絶対矛盾的自己同一性を生きるということ

 

絶対矛盾的自己同一」は西田幾多郎氏の概念ですが、今回は氏の哲学を掘り下げるわけではなく、これは単に矛盾的自己同一性を生きている人間の姿を考察したものです。

 

故 坂本龍一さんは、「何かを嫌いつつもやはりそこに何かの力を感じとる両義性、矛盾にゆらぐ感じ」がなんともいいんですよね。

 

この言葉、ほんとうに嫌いなんですけど、(バッハの曲を聴くと)まさに「音楽に救われる」という感じがするんですよ。癒される、慰められる思いがします。
(中略)
「癒し」という言葉は嫌いだけれど、僕もやっぱり音楽に慰められているんですよね。 だから音楽ってやっぱりそういうことのためにあるのかもしれない、悲しみを癒すというか。

引用➡ 特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編「音楽の大きなテーマは、亡くなった者を悼むということ」

 

「音」から言語が生まれ人間世界が生まれたという原初的な創造の流れをみるとき、「音」というものが持つ不思議さに驚かずにはいられません。現実において「音楽」が役には立つことは少ないかもしれないし、それに救われたことがない人には何の価値もないものだとしても。

「救われる」とはまた異なりますが、人は歌や旋律を聴いて「心に沁みる」と表現することがある。バッハのマタイ受難曲は、人間の業ゆえの苦悩を深く感じて心に沁みる。まぁバッハだけでなく音のゆらぎはときに強力な心的作用を生じさせます。

そしてそのひとつが「悲しみ」と名付けられた心のゆらぎです。

人は矛盾を生きている。その「矛盾との向き合い方」に「その人の思考の型」が現れ、そして心には様々なゆらぎの波が生じる。

 

「J.S.バッハ:マタイ受難曲より”憐みたまえ わが神よ”」 

 

西田幾多郎はヘーゲルの弁証法を批判し、自分の弁証法を「絶対弁証法」と呼びました。ヘーゲルの弁証法は、対立するものが媒介を通じて解消されることで高次の統一に至るというものです。しかし、西田の弁証法は、「対立するものが解消されることを否定し、むしろ対立するものがそのまま同一になることで現実が形成される」というものです。

西田幾多郎は、「絶対矛盾的自己同一」において「対立するものが互いに相殺されることや優劣がつけられること」を否定しました。むしろ、対立するものが互いに認め合い、補完し合うことで現実が豊かになると考えました。

彼は「主と客とは生か死かである」と言いましたが、これは主客二元論を否定する意味ではなく、主客相即の意味であると解釈できます。主客相即とは、主観と客観が互いに依存し合って存在することを指す仏教用語で、これはレンマの思考の型とも関連します。

彼は「絶対矛盾的自己同一」において、主観的な行為者 (主) と客観的な存在 (客) が互いに相即しながら現実を形成していくことを示唆しました。

その意味において「絶対矛盾的自己同一」は中道を求める思想であり、対立するものではなく調和するものを重視する思想であり、二元論ではなく相即論に基づく思想であるとも言えるんですね。

哲学は身体に先立たない

若く身体が元気で特に何かの障害も生じていない人々は、それゆえに気づけないことも多い。何かが出来なくなったとき、何がそれを支えていたのかがわかる。ある機能を失ったとき、逆に「それがあるんだ、あったんだ」ということを明瞭に知る。

 

 

脳出血や脳梗塞、いわゆる脳血管障害で失語症が出現してくることがありますが、「ウェルニッケ(感覚性)失語」や「ブローカ(運動性)失語」のように脳領域によって失われる能力が異なり、

そして「全失語」の場合は言葉を話したり理解したり、文章を読んだり書いたりといった言語機能が重度に障害されてしまう。「我思う、故に我在り」とはいいますが、この状態ではたとえば「哲学」など当然できません。

