創造性 カオスとCQ

 

山口 めろんさんがTEPPEN 2018年で初優勝でしたね。テレビの画面を見ずに音だけ聴いていたのですが、この方のピアノはスーッと伝わってきて響きます。これは今回は行くかなぁと感じました、そして結果はギリの差で初優勝!おめでとうございマスクメロン(笑)

個人的には前回優勝の「憑依型」の杉浦みずきさんのピアノも好みなんですが、今回は山口 めろんさんのピアノが良かったです。

今回の記事でようやく昨年下書き状態で放置していた記事が全部編集完了し更新できました。やっとこさですね。今後しばらく冬眠します。

私は過剰なポジティブ信仰もナンセンスだとは思いますが過剰にネガティブなのもつまらないなぁと思います。

一回限りの人生、他者がそれをどう生きるかはそれぞれでしょうが、私は自身の人生を何とか工夫して可能性を目指して面白く生きてやろうと思っています。

ではまず曲♪

 

 

ico05-005 いまのように世の中が混沌としていると、「身の丈に合った生き方をすればいい」と考えたくなる気持ちもわかります。

でも私は、いまの自分を基準にせず、「背伸び」をすることをお勧めします。そうすることで、次第にそれが「身の丈」になっていくんです。  ≪華道家/假屋崎省吾≫

 

最初から決めつけてあまりに結果や限界を想定・設定し過ぎてそれに合わせてくと、予言の自己成就によって、どんどん縮こまった人生になる確率を高めるでしょう。

とはいえあまり肥大化したものは病的になる可能性もありますし、背伸びし過ぎても長続きしませんので、「少し背伸びをする」というくらいが丁度いい、という意味ですね。

どんな色、どんな音にもそれ特有の存在感があり、それ自体の存在の表現の一形態に過ぎない。雑音も創造的に聴くなら実に豊かで面白い、と私は思います。

 

 

去年、「東京ブラックホール」というNHKの番組がありましたが、「戦後の東京」というカオス空間は、あらゆるものを飲み込み揺らぎ続ける力の世界であり、

無規制状態に近い闇市のカオスの中で、ヒト・モノ・カネをのみ込みながら、「東京」なる複雑系は生き物のように自己組織化し、そしてカオスは統合され創造昇華され成長していきました。

「何が生まれてくるかわからない」ような創造的実験場の中で、現在の日本の土台をつくるような自己組織化が生じてきたわけです。

統合された「結果側」から見れば、闇市のカオスは否定的な状態でしょうが、「結果を生み出した側」から見れば、統合され固定化された状態は「創造性を失った状態」なんですね。

現代の大企業がガチガチに固まって創造性を失って徐々に崩壊していくように、今の日本は過去の遺産で食いつないでいただけで、賞味期限が限界に近づいてきている過渡期なんでしょうね。

何かを「生みだす」ための力学と、「生み出されたもの」が安定するための力学は同じ質ではないわけです。

創造の側」は挑戦的な姿勢でリスクを負う姿勢なので、維持・管理の側から見れば負の印象の方が強まり、抑圧的な力を受けやすくなります。

 

ico05-005 積極的にリスクを負うことは未来のリスクを最小限にすること』(羽生善治)

 

⇒ 「知識と経験を捨てろ」羽生善治が語る30代・40代の“強み”の活かし方

 

羽生さん本当に凄いですね、もう40代後半ですか、クリエイティブな方は若々しい人が多く、見た目からだと年齢不詳的な感じの方が多いです。見た目は若くてもこういう人の言葉って凄く深く面白いです。

脳の若さは見た目の若さとも関連し、ドーパミンの働きとも関連があると言われています。充実し常に生き生きとした揺らぎに満ちた心を持っている状態とも関連しています。

若さとはいっても色々あり、例えば美魔女的な肉体美というのとクリエイティブな若さは質が違います。

そして羽生善治さんのような天才の話は、飛び抜けた一部の人の特殊な次元の話であって、一般人である我々には何の関係もない、ということはなく、関係があります。

羽生善治さんも最初は将棋を指す遊びからのスタートで、「近所の子にも全く勝てなかった」そんなレベルからはじまった同じひとりの少年だったわけです。

ですが羽生善治さんほどの天才の領域に達した人ですら、型を破り続けていく挑戦をし続けていくことなしには勝てないのです。

今の日本も同じですね、型の次元は相対的に高い国ではあるけど、かつての発展途上国はどんどん追い上げてきています。型を破る創造性なしにはいずれ追い抜かれていくでしょう。

