同一性と類型 差異と反復とアブダクション

今回は前半で「同一性と類型」、次にドゥルーズの差異と反復」をアブダクションと認知言語学の「イメージスキーマ」という概念で考察し、後半では「オノマトペと音象徴」を中心に「言語」というものを考察しています。

 

同一性類型は別物です。同一性という言葉は、英語の「identity」から来ており、アイデンティティは様々な形で使われますが、同一性には二つのニュアンスがあります。

たとえば「Aはどんな人なのか」と「AとBは一緒だ」という二つのニュアンスです。前者は個人や集団がもつ特色や属性を表すことが多く、自己同一性や社会的同一性などと呼ばれます。後者は二つ以上のものが区別できるかどうかを表すことが多く、論理的同一性や物理的同一性などと呼ばれます。

「類型」は個体や現象の間の類似点を抽出してそれらの本質を理解しようとする学問の方法であり、動植物学や心理学や言語学や文化人類学や芸術学などにみられます。パーソナリティにも類型があり、遺伝的な気質にも類型があります。

心理学では人間の思考や感情や行動のパターンを分類するためにパーソナリティの類型を作成しますが、その際には統計的な分析を行ってデータから類型を導き出します。

精神医学では、例えば統合失調症という類型は実際に症状を持つ患者さんは存在しますが、その背景にある疾患単位が何なのかはまだ解明されていません。類型は症候群とも呼ばれます。

精神医学では、類型は理念型の役割を果たしており、患者さんを理解し援助するための指針となっています。

「統計」は「医学」の臨床応用に必須です。医学研究の成果を実際の診断や治療に活用するためには「統計」が不可欠です。例えば、病気の診断や予測を行うためには「統計」による分類や回帰分析が必要です。また、治療効果の検証や比較を行うためには、「統計」による無作為化比較試験やメタアナリシスが必要です。

そして臨床において「演繹、帰納、アブダクション、リトロダクション」が使われますが、

アブダクションは、観察された事実に最もよく合致する仮説を選択する推論法です。仮説形成や仮説的推論とも呼ばれます。アブダクションは発見を生み出すために用いられます。アブダクションが存在しなければ、既存の知識や法則に囚われた演繹や帰納だけでは、科学的探究や創造的発想の進歩が阻害される可能性があります。

リトロダクションは、アブダクションによって形成された仮説をさらに検証し、修正し、精緻化する推論法です。リトロダクションは、演繹や帰納などの他の推論法と組み合わせて用いられ、仮説が真である可能性を高めるために用いられます。

 

「完全に同一ではないから怪しい」とするなら身体医学も精神医学も心理学も同様に成立しません。完全に同一の身体・精神・心理そして人間など存在しないからです。人間には完全な同一性はなくても類型があるから様々なことが推測可能になるのです。

これは犯罪行動の心理学的パターンを類型化し推測する「プロファイリング」もそうですね。

「統計」とは、実際に観測されたデータに含まれるばらつきを、応用数学の方法を使って数値的に分析し、性質や法則性あるいは無秩序性を探る学問であり、統計的な手法は実験の設計やデータの要約や解釈における根拠を与えるため、多くの分野で活用されています。

また、言語学では言語の音韻や文法などの特徴を分類するために言語の類型を作成しますが、その際には統計的な手法を用いて言語間の共通点や相違点を明らかにします。このように、「類型」は「統計」に基づいて作成されることが多く、「統計」は「類型」を作成するための有効なツールとなります。

二つ目は、「類型」を「統計」によって検証するという側面です。例えば、動植物学では生物の形態や生態などの特徴を分類するために生物の類型を作成しますが、その際には仮説として立てられた類型が実際に存在するかどうかを確かめるために統計的な検定を行います。

また、文化人類学では人間社会の文化や制度などの特徴を分類するために文化の類型を作成しますが、その際には仮定された類型が普遍的かどうかを検証するために統計的な比較を行います。このように、「類型」は「統計」によって検証されることが多く、「統計」は「類型」を検証するための有効なツールとなります。

以上から、「類型」と「統計」は密接な関係にあることがわかります。「類型」は「統計」によって作成され、「統計」は「類型」を検証するために用いられます。

パーソナリティにおける類型と遺伝の類型の違いは、パーソナリティにおける類型とは、人間の思考や感情や行動のパターンを分類するための概念であり、心理学的な特徴や傾向を表します。

例えば、外向的な人や内向的な人、神経質な人や安定した人、協調的な人や反抗的な人などがあります。パーソナリティの類型は、個人差を理解するための有用な道具ですが、あくまで一般化されたものであり、個々の人に当てはまるとは限りません。

