無意識と犯罪の心理学 自己の統合へ向けて
境界性・解離・神経症の親と社会の【後編】です。
犯罪はその社会で相対的に貧しい人・劣悪な家庭環境に生まれた人に多いという統計から、貧しさや家庭環境が犯罪の原因であるかのようにいう人がよくいます。確かにそれが原因のひとつにもなることはありますが、
酷い親や家庭環境に育ったり貧乏であっても、全く人格異常にならないどころか素晴らしい人間性を持っている人もいます。また恵まれた家庭に育って親が心身共に健全な教育をしても、人格が変異することもあるのです。
人が個人的なものであるのと同時に集合的なものでもある以上、家庭も社会もどちらの干渉も子供の精神に作用しているからです。
また遺伝的な先天的な個体差にも強弱や能力の差異があるので、家族の関係だけが、そして社会と個人の関係だけが全てを決めているわけではありません。
よく心ない人達がこんなことを言いますね、劣悪な家庭環境や貧乏な家に生まれたから犯罪とか人格異常とか
になるんだ、そういう環境に生まれてくる奴はろくでもない。そういう環境こそ心の病気の巣窟だ。
私はそうは思いませんね、そういう心ない人達は社会の無意識と同化しています。それは「思慮もなく人に優劣をつけたがる潜在的な悪意」です。
「BLOGOS」より引用抜粋
「誰だって犯罪者になりうるんだから、社会はもっと寛容であるべきなんじゃなかろうか。」
一般刑法犯の再犯率は43.8%と過去最悪
人は多かれ少なかれ、間違いを必ず犯すものだ。だから過ちを犯した人に立ち直るチャンスをどれだけ与えられるか、ということは社会の寛容さを表す一つの指標になりうるように思う。
では我が国はどうなのかということを見てみると、平成24年度犯罪白書によると一般刑法犯の再犯率は43.8%と過去最悪を記録し15年連続で悪化しているそうだ。
その大きな原因の一つに、多くの受刑者が出所後に戻るところが無く、就業の機会も与えられず、経済的に困窮して「生きるために」再び 犯罪に手を染めざるを得なくなる、という悪循環の構造がある。そういう意味では我が国は決して寛容な社会とは言えなさそうだ。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ http://blogos.com/article/63968/
社会の無意識の「見えない悪」
貧しい人・社会的な弱者を馬鹿にしイジメたり、対等の存在ではなく無価値のように扱い、卑しく低いもののように扱うことが、社会の無意識の「見えない悪」のひとつの否定的作用です。
この社会の無意識の「見えない悪」こそが犯罪の本当の原因のひとつです。(犯罪の種類によっては他の動機ももちろんあります)では何故社会はそこを見ないのでしょうか?
それは前回書いたように、世界を本当に悪くしているのは負の代償を請け負わされている目に見える「下位の悪」ではなくて、 その源流で自らは手を汚さないまま自己肥大している「上位の悪」、つまり「目に見えない集団の無意識に内在化する悪」なのです。
「上位の悪」というのは悪には見えません。何故なら集団の負は、下位の者が背負わされ処理させられているからです。ほぼ一方的にそうさせられています。
権威・権力・支配力・立場・優位性が公的に与えられている時、人には「見えない悪」をそのように行使することが可能なのです。
「上位の悪」とういうのは自身の立ち位置を「善」「高次の精神」「光」「規範」「理想」「真理」「民意」「教育」などのように魅せるのが上手いですね。そしてそういう概念を多用します。
そのような人々は「正しさ・真理・正義」「なすべきこと」というものを他者に押し付けるのが大好きです。「私があなたを正しい道に導く」的な、自己肥大が「神化」してしまった救いのない輩たちです。
自己を「神化」するのは他者を「神化」するのと同じで、自己完結した思考停止であり、自らの認識と成長と学びの停止です。
子供たちが泣き、苦しみ、そして自らが生きていることに疑問を抱くような機能不全の環境は、「支配的でコントロールばかりをする愛なき親」によって作り出されます。
そしてその不健全な親に見られる自己愛の中身は「劣等意識と優越意識」の解離と激しい依存性です。 その源流は集合的な無意識の中の「影」であり、社会的な負の影響力で強められた破壊性でもあるのです。
だからそれは「社会の無意識」の働きも深く関係しているんですね。それが理解できるならば、社会の在り方が個人の在り方にも投影されるということの意味がわかり、個人だけに全てを負わせることがいかに一方的なものかがわかるでしょう。
「あなたなんか生まれなければよかった」というような冷たい言葉が親から子へ発される、あるいはそれと同等の意味を持つ愛情の不在や暴力が存在します。
ですが、社会の無意識の悪意もその子にそう言っていませんか?「お前みたいな貧乏で劣悪な家庭で生まれた底辺なんてどうせまともな奴にはならないゴミだし迷惑だ」と。
そういう言葉をネットではよく見ますし、現実でも同じ理由でイジメたり見下したり低く扱っていることは多々ありますね。それは「あなたなんか生まれなければよかった」とみんなで言っていることと同じなわけですよ。
そういう否定的な集合的想念は、無意識に負の影響を与えます。そしてその悪意の元が集合的な無意識の「影」なんですね。
だから子供を直接追いつめている者が主に親でも、その背後には「社会の無意識」からの投影の別の否定的な力学も働いているんですね。そこを人は見ないのです。自分はそんな酷くない、と思いたいのでしょう。
ですが以下のリンク先の記事を読めば、親からも社会からも「望まれなかった」子を物理的に生まれないよう(妊娠中絶)にした結果どうなったがわかります。悲しいですがこれが真実ですね。
