「現実・正常」と「幻覚・異常」の境界線とは? 

 

 

今回は前回の記事とも関連しますが、「現実・正常」と「幻覚・異常」境界線、「病と健全、狂気と正常の境とは?」をテーマに記事を書いています。

 

まず「現実」とは一体何でしょうか?真実とは何でしょうか?  それを非常に明確に定義する池谷裕二 氏の記事を以下に引用・紹介しています。「脳科学的な現実」の一部を具体的に感じることが出来る内容です。

 

池谷裕二 1970年、静岡県藤枝市生まれ。薬学博士。現在、東京大学大学院薬学系研究科 准教授。脳研究者。

 

『「世界」は脳の中で作られる。脳研究が明らかにした、映画「マトリックス」のような事実。』より引用抜粋

(前略)
中心の黒い+印を凝視してください。何か変化が起こりませんか。緑色の斑点がグルグルと回っているのが見えてきますね。ありもしない、緑色が。ということは、今、みなさんの脳の中の緑色に反応する緑ニューロンも活動したというわけです。

ニューロンが活動しさえすれば、ないものだって見えちゃう。「存在」してしまうわけです。
(中略)
+印をずっと見続けてください。じっと、視線を固定して……。15秒くらい凝を続けると何か起こりませんか。

(画像をクリックしてください)

pink

画像引用元

⇒ http://bluebacks.kodansha.co.jp/infopage/brain_move01.html

(中略)

ピンク色の斑点が全部消えてしまって、緑色だけが回っている。できました? じっと我慢して、+印だけを見続けないと起こりませんよ。
(中略)
ピンク色ニューロンが活動をやめてしまった。すると、目の前から消えて、見えなくなっちゃう。なかったことになってしまうのです。

つまり、外界にピンク色が存在しているかどうか、あるいは、ピンク色が光波として網膜に届いているかどうかは、あまり重要なことではなくて、脳の中のピンク色担当のニューロンが活動するかどうかが、「存在」のあり方、存在するかどうかを決めているということになります。

哲学では「存在とは何ぞや」と、大まじめに考えていますが、大脳生理学的に答えるのであれば、存在とは「存在を感知する脳回路が相応の活動をすること」と、手短に落とし込んでしまってよいと思います。

つまり私は「事実(fact)  」と「真実(truth)」は違うんだということが言いたいのです。

脳の活動こそが事実、つまり、感覚世界のすべてであって、実際の世界である「真実」については、脳は知りえない、いや、脳にとっては知る必要さえなくて、「真実なんてどうでもいい」となるわけです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「世界」は脳の中で作られる。 脳研究が明らかにした、映画「マトリックス」のような事実。

 

 上記のリンク先の記事の続きでは、信愛の情が痛みを和らげる、というような内容の脳科学的実験も紹介されています。

 

池谷裕二 氏は優秀な脳科学者で、脳科学的な世界・存在のリアルは明確で良いのですが、やはり科学は事実に基づく学問であり、それ自体の役割は、「人生に意味や価値を創造するものではない」ということですね。

 

 

病と健全、狂気と正常の境とは?

 

脳は情報処理を無制限にするわけにはいかないので、効率化するために精神的なフィルター的機能でふるいをかけるようにして、「意識するもの・しないもの」を峻別しているのですが、

 

このフィルター的機能が弱まっている状態を「認知的脱抑制」と呼び、心理学の実験では、クリエーティブな人たちと、そうでもないたちのグループの比較で、クリエーティブな人たちの方が認知的脱抑制の傾向がある、と言われます。

 

そして「天才脳」といってもタイプがありますが、それは知能・感性に種類があるからで、そして他の要素として「ワーキングメモリの容量が大きい」こともあげられていますが、天才性が潜在的な状態から具体的な形として顕在化するには「認知的脱抑制」や「ワーキングメモリ」だけでは不十分でしょう。

 

「認知的脱抑制」は情報処理のリミッターを外すわけですが、ただこれだけであれば、単に今まで無意識下で感受されていた膨大な情報が意識に突然上がってくるので、それを制御する能力が低い場合、

 

自我は制御不能で中心性を失い広大な無意識領域に飛ばされ、その膨大な情報に同化した場合は、もうわけもわからずカオス化します。

 

逆に、それらの通常は意識することが出来ない膨大な情報を制御する能力と活用する能力があれば、創造的な働き=天才性の具体的発現につながっていきます。そういう人たちが「ギフテッド」の本来の姿でもあるのでしょう。