というよりも「部分的」にはもう抜かれています。かつて日本をリードし世界でもトップクラスだった企業もどんどん相対的に落ちてきています。

 

 

ico05-005 「芸術とは盗むことだ」 パブロ・ピカソ

ico05-005 真実の追求は、誰かが以前に信じていた全ての“真実”の疑いから始まる。(ニーチェ)

 

例えば中国の深センのような「場」ではそのバランスが真逆であるために、次々と新しい創造性が溢れ出てきます。

中国の深センの発展も、最初は「外部のもの」を真似る・パクるからスタートし、発展前のかつての日本のように笑われていましたが、競争の中で相対化されながら、盗んだものをより優れたものへと変化させてどんどん加速していくわけです。

ブラックホールの中であらゆるものが混じり、壮大な実験が行われそしてカオスの中で新たなるものが吐き出される、生物の進化もそうで、原核細胞の進化は、別のものを外から取り込み共生し、そらの総合力で真核細胞へと発達していきます。

それは善とか悪とか正しいとか間違っているとかを超えた生命の適応への試行錯誤であり、可能性の追求です。

人間の身体は本当のオリジナルではありません。様々な生命体の合体ロボのような総合生命体、生命がクリエイティブ化したものなんです。

ミトコンドリア葉緑体もその元は「外から取り込まれたもの」であり、これらの組み合わせによって細胞は外界に高度に適応したわけですね。

「取り込まれた」というと「取り込んだ側」の一方的なメリットにも聞こえますが、これは「取り込まれもの」にもメリットがあったから「取り込まれた」のです。

嫌気性の原核細胞にとっては酸素は猛毒でした。当時の地球には酸素はほとんどなかったために適応的でしたが、シアノバクテリア(藍藻)の出現によって酸素が放出されるようになると、非適応的となり、多くが死滅し、一部は深海や地下に逃れた。

文明の発達もこれに似ていて、国という原核細胞内に、外部から取り込んだものを統合し相互補完的にそれぞれが機能することで、全体として複雑化・巨大化した真核細胞化した国となり、

かつて原核細胞状態の国では出来なかったことが出来るようになる。パワー・スピード・対応力全てがアップし、適応力は高まり、進化のスピードは加速し全てが各段に変化していくわけです。

中国の発展は日本よりも遅れて来たために、原核細胞に取り込む「外側のもの」は既にかなり進歩したものであり、それらを貪欲にガンガン取り入れて進化・適応をしていくため、

日本が過去に確立したモデルよりもより新しいモデル、「より今の世界に適応的なモデル」を生み出しつつあるのです。

またどのように社会問題を解決してきたか、の前例は既に東西の先進国という沢山の生きた実例、そしてそれ解決するための方法や技術も既にあるから、早いんですね。

中国は善も悪も飲み込んで、まるで壮大な実験を行っているかのような創造の力が溢れています。当然このようなカオスは影も光も濃くなるため、輝きと対照的に闇も巨大で、

かつての日本の創造の正負のパワーを両方とも何倍にも高めたような「場」になっていますね。人口が多く経済のスケールも大きいので全体パワーは凄いですが、その質だけをみるならば、先進国は多かれ少なかれみな過去に経験してきたものです。

生み出される創造の輝きばかりをみてそれが生む歪みや影をみないままでは、やがてはとてつもなく大きな負の現象の爆発に繋がっていくでしょう。

中国の物質面での創造性は凄いものはありますが、人間・社会というものは物質的なものだけで成り立っていいるのではありません。

物質面以外の他の分野の創造性も高まってくると、アジアを本当の意味でリードできる面白い国になる可能性もあるでしょうが、中国の社会システムでは抑えつけられる構造性なので、アメリカのような創造性の昇華は難しいでしょう。

 

 

ico05-005 私には特別な才能などありません。ただ、ものすごく好奇心が強いだけです。(アインシュタイン)

 

「知識」と「経験」の違いを見事に表現したイラストが物語る、クリエイティブ思考の本質とは? より引用抜粋

科学的思考とは、つながりを構築することである

科学の分野でも、知識の点と点をつなぐことは重要なようです。ケンブリッジ大学のW.I.B. ベバリッジ教授は、著書「The Art of Scientific Investigation」において、

科学者として成功を収めるのは、「幅広い興味を持つ人が多い」と述べています。そのような興味が、オリジナリティにつながるのです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「知識」と「経験」の違いを見事に表現したイラストが物語る、クリエイティブ思考の本質とは?

