の人だし全く新しくない理論なんですが、こういうものってけっこう普遍性があるものなんですね。

まぁ自己愛はともかく、

「ネギ腹筋😊」..この犬の名前と腹筋を組み合わせただけの言葉には何の創造性もなければ劣化コピー&編集能力もみられないが、まさに「真の強者」というのは「ただ在る」だけですでに強い。

ゆえに「ネギ腹筋😊」とただ語るだけで良し。一切の小細工は不用。それだけでこの世知辛い陰気な時空が消え失せ、そして「世界のほうから」勝手に承認が集まってくるのである。

何らかの積み上げによって得た権威ある地位も不要。インテリの小賢しい理屈も不要。哲学も科学も宗教も思想もアートも政治も不要。マウントや論破や議論も不要。信者とアンチの二項対立も不要。「ネギ腹筋😊」だけですべてを凌駕する。

SNSで日々展開されるツィッター政治および個々の承認合戦は、ひとりの強者の「ネギ腹筋😊」に敗れ去ったのである。

 

他者を「属性」でみることの両義性

「他者」を属性でひとまとまりに見る、という人間の知覚現象における傾向にはプレグナンツの法則(群化の法則)が働いています。(この法則は心理学者のマックス・ヴェルトハイマーによるものです。)

対象物を「グループ化する」とか「分類する」というのは日常的に行われていることですが、そうすることで脳内での情報処理を簡潔化しているわけですね。これは仕事や生活において必要なものではありますが、同時に複雑なものを単純化することでもあるため、そこで見失われるものがでてきます。

たとえば「女性」といったって個人で見れば人の数だけいるわけで、「性的魅力資本」という視点で考えても大富豪~貧者までいるでしょう。

しかしたとえば社会問題には、構造的にある属性に特有の問題というものは傾向性として存在します。ある特定の集団や属性が置かれている状況を考察することで見えてくる社会的な力学があります。

社会には様々なグループ、多元的な単位が存在します。そのどの位置・範囲に属しているかでどのような社会的な作用を受けるのか、その質が変わるのです。構造的な力学というのは特定の1個人だけに作用しているのではなく、ある単位全体に作用します。

よって「個人を超えた集団の単位」として考える必要が出てきます。だから他者を「属性」でみるということにも両義性があり、「常にそれは悪い、常にそれは良い」というような二元論では語れない、ということですね。

 

それにしても以下の外部サイト記事の「おじさんたち」のなんという脆弱さ..。このような存在弱者を属性丸ごと強者ということにしなければならなかった社会の事情のほうが本質的に残酷なのだろうなぁ。

〇 「トー横おじさん」の悲哀…「トー横ヒエラルキー」の最下層で「養分」にされる中年男性の現実

 

オジサンたちは「キモイ、臭い、ウザい、弱い」と同性、異性を問わずネガティブなカテゴライズをされたり、「オジサン」という一般化で語られることが多いが、若い人はまだ「個人」でみてもらえることが多いのは、そこにはプレグナンツの法則だけはでないアンコンシャスバイアスが働いているから。

つまり「オジサン」というだけでエイジズム、ルッキズムは無自覚に肯定され、バイアスが強く作用し、「貶しても構わない対象」となりやすい傾向性がある。「オジサン」と同じく「オタク男性」も大体似たようなものだろう。

 

話は変わりますが、「男性が泣く」という行為には資本に還元できるほどの需要はないが「女性が泣く」には需要がある。中国には「泣き屋」という泣き専門の職業があるように、「女性が泣く」ことの心理作用には金を払ってもいいほどの需要があるわけですね。

「女は男のように生きていけないし評価もされない」は同時に、「男は女のようには生きていけないし評価もされない」と裏表なんです。

女性には男性にはない別の強さがある。女性の強さと男性の強さ、男性の弱さと女性の弱さは質が異なり、しかも「何が役に立つことなのか」や「発揮する力」の評価基準自体が異なるわけです。だからなんでも同じ基準で男女を比較してもおかしなことになってしまう。

「魅力」の質が異なるものを同一の基準にしてしまえば「性」のもつ生物学的な力が弱められどんどん働かなくなる。「異性」には異性にしかない魅力があるから性が異なる者同士が引き合える。

「性役割」というのは社会的に構築されたものだけではなく、「身体」の生物学的な差異による本質主義的なものが基底にあるため、完全な脱構築をやってしまうとかえっておかしくなってしまう。

だから女性を男性の基準でみてもズレてしまうし男性を女性の基準でみてもズレてしまう。「男性からみた男性」は「女性からみた男性」と異なり、「女性からみた女性」は「男性からみた女性」とは異なる部分があるのは自然なことなんです。

だから全てを「個人」で見るだけでなく、「属性」の単位で考えることも大事なんですね。