身体は「私」に先立ち、身体は「言語」に先立つ。デカルトが言う意味での「我」は、身体の機能(無意識)に先立たない。「我感じるゆえに我あり」が「原初の我」。

「全失語」の状態でも「原初の我」は感じている。しかし「我思う、故に我在り」は失われている。「哲学する」というのは身体の機能から独立してはいない。「何か言語的に思考する」というのは脳の機能なしに成立しないということ。

たとえばある脳領域を意図的に破壊すれば「その領域があることで生じていたもの」が失われる。それによって「我思う、故に我在り」だけを消すということも可能。

逆に事故や病気で脳のある領域の機能が損傷し「我思う、故に我在り」が失われたとしても、その脳領域を修復できれば再び戻ってくる。「我思う、故に我在り」はそれ自体では実在していない。脳の機能が働いていることで「我思う、故に我在り」と「そのように感じる」ことが可能になるだけ。

 

「原初の我」は母の胎内で目覚めた。そして世界に産み落とされる。不思議なことに人は「生まれた瞬間」のことを覚えていない。

哲学をしている人々が「この世界が在る」ということの不思議さを語ることがあるが、そして人生には様々な衝撃的なことが起こりそれが衝撃的であればあるほど人々の記憶に深く焼き付くようにみえるが、

しかし「生まれた瞬間」ほどの衝撃的な体験はまずないだろう。胎内から外界に出てくる、「世界」にはじめて触れたその初体験は凄まじい衝撃だろう。にも拘わらず誰も覚えていない。

では『「全く覚えていないこと・全く記憶にないこと」は「実在しないこと、事実ではないこと・経験しなかったこと」なのだろうか?』、もしそうであればほとんどの人は生まれてないということになり矛盾するが、まぁ実際に生まれているのでこうして生きている。

いや、ごくまれに「わたしは覚えているぞ!」とかいう人もいるが、まぁなんでもかんでも科学で全て完全にわかるとは思ってはいないので全否定はしませんが、ほぼそういう人はいないのも事実なわけで、ではその事実性はなぜそうなのでしょうか?

人が生まれたときの新生児の記憶がないのは、顕在記憶という意識的に思い出せる記憶がまだ発達していないから。顕在記憶は、海馬や前頭葉という脳の部分が成熟することで可能になりますが、その前には、潜在記憶という無意識的に影響を受ける記憶が主に働いています。

顕在記憶と潜在記憶の違いは、意識的に思い出すことができるかどうか。顕在記憶は、自分の意思で思い出すことができる記憶であり、宣言的記憶とも呼ばれます。顕在記憶には、個人的な経験の記憶(エピソード記憶一般的な知識の記憶(意味記憶が含まれます。

潜在記憶は、自分の意思とは関係なく、無意識に思い出してしまう記憶であり、非宣言的記憶とも呼ばれます。潜在記憶には、知覚表象システム(PRS)や技能としての記憶(手続き記憶)が含まれます。例えば、「自転車に乗る方法」は潜在記憶です。

顕在記憶と潜在記憶は、脳の異なる部位が関わっていることが示されています。顕在記憶は、海馬や前頭葉などが重要な役割を果たしますが、潜在記憶は、側頭葉や小脳などが関与しています。そのため、健忘症者でも、顕在記憶に障害がある一方で、潜在記憶は正常に保持されていることが多いです。

認知症においてもそれが生じます。「脳」の機能によって「私」の思考は条件づけられている。「私」は身体に先立たず、言語的思考は脳の機能によって可能になっているのです。にも拘わらず「私」がなければ「このこと自体」を観察することも問うこともできないのです。

矛盾を生きる人間ゆえに「哲学」が生まれ、またそれが可能になっている。矛盾万歳!ですね(笑)

 

 

新生児は、視覚や聴覚などの感覚を通じて、周囲の環境について学習しています。例えば、新生児は母親の声や話す言語のリズムを認識したり、顔や表情を見分けたりすることができます。