遺伝の類型とは、生物学的な特徴や性質を分類するための概念であり、遺伝子や染色体の構造や機能を表します。例えば、血液型や目の色、髪の色などがあります。

遺伝の類型は、生物学的な多様性や相関性を理解するための有用な道具ですが、あくまで物理的なものであり、心理的なものに直接関係するとは限りません。したがって、パーソナリティにおける類型と遺伝の類型は、それぞれ異なるレベルや観点で人間を分析するものであり、必ずしも一致するとは限らないということがいえます。

 

差異と反復とアブダクション

ドゥルーズのいう「反復」とは、同じものが繰り返されることではなく、差異が生み出されることです。ドゥルーズは反復について二種類を区別します。 一つは表象的な反復であり、これは認識者が過去の経験や記憶をもとにして現在の対象を同一視すること、 もう一つは表象を超えた反復であり、これは存在が自らの内部から差異を生み出すことです。

ドゥルーズのいう「表象的な反復」を認知心理学で説明するなら、「スキーマ」という概念が近いといえるでしょう。ドゥルーズは、「表象的な反復」とは、認識者が過去の経験や記憶をもとにして現在の対象を同一視することだと述べています。

しかし「表象を超えた反復」はスキーマとは異なり、過去の経験や記憶に基づく推論ではなく、存在そのものの創造性や多様性に着目したものです。 ドゥルーズは哲学者として、「表象的な反復」から「表象を超えた反復」へと移行することを目指します。

そのためには、過去に囚われずに未知や可能性に開かれた思考を行う必要があります。

 

ここで田中智志氏の論文「表徴と反復 : 人はどのように学ぶのか」を紹介します。

この論文では、ドゥルーズの哲学を用いて、「学ぶ」と「知る」「表徴」と「表象」「反復」と「習慣」の区別を明らかにし、人間の経験や学習の本質を探求しています。 表徴と反復 : 人はどのように学ぶのか

氏は、ドゥルーズは、「学ぶ」とは、「知る」のエレメントではなく、「無限である『学ぶ』のエレメント」である「理念」に導かれることだと考えました。また、「表徴」とは、「理念を感受すること」であり、「反復」とは、「理念に向かい、試行し続けること」だと考えました。

ドゥルーズは、表象は過去の経験や知識に基づいて形成されるものであり、それを超えるためには、「一度も反復されていない過去」を見出すことが必要だと考え、そのためには、表徴を感受し、理念を指向することが必要だと考えました。

 

心理学的には「表象」はアナログ表象(知覚的表象)命題表象(意味的表象)があります。➡ 表象(representation)とは

認知心理学では、スキーマとは、人間の認知過程を説明する際に用いられる概念の一つです。 スキーマとは、ある物事に関する知識について似たような例が集まってくると、それらに共通したものを抽出して一般的知識として捉えることが可能になるということです。

スキーマは情報が不足している状況下でも、スキーマを参照すれば足りない情報を推論によって補うことができます。

したがって、ドゥルーズのいう「表象的な反復」は、スキーマによって対象を同一視することと言い換えることができます。 しかし、ドゥルーズはこのような反復を否定的に捉えています。 それは、表象的な反復は存在そのものの創造性や多様性に着目しないからです。

ドゥルーズは哲学者として、表象的な反復から表象を超えた反復へと移行することを目指します。 そのためには、過去に囚われずに未知や可能性に開かれた思考を行う必要があります。

ドゥルーズの表象的な反復はスキーマに似ており、表象を超えた反復はアブダクション(仮説推論)リトロダクション(遡行推論)に似ています。

 

表象を超えた反復とは、一度も反復されていない過去を見出すことによって、新しい存在のあり方を志向できる反復であり、例えば「ニーチェの永劫回帰」や「ベルクソンの純粋持続」がそれにあたります。

ドゥルーズは、ニーチェやベルクソンから影響を受けており、彼らの思想を発展させました。ドゥルーズによれば、表象を超えた反復は、時間が空間的に分割された不変的な瞬間ではなく、連続的に流れ変化するものであることを前提としています。

しかし、ドゥルーズは、ベルクソンが主張したような時間の一元論ではなく、時間の多元論を提唱しました。すなわち、時間は単一ではなく多様であり、それぞれ異なった速度や方向性を持つ多数の時間が存在するというのです。

したがって、「表象を超えた反復」と「永劫回帰」や「純粋持続」とは、「時間」や「反復」という共通点がありますが、「肯定」や「一元性」という点では異なります。ドゥルーズは、「表象を超えた反復」を通じて、「差異」と「創造」を重視する思想を展開しました。

 