 

「ギフテッド」に関しては前回の記事を参考にどうぞ。⇒ 人格形成の立体性 HSP・OE・ ギフテッドと気づきの多重性

 

つまり他の機能が追い付いていない状態での「認知的脱抑制」は危険でもあるわけですね。だから「可能性」は創造と破壊と「紙一重」なのでしょう。

 

というよりも、創造的突破口としての可能性を常に生み出そうとする力は、生命の意志のひとつですね。ですがギフテッドは先天的な感受力・パワーが強いから、最初は、若いうちは特に振幅が激しくアラや違いも目立つ傾向があるのでしょうね。

 

よってそれを周囲・環境・社会が「均一化」への矯正で潰す、ということは実際に多いことでしょう。その結果、創造性は変性して、その一部が「不気味なもの」へと突き進むこともあるのです。

 

頭頂葉の感覚抑制」や「側頭葉の異常」による宗教家の神秘体験、創造的な芸術家たちの仕事、「認知的脱抑制+ワーキングメモリ」の天才的な科学者のような人たち、こういう人々だけがそれを経験しているとは限らないんですね。

 

例えば統合失調症の「認知的脱抑制」状態は、創造的な仕事に繋がる「潜在性」を有している人たち、とも言えるのですが、それだけでは不十分であり、そこから脱線していく場合、「認知的脱抑制」である分だけ大きな脱線の危険性もあるのですね。だからやっぱり「紙一重」と言われるのでしょう。

 

その紙一重を見極め、そのような特性のある人の長所を発現させることは、その人自身にとっても社会にとっても本来とても良いことなんです。

 

障害の基準や定義は一つの尺度に過ぎない

 

過去にも何度か書いてきたことですが、「○○障害」や「機能不」という表現には一般的に否定的な意味合いが感じられますよね、ですがそれが全部悪いとかダメと言う意味ではないですよ、ということを書いてきました。

 

また、様々な定義は一つの角度であり、精神医学や心理学と言うものは集合知のひとつであり、役には立つけども、「人間」を考察する上での唯一絶対的な基準にはなり得ない、という意味のことも過去に書いてきました。

 

一見すると負の状態・環境に見えるものがバネになって通常の人以上の能力やパワーに繋がる人もいれば、その状態が、実はその人の潜在性の高さ・可能性の大きさ故に現段階ではそうなっているだけ、ということもあります。

 

私は、一般的には特殊に見えるものでも、そういう「感性・感受性そのもの」を病気や異常だとは思っていないんですね。

 

じゃあ何が病気なのかというと、それによって体調が酷く悪化したり、心身に大きなバランス異常・不調が起き、日常生活や人間関係にも否定的・破壊的な作用をもたらすような状態、そういうものを病気、あるいは「バランス異常」と言ってるのですね。

 

そしてこの病気、あるいはバランス異常は、一過性のとるに足らないものもあれば、必要・意味があってそうなっているものもあれば、

 

個の気質やパーソナリティ要因が優位で引き起こされているものもあれば、環境との相性、そして様々な力学によって複合的に引き起こされて起きるものもありますので、そこも含めて検証・分析しているわけです。

 

特に日常生活に支障もなく周囲への悪影響もないのであれば、別に問題はないわけで、心身が苦しくてたまらないとか、通常の人間関係があまりに困難で悩んでいるとか、その状態であることがあまりにも心理的負担が大きいような時、

 

そして様々なトラブルを生み出すような場合のみ、何らかの解決を必要とするものでしょう。

 

ですがギフテッドの要素を持つマイノリティタイプは、社会・環境とのカップリングが上手くいかない時、自らを生かせず否定され、さらに「普通の生き方」という世間の束縛・同調圧力に苦しむ人もいると思うんですね。

 

このブログも「同調圧力」やら「イジメ」やら「生きづらさ」のテーマを沢山取り上げているのも、「みなと同じようにしなければない」という拘束的な心理的圧力と、

 

「普通」という「万人の鋳型」へハメこまれることへの違和感が相当に強かったからでしょう(笑)  まぁ今は見つめ方が違うので、それが全てではありません。なので、誰でも同じ一つの角度からのみ考察することは危険でもあり、慎重にならざるを得ません。

 

ですが逆に、それほど重症でもなく、また他の要素でそうなっていた人が、複雑に考えすぎて思い込んでしまった場合、それはそれで心・精神の余計な負担になることがあるでしょうから、なかなか難しいところですね。

 

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