しかし、新生児の記憶は長期的に保存されるものではなく、新生児は自分の体験したことを数日から数週間程度しか覚えていられません。これは、脳の発達や言語能力の不足などが原因と考えられます。そのため、大人になってから新生児時代のことを思い出すことはできません。これを幼児期健忘と呼びます。

ところが新生児の頃の「記憶がない」、そして新生児にはまだ「言語」が理解できず、「言葉以前」の状態であるわけですが、既に新生児は物事を把握できているわけですね。

「言語」によって「ある対象」が「実在しているかのように捉えられる」のではなく、言語がなくても「実在」は把握できているということ。「言語」がそれらの認識を生み出すのではなく、言語以前に認識されているということ。

ただその認識の過程が記憶されていない、顕在記憶化(エピソード記憶、意味記憶)されていないということですね。記憶化されていないから「私」にとってそれは「ない」とされるわけですが、「私以前(無意識)」においてそれは「ある」のです。

「無形の瞑想」においてはそのような「ない」とされたものに触れていくのですが、「言語」には永遠にそれができないのです。「哲学する」のは「私」であり「私以前」は哲学しない。

 

「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」

人は「死」を恐れ、「タナトフォビア」なんてものもあるが、しかし「生まれることへの恐怖」を語る人は極めて稀である。私は「どっちが怖いか」でいうなら後者なんですね。

なぜ何もないのではなく、何かがあるのか」という古くからある哲学的問いがあります。

  ライプニッツの「なぜ無ではなく何かが存在するのか」という問いやハイデガーの「無」に関する考察を 20 世紀初頭の分析哲学者たち(カルナップ,エア,ライルたち)は「無意味だ」と批判した(第Ⅰ節).

ところが,20 世紀末に至ると「分析形而上学」というジャンルが市民権を得,ライプニッツの問いはヴァン・インワーゲン,ロウ,パーフィットなど多くの分析哲学者たちによって正面から論じられるようになった(第Ⅱ節).

分析哲学者たちの形而上学への評価を変化させた要因は何か.それは,「検証原理が元々持っていた難点」,「クワインの全体論」,「ストローソンの記述的形而上学」,「クリプキの固定指示詞と可能世界論」の4つである(第Ⅲ節) 論文なぜ無ではなく何かが存在するのか ─分析哲学における形而上学の盛衰─

 

「ある人が存在しなくなる死という現象」は果たして「無になる」ことなのか?そして「無」とは何か?確かに客観的には「死んだ人はもういない」。しかしそれは「無」なのか?

ところで「反出生主義」というのは社会的な文脈において部分的には肯定できる面もあるとは考えますが、別の面でそれを否定するのは、「ある場」に自身が生じてくる、生じてきたことそれ自体を「私」が防ぐことはできない、ということ。

「親になる人(産む人)」がいなければ「子になる人(産まれる人)」もないというが、そもそも『「ある人の元に生まれる以前」に「とどまる」なら「無」であり続けるだろう』という考えにおける「無」とは「無それ自体」といえるだろうか?

「いかなるココ」も「いかなる我」も「いかなる作用」も「いかなる生起」もなかったはずの「無それ自体」から「我ココに生ず」が現に起きてしまうなんていうことはありえないのに、「ある人の元に生まれる」なんていう衝撃的なことが「現に起きてしまった」わけで。

「無ではない何かが現に起きてしまった」というこのあまりにも強烈な事実をなかったことにできるだろうか?

「無」にはなれないと表現するよりも前に、まず「無」から生まれてきた瞬間の衝撃をほぼすべての人々は忘れている。「無」から「何か特定の形状に生まれる」という有限化の衝撃は「根源的な恐怖」と結びついている。

「死(有限性の解体)」は「無」ではなく「有限性の一時的な解体(存在の眠り)」であるとしたら..さて一体どちらが怖いでしょうか?