スキーマと認知フレームの共通点は、「日常の経験を抽象化・一般化する」という点です。両者ともに認知心理学において用いられる言葉であり、人間の認知過程を説明する際に用いられる概念です。

スキーマと認知フレームの相違点は、「獲得の仕方」と「抽象性 (具体性)」の点です。スキーマは主に外部環境に対する身体作用 (五感) を通して形成される比較的抽象的な認知図式です。認知フレームは社会的活動を通して身につける比較的具体的な知識構造です。

認知言語学で「イメージスキーマ」といわれるものは言語の根幹をなすものと考えられ、日常生活で得た抽象的・普遍的な認知構造です。イメージスキーマは、五感を通じて身体的に体験することで作り上げられるものです。

たとえば、容器というイメージスキーマは、容器が内部と外部に分けられる、容器の中にあるものは外からの力に守られ、容器が動くと中にあるものも一緒に動く、というような共通の知識を示すイメージスキーマです。私たちはこのようなイメージスキーマを、普段から目にしたり手にしたりすることで獲得しています。

イメージスキーマは、人間の身体的・感覚的経験に基づいて形成される概念的な構造で、言語や思考に影響を与えるものです。認知言語学では、イメージスキーマがメタファーやメトニミーなどの言語表現の基盤となっていると考えられています。

比喩には他にシネクドキ、シミリ―がありますが、それにもイメージスキーマが関連しています。

 

オノマトペと音象徴

 

 

そして認知言語学で「イメージスキーマ」は「視覚」がメインといわれますが、しかし「オノマトペ」は「視覚」に限りません。それは音や動作などの非言語的な様態を言語的に模倣したもので、日本語では2モーラを反復するABAB型の語が多く見られます。(例:ばさばさ,ばたばた,ころころ,きらきら、ふわふわ、すべすべ、ぺらぺら、ぎゃーぎゃー、ぱくぱく、もぐもぐ、へとへと、くたくた)

〇【論文】 オノマトペの多義性に関するスキーマ的分析

 

オノマトペは、音や形などの刺激とその発音との間にアイコン性(類似性)があるとされ、音象徴という現象を反映していると考えられています。

今井むつみ・秋田喜美の著書「言語の本質」では、オノマトペが言語の発生と進化に重要な役割を果たしたと主張しています。オノマトペは、環境音や身体感覚などのアナログな情報とデジタルな言語情報をつなぐことばであり、アブダクション(仮説形成)推論という人間特有の学ぶ力によって生み出されたという考えです。

オノマトペをイメージスキーマから見た場合、以下のように解釈できるかもしれません。オノマトペは、人間が感覚器官から受け取った情報を音声化することで、その情報に対応するイメージスキーマを作り出すもの。

歌を聴くとき、私は言葉の意味よりも「声」「音」のゆらぎを聴くのですが、「声」「音」のゆらぎに触れるとそれは様々なものを生起させます。

オノマトペは、その発音や響きによって、聴覚的・視覚的・触覚的・運動的なイメージを想起させることで、そのイメージに関連するイメージスキーマを活性化させるものであり、

そのアイコン性や音象徴性によって、非言語的な様態と言語的な記号との間に直接的な関係を構築することで、その様態に対応するイメージスキーマを表現するものである、ともいえますね。

「言語の本質」の第三章では、言語の十大原則 (コミュニケーション機能、意味性、超越性、継承性、習得可能性、生産性、経済性、離散性、恣意性、二重性)をオノマトペが満たしているかどうかという観点から「オノマトペは言語か」という問いを考察しています。

第三章の後にクワインの「ガヴァガイ問題」や「記号接地問題」へと入っていきます。「身体性」と「記号」の二項対立はなかなか一筋縄ではいかないようですね。

「① オノマトペのリズムや音から母語の音の特徴や音の並び方などの特徴に気づく、② 音と視覚情報の対応づけを感覚的に「感じる」ことによって、耳に入ってくる「音」が何かを「指す」ということに気づく。P118」

そして進化の過程でなぜ言語はオノマトペから離れなければならなかったのかどのように離れていったのかが第五章で考察されています。その後「アブダクション推論」に入っていきます。

それにしても「言語の本質」はとてもわかりやすく読みやすく面白い本です。さすが「言語」を学問することのプロフェッショナルという感じですね。「言語」というものは人間にとってあまりにも「当たり前」に使っているものなので、「それががいかに不思議なものか」ということはほとんど意識されません。

しかし「人間」という生き物にとって「言語」ほど特異なものはないといえるかもしれません。

 

「ドゥルーズの感性論における反復と旋律―『差異と反復』における「縮約」と反復について―」 より引用抜粋

 ベルグソンは、記号化(後者の用語では「コード化」)をかなり否定的に捉えていた。記号化とは、質的印象を変質させてしまうことである。つまり旋律を旋律でなくしてしまうことである。この消極的側面が執拗に強調され、記号の持つ指示作用という積極的側面はほとんど無視されていた。