 

クリエイターは「完全なオリジナルなどない」ということを知っています。そして一見自分で考えたつもりの考えや言葉でも、そのベース(無意識)は「自分以外のもの」で形作られ枠組まれてもいるんですね。

人は個の遺伝子、身体、生まれ育った場所と生きてきた経験に条件付けられるように、知識や情報に条件付けられ、文化や観念、時代のミームに無意識的に条件付けられています。

どのような表現であれ、無意識の次元まで含めるなら「それらの中での組み合わせに過ぎず、完全な意味でのゼロから新しく生まれたわけではない」、ということですね。

 

創造性の初期段階では、それがどう進むとかどれが最も良いか悪いかとか把握できないものなんです、だからどんどん試していくしかないわけです。

何がどう化学反応を起こすかはやってみなければわからない、それを怖れないことが大事です。創造性は大人や先生の理屈の範囲を超えているので、

普通の大人の意見はあまり参考にならないことが多く、少し変わった人とか、創造的に生きている大人の方が参考になることが多いのですが、

そういうものが生き生きと躍動している大人の方が数は少ないので、日常的には大人の干渉は「邪魔」になることも多いのです。

そして芸術家やクリエーターの一部には、誰かに教えられたわけでもなく自発的に「創造的退行」を使い、無意識の力を引き出す人がしばしば見受けられます。

通常の発想を超えた「ひらめき」や、強いCQを維持することを、誰に教えられたわけでもなく感覚的に知っているわけですね。

 

 

ニーチェは内外の世界そのものを芸術的に変容していく創造性と共にあろうとした。

ニーチェのいう「三段の変化」は「守・破・離」にもたとえられますね、まず「ラクダ」に表される「型」の段階、それを破ってオンリーワンになっていく「破の過程」=「獅子」の段階に進み、

そして「離」=「赤子」、という流れです。

型を破るとはいっても、忘れるとはいっても、基本があってのこと、基本も土台も知識も経験も全くない人が、ただの思い込みで我流に陥るのは次元の低い「破」・「離」であり、

高い次元の型を破るからこそ高い次元での「破」・「離」になるわけですね、ピカソが型を崩すから凄い次元にはなっても、

子供の絵や素人の落書きがピカソにはならないように、高い技術の次元で型を崩していくから「型破り」はクリエイティブなものになる。

 

ico05-005 未熟な詩人はまねるが、熟練した詩人は盗む。無能な詩人は盗んだものを壊すが、有能な詩人はより優れたもの、少なくとも違うものへと変える。

つまるところ、有能な詩人は、盗んだものを盗む前とはまったく異なる、独特な雰囲気に変えてしまうのだ   (T.S.エリオット)

 

 

ニーチェのいう「三段の変化」は、赤子=「創造的退行」=CQによって新たな創造へと向かう「創造・維持・破壊」の永劫回帰ですね。これはたとえであって物理学的な世界を語ったものではありませんが、

ニーチェが、「永劫回帰」をたまたまその当時に出てきた「熱力学の第1法則」に結びつけて説明しようとするところは、疑似科学手法と変わらないやり方で、

そういう余計なことを言うから揚げ足とられて反論されるわけですが、ニーチェ本人は「そんなことどうでもいい」わけです(笑)

まぁニーチェがその理屈でこじつけるのであれば、少しこちらも理屈で返してみると、すぐ後に発見された熱力学の第2法則・エントロピーの法則からすれば、物理学的な意味では「永劫回帰」はあり得ない、となる。

熱力学のエントロピー増大は閉鎖系での法則であり、開放系ではエントロピーが減少することがあるわけです。物質は閉鎖系でも生命は開放系です。(開放系の内部では熱的に非平衡な状態)

地球は物質ですが、熱源である太陽からのエネルギーを外部から供給されつつ地球外に放射もしていますので、地球は開放系といえます。

 

◇ 関連外部サイト記事の紹介

〇 なぜ時間は一方向にしか進まないのか? 東大が解明に向け前進~量子力学から熱力学第二法則の導出に成功

地球は閉鎖系か? 開放系か? 熱力学と進化論を巡る議論の誤解

熱力学第二法則が進化論を否定するって本当か?