「何も起きることがない、生起するもの及びその原因や力が一切が無い」のが「無」なのだから、「何かが起きる」は「無それ自体」からは生じえない。よって「無それ自体にはなれない、なれなかった」ゆえに「我ココに生ず」。

存在の眠り」の後に「存在の覚醒」が生じ、そのとき「今ココ」それ自体が新しい何かに変化してしまう。「存在」は無そのものになれないゆえに存在している。

瞑想(マインドフルネスではありません)において「存在の眠り」は「身体の眠り」とリンクしている。しかしその深さは全く異なる。「身体の眠り」から目が覚めると、そこには新しい朝があるが、「存在の眠り」から目が覚めるときそれは..。

原初の瞑想は常にあるが、通常はその身体の機能に枠組まれ(原初のフレーム化)、初期化される。原初の瞑想状態においては「存在の眠り」~「存在の覚醒」において忘却された「はずのもの」が未だあり続ける。

「私以前のもの」は「私」は知らないのである。「それは確かに起きたこと」なのに知らない。これは驚くべきことである。それは原初の我が確かに経験した凄まじい衝撃だったのに「私」といえば「全く記憶にございません」なのである。

そして驚くべきことに「私以前のもの」は毎日常に「ココ」にあり「起きている」が、「私」はそれを知らないまま「そんなものは実在しない」と思っているのであるが、実際は「哲学する私」の方が実在していないのである。

 

言語による思考それ自体は「虚」であり、ヒトは「虚」を実体であるかのように思い込める力=「宗教的なるもの」を既に資質として有している。言語による意味世界は宗教の一形態である。よって概念に支配された誰もが宗教信者。

言語とその「意味」が感じられるのも、そしてそれがなぜか「他者」と共有できてしまえるのも、ヒトの宗教的素質の先天的な高さを表している。ヒトはもともと宗教的素質のある生き物なのである。

では言語の意味世界を生み出すに至ったこの「宗教的素質」とは一体何なのだろうか?それは創造性のひとつの現れである。

「無意味なものに意味を与える力」はヒトの創造性に支えられている。そしてミーム感染によって複製されることで共同幻想を可能にする。それによってヒトは共通の意味世界(虚)を生きるという信仰形態が可能になる。

それが「高度な社会性」を可能にもする。社会性もまた宗教性の一形態だからである。現代先進国社会は無宗教の社会ではない、それはひとつの宗教的な社会の形態。

ただ伝統宗教のようなシンプルな信仰のモデルではなく、非常に複雑な意味世界であり高度な宗教形態に変化したというだけで、根底にはまだ伝統宗教のミームも働いている。

 

ところで「量子力学なんて特殊な次元の話であって日常の次元では関係ない」みたいなことをいう人がたまにいますが、スマホには量子力学を基盤にした「量子技術」が使われています。

他にもパソコン、レーザー、MRI、GPSにも量子技術が使われています。日々量子技術の恩恵受けているのです。そして車、飛行機、電車、電化製品、日常のあらゆるものが科学知識に基づく技術なしには成立しないでしょう。

たいていの人は「統計的因果推論」と「経験則」の違い、「科学」と「宗教」の違いを(言葉で説明しなくて、目で実際に見なくても)感覚でわかっているのです。しかし、実存の次元からみればすべてが宗教ともいえる、そういう話なんですね。

いろんな次元がありそれぞれ分けて書くというのは誤解を生まないという点ではよいんでしょうが、

人間は矛盾を内在化した存在であり、同時に複数の次元を生きている、「私」は「身体の思考」を知らないまま生きている、しかしそれは紛れもなく「私」の土台にあるように、矛盾が忽然と重なっているかのように存在している。

だからここでは、矛盾が忽然と重なっているかのようにそのまま織り交ぜて書いているんです。これらの考察の書きなぐり自体が矛盾を生きていることの写しなんですね。