しかし、ドゥルーズは、記号化を、行動を含む、あらゆる能動的な作用に繋がる不可避なプロセスだとして、積極的に評価する。それはあたかも、ベルグソンが感性以前の段階で許容していた外在の多様性を、ドゥルーズは(反復にまで)厳しく制限してしまったが、しかしそれはベルグソンが論じなかった、記号を介して感性的なレベルと連続性を持つ、能動的作用においてより広範な問題を論じようとしたためだったのだ、とも取れるのである。

ベルグソンは、質的印象を取りまとめる操作を自ら受動的とは呼ばないし、しかも自らの感性論を、行動などの能動的な作用に結びつけることはしなかった。その結果、感性のレベルから一気に意識のレベルへと移行した。しかし、ベルグソンと違い、ドゥルーズは感性的対象を反復に制限した一方、感性の働きを縮約として、意識をあらゆる有機的組織がもつ観照的精神にまで拡張し、能動的作用を行動以上のものに拡張したのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ドゥルーズの感性論における反復と旋律―『差異と反復』における「縮約」と反復について―

 

上に紹介の論文著者 織田 理史 氏は、ドゥルーズが旋律を感性的なレベルで否定したことで、反復の契機となる対象の継起を記号化することができるようになり、それによって感性的なレベルと有機的なレベル一般を連続的に繋げることができるようになったと説明しています。

この記号化の操作は、時間論と感性論を結びつけることも可能にします。つまり、ドゥルーズは旋律を感性的なレベルで可能にしなかった代わりに、記号化によって反復から差異を抽出し、それら差異を時間の次元で展開することで、新しい感性論を構築したのです。

 

言語学者のウォルター・J・オングが提唱した「声の文化」「文字の文化」という分類がありますが、「声の文化」がまずあって「文字の文化」へと移行する流れにオノマトペも関連しているでしょう。

また声の文化とオノマトペは、人間だけでなく鳥類や他の動物の言語とも深くかかわっていて、動物言語の多くは声の文化とオノマトペの段階ですが、ゴリラ、チンパンジーやイルカなどが文字・記号を理解することはよく知られています。

「小鳥のさえずり」から「クジラの歌」まで。【動物言語学】で、虫や鳥、獣の言葉を研究!

 

ファスト・マッピング」も犬やサルなどの高等動物にも見られる能力です。「ファスト・マッピング」とは子どもが初めて聞いた単語の意味を、文脈や状況から推測して記憶する能力のことですが、

子どもが「これはワニだよ」と言われたときに、ワニという単語とワニという動物の姿を結びつけるためには、左半球の一次聴覚野やブローカ野などの言語処理領域と、右半球の一次視覚野や下側頭葉などの視覚的・空間的処理領域とが連動しなければなりません。

このような左右半球間の連動は、大脳梁と呼ばれる神経線維束によって可能になります。大脳梁は、左右半球の神経細胞を相互につなぐ役割を果たします。

実際に、ファスト・マッピングを測定する課題を行った際には、左右半球間の神経活動の同期性が高まることがfMRIやMEGなどの脳機能イメージング技術で観察されています 。また、大脳梁が欠損した人や切除された人では、ファスト・マッピング能力が低下することも報告されています。

 

では人間と動物の言語的思考の差異は何か?そこには根本的な差異があるのではないか?ということですが、おそらくそこには三つの要素があると考えられます。それは「アブダクション」と「記号の転移性」「再帰的併合操作」の三つです。

〇【論文】 コトバの種特有性 ―現代理論言語学の射程―

 

チョムスキーは、再帰的併合操作が人間言語に固有であると主張しました。一方、パースは、アブダクションが人間思考に固有であると主張しました。

そして「アブダクション、記号の転移性、再帰的併合操作」の三つの元になるものが「創造性」です。それは「虚」を上手く使って認識を拡張するヒトの能力であり、「実」の有限性を超越する切り離し、分離の作用をもたらします。「私」もその拡張の結果に創造された自我意識であり、

「私」はロゴス界に生じた「虚」。記号によって類型化された意味世界を共有することによって「他者」とコミュニケーションを可能にしている。しかし同時にそれは存在から分離された「虚」ゆえに、常に実存それ自体を見失う、という矛盾状態を生み出す。よって人間は矛盾的自己同一性を生きている。

ゆえに人間には哲学が生じるが、そもそも言葉なんてものを生まなければ哲学もなかった。動物は哲学しない。動物には矛盾がないから。