 

ですがそういう事実性は、「だからどうした?」がニーチェであり、そいういう指摘には意味がないんですね。「永劫回帰」は科学的な事実とは異なり、「それを事実として考えてみる」こと自体に意味がある。

殆どの人は物凄く気持ち悪いはずなんですよ、「永劫回帰」の世界は。

この気持ち悪さを事実だと設定すると、少しでもいい現実にしようと思うわけです。こんな人生が永遠にリピートされるなら、とにかくどんどん今から創造的にポジティブに変化していこう、

「私が私の人生の永遠のリピーターになるには、私の人生を心底肯定できる何かに変容しなきゃ苦痛でしかない」、となるわけです。

瞬間瞬間を生き創造的に変化していくことでしか、「永遠のオートリバース」の気持ち悪さには耐えられない、「永劫回帰」は「そう思う」ことで変化を引きおこす物語効果があるわけですね。

ニーチェは「守・破・離」の「破」のカリスマで、時代のイノベーションリーダー的な役割でもあったと思いますね。

 

 

「黒字企業が消えていく ~自主廃業3万社の衝撃~」より引用抜粋

(前略)
「景気回復」という指摘の一方でいま、中小企業の「自主廃業」が相次ぎ、その数は倒産件数の3倍近くに及び、高止まりが続いている。

黒字経営の健全企業も多く、一社の廃業が連鎖を呼んで地域経済沈没の引き金となる事態も生じている。背景にあるのは、ますます「事業承継」が難しくなっている現実だ。

健全経営しているだけに、経営者が「個人保証」や「債務」といった自社の“弱み”を抱え込む傾向が強く、

信頼できる相談相手や情報窓口がない、長期の技術改良といった暗黙知(ノウハウ)を資産化できていないなどの理由も相まって、M&Aやファンドの利用も進まない状況だ。

国の支援センター代表 「そもそも(中小企業の)経営は苦しい、魅力がない、誰も継がないと思い込んでしまう。」

日本経済を下支えし、地域の活力ともなっている中小企業。どうしたら次の世代にその強みを引き継ぐことができるのか。解決の糸口を探ります。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 黒字企業が消えていく ~自主廃業3万社の衝撃~

 

自身の持っているノウハウや創造性・可能性・価値を明確に把握していないという現実は、当人及び社会の双方にあります。誰も気づきも見向きもしなかったその価値に、他国の企業が素早く目をつけ買い取り技術が吸収され奪われていく、

実績もあり、もっと評価されるべき創造的な仕事が「場」から消え、「大きな型」だけに全体が収束していくことで、ますます動的で活力に満ちたゆらぎの運動性を社会は失い、そして硬直化した統合状態に全体が陥り身動きがとれなくなっていくわけです。

次の世代、下の人々を育て、価値を継承していく、そして「守る」だけでなく「創造」していく、時代の状況・変化に合わせてシステムを、「人々が生きやすい形」に更新していくことが必要でしょう。

 

社会がこれから発展していくような国では創造性は活力に満ちていますが、

日本社会のように循環が停滞しシステムの更新が遅れ、上部の者は自己保身やら過去のやり方に固執し、既得権益に集中して富が還元される巨大システムを社会全体に強固に構築した後に、

その環境下で創造的なことを「後ろ盾がない個人」が形にするには、力関係が圧倒的に違う中での競争であるため、パワーも工夫も努力も創造性も全てが高いレベルで必要です。

 

しかしネガティブな面だけでなく、様々な技術が発達した現代では、上手く組み合わせて創造性が昇華された場合は驚異的で、昔は「天は二物を与えない」などと言われていたのに、現代は「天は三物も四物も与える」というような若者も沢山出てきます。

遺伝だけで全てが決まっているのではなく、創造性以外の他の要素に恵まている時代でもあるわけです。だから昔のように何かを突出させるために何かを過度に犠牲にしなくても、何かをしつつ同時に他のことも補足出来る、ともいえます。

今の方が時間的・空間的・技術的・関係的な制約から昔よりはずっと解放されてもいるから、それを上手く生かせる人とそうでない人は昔よりも凄い格差が生まれます。たかだか二十代の時点で怪物と小人くらいの差になるんですね。