「親からも社会からも望まれなかった」「親からも社会からもひとりの人間存在として見てもらえなかった」 殆どシンプルにそれだけの理由で、人は自我を見失い、
そして公私の負の干渉の心理的な影響にとらわれてしまうのです。人の心は公私に支えられてやっとひとつの調和的な人格に統合化されるものです。
その支えのどちらもが不足し過ぎ、そしてそのどちらもが否定的な働きかけばかりだった、シンプルにただそれだけなのです。
(※ 犯罪にも種類がいろいろあるので、種類によっては全てがこの心理構造だけで起きているわけではありません)
「データえっせい」 より引用抜粋
「家庭環境が非行に及ぼす影響の年齢比較」
年少の子どもほど,家庭環境が非行に及ぼす影響が相対的に強いことが知られます。年少少年が非行化する確率は絶対水準としては低いのですが,
自我が未熟である故か,環境による影響を被りやすい,という事実を認識すべきかと思います。
こういう情報を提供するのは,親がいない家庭の子どもはキケンだなどというレッテル貼りをするためではありません。統計的な傾向をもとに支援や配慮の重点層を検出し,実践に役立てていただきたい,という願いからです。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
境界性・解離・神経症の親と社会
「その親にとって都合が良いだけ」の不自然で抑圧的な力関係がずっと改善されないことで、子供の無意識下に負の形状記憶(スキーマの一種)が形成されます。
そして時にそれは一生彼らを苦しめるように、現代社会は「病んでいる人々と変わらない意識の構造を持つ心理
的な力学」が用いられ、その力で支配・コントロールするような否定的な部分があるからこそ、
本来は精神的に健康な人や心が純粋できれいな人ほど生きることに苦痛・疑問を感じ、そして悩み続け、そしてそのことがさらに負の形状記憶を強化し、否定的な人生観となっていくのです。
本来は精神的に健康な人や心が純粋できれいな人が、親に歪められ社会に歪められ、そして最終的に心・精神がおかしくなって自暴自棄にでもなったら、自殺するか、あるいは負の感情を抑えきれず表現してしまい、最後は公的にみんなから吊るしあげられるのです。
そんな理不尽な不毛な場所で自我は自然に統合されるでしょうか?おそらく自我が自然に統合されるような幸運な人は凄く少ないでしょう。 ですがそれは本来おかしな話です。
何故なら本来は、内外に健全に調和的に働きかければ、先天的な異常がない殆どの人は自然にそうなるように出来ているからです。
つまり生まれてきたこの世界が「不調和」の投影ばかりになっているから、ひらたくいうと、健やかに育った人が中心になって作った社会ではないからそうなるのです。
本質が不調和であるような「自己肥大の精神達」が衝突・葛藤しながらイビツにバランスをとって「一応何とかまとまる形」を強引に作り、その総合運動の真っただ中に生まれ、今生きているからなのです。
集合的な無意識の負の領域をハッキリと見た人は、この社会が地獄そのもののように映るでしょうし、社会で地獄の苦しみを感じる人たちが、社会で天国の喜びを味わう人の生贄なんだということにも気づくでしょう。
仏教でいう六道輪廻は、人間の集合的無意識から投影された象徴的なものですね。そして天国と地獄が相互依存で成り立っていることを知るなら、そのどちらにも惹かれないはずです。
光を影が支え、そして「光あるから影を作りだす」その循環の輪に気づけず、光や影に一体化しからめとられる心。世界の優劣が相互に依存し合い生成されては循環することに気づかず、その優劣に一体化する心理の無限ループの姿そのものです。
解離・自己肥大から統合へ
親を憎む人は、最初は「潜在的に」は人間すべてを憎みます。私が若い頃そうでしたからよくわかります。憎んでいるのは親でも、一番身近な人間を愛せないわけだから、遠い人はもっと愛せません。
それは、「自分を守り健全に成長させるべき親」と言う人間存在に対して信頼が持てないから、全ての人間への不信感が奥底に生まれるのです。
その後は少しずつ変わる人もいれば、変わらない人もいるでしょう。私の場合は病気の発症と解消の過程でそれは徐々に変わっていきました。
無意識の運動に注意深くあるのならば、個人の闇は個人の光によって作られることを知り、 同時に集合的な闇も集合的な光によって作られることを知り、
そしてあなたの闇が誰かの光を支え、あなた光が誰かの闇に支えられているものであることも知るでしょう。
心を一つに統合するためには、無意識の中に存在するさまざまな要素を積極的に観察して受容し、自己・人格に取り込むことが必要です。
ですがその無意識の中には、あなたが認めたくない見たくない、あるいは「ぎょっとするほどの異様なもの」など負のものが存在します。
多くの人は、幼少期から知らない内に、さまざまな負の要素を抑圧したり、「小さな解離」を頻繁に経験しています。抑圧とは、受け入れられないもの・受け入れたくない知覚情報を無意識下に封じ込めることです。
解離とは、人格の統合のちょうど逆のことをやっています。つまり「人格の解体」なのです。受け入れられない現実感覚を人格から切り離すこと、ですね。
そして無意識に抑圧され、解離したものは、不調和の形状記憶となって自分の中から自分を攻撃する「内なる敵」のようになっていくわけです。
この無意識の構造を全く自覚せずに、本人の「内なる敵」を他者である子供にそのまま投影することを「境界性の親」はやっているのです。そして「内なる敵」は子供に転移し、今度は子供の心の中で攻撃が始まるのです。
それらの負のものを受容し統合していくことは、とても大きな試練にもなるでしょう。ですがあなたの「光」と「影」がひとつの人格に統合されることが、自己肥大と負の連鎖を終わらせる根本的な解決なのです。