ルサンチマンと虚無社会 ニーチェとフロム
虚無を生むものpart2です。段階的に「虚無」を考察していきますが、このテーマはまだ複数回続きます。虚無を生むものpart1(序章)では、感情バイアスをテーマにざっくりと書きました。⇒ 感情バイアス 虚無を生むものpart1
今回はルサンチマンと「ニーチェの虚無主義」と「フロムの虚無社会の描写」をテーマに記事を書いています。
前回の記事で、2ちゃんねるの「出産は犯罪」というスレを紹介しましたが、このスレの「虚無主義」の心理的力学の一つが、前回書いた、過剰な否定感情バイアスです。
ですがその「過剰な否定感情バイアス」は何故生じたのか?というと、それが今回の記事テーマである「ルサンチマン」であり、「虚無社会」なのですね。
今回はこの二つのキーワードを掘り下げますが、本当はもっと奥にまだ本質的な力学があります。それは次回に書きます。「ルサンチマン」は殆どの方は意味を知っているとは思いますが、「よくわからない」という方のために一応ウィキより説明文として引用しておきます。
ルサンチマン
社会的に強者であれば、嫉妬や反感といった感情に主体的に行動することができるため、フラストレーションを克服することができ、そのため、仮にルサンチマンの状態に陥ったとしても、一時的なものでしかないとされる。
反対に社会的な弱者はルサンチマンから逃れられない。フラストレーションをむしろ肯定し、何もできないことを正当化するようになる。社会的な価値観を否定したり、反転した解釈を行うようになる。こういった自分の陥っている状態を正当化しようとする願望こそ、奴隷精神の最大の特徴であるとする。
こうしたルサンチマンの表れの例として、敵を想定し、その対比として自己の正当性を主張するイデオロギーにある。こういったイデオロギーは、敵が悪の