この「差」の感覚もまた生きづらさのひとつでしょう。皆が同じように苦しんでいる時代は苦しくとも人はその苦しさを受け入れやすいし、努力で追いつける差なら頑張りもする、でもどうあがいても追いつけない差がある時、追いつくために頑張る気は失せるわけです。

人は実際の量的感覚だけなく「比較」で苦しむ社会的生物なんですね。

苦しんでいる人と楽しんでいる人、人生充実しどんどん発展している人と、何も変わらない中で不満だらけで生きている人に差が大きい時、苦痛は相対的に強く感じるでしょう。

自身の持って生まれたものをどう生かすのか、その生かし方が創造的であるかないか、そして様々な要素が「それを補足する関係性」になっているかどうか、

単体としての実力だけでなく、能力や技術を社会の中で生かしていくには、様々な総合的な力・協力が必要で、そういうものを組み合わせて結び付けていく力もまた能力のひとつです。

 

ルールとかマナーとか社会生活を送る上で基本的な約束事は誰にとっても大事ですが、創造性に関しては拘束性で縛るのではなく、大らかに見守り生かす方向性、協力的な場の方がずっと伸びていくんです。

 

ですが、進歩したものだけが素晴らしくて古いものは全部無意味で無価値、というような極端に合理的な思考も浅はかです。「長い歴史の中で生き残ってきたもの」を、合理性や効率のみで軽々しく否定するものではない、と思いますね。

「長い歴史の中で生き残ってきたもの」には、短いスパンでの合理的思考だけでは見えない価値や意味、存在理由があることがあり、

どれだけ情報インフラが整い、情報的な広がりや可能性の幅が広がり、人間にとってはミーム的進化が生物学的進化よりも圧倒的に早く強く作用していようとも、

生命の「本当に深いもの」は常に存在しなくならないんですね。「地上の生き物としての人間」、生命・存在のベースはなくならないのです。

その深いものに根差しているものを打ち消して、「短いスパンで合理化された社会」は、一見すると最も適応的で進化的に思えますが、

社会や人間が発展的な部分だけで構成されているという思い込みは、部分的には事実ですが、それに過剰に囚われていると大きな落とし穴に陥るでしょう。

そのような社会を長いスパンで見たとき、「生物学的にそして文明としても、大きな揺らぎには耐えられない脆弱で非適応的な社会」、というパラドックス構造にもなっているからです。

無駄のない対応や変化の速さへの技術的な適応という面だけ見れば、一見すると合理化された社会の方が変化に強いように感じますが、

どんなに社会が変わっても、そこに暮らしているのは、長い地球の歴史の中で進化し自然界に生かされている「生き物の一種」に過ぎないんです。

高度に技術化・合理化され複雑化した社会への同化と依存だけでは、それが大きく崩れたとき、人々は巨大な虚無の中に一気に巻き込まれていきます。

文明の発展は発展として、もっとシンプルな生き物としてのヒトの状態でも生きていけるような素朴な土台部は、ずっと残しておかなくてはいけません。

 

 

知識や技術をどう使うのかそれがどう生かされるのかは、想像力・創造性、そして心・精神の質・状態によって全く異なるものになるから、

知識よりもまずそこがとても大事な部分だ、原動力なんだ、とアインシュタインの言いたいことはそういうところだと私は感じますね。

やはり専門家・科学者に収まるような人ではなく、突出したクリエーター、芸術家でもあるユニークな人なんでしょうね。こういう科学者が私はとても好きです。感性が豊かなんですね、その土台に上に理論が来る、

感性の豊かさに支えられてこそ理性も生きる、だから理屈以上の何かが彼からは自然に伝わってくるんです。

 

「アインシュタイン」の名言

ico05-005 私の学習を妨げた唯一のものは、私が受けた教育である。

ico05-005 正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だ。

ico05-005 ある年齢を過ぎたら、読書は精神をクリエイティブな探求から遠ざける。本をたくさん読みすぎて、自分自身の脳を使っていない人は、怠惰な思考習慣に陥る。

 

ではラストに「ヨルシカ」の曲で「言って」のMusic Videoを紹介し記事の終わりとします。絵も構成も曲もお気に入りの動画です♪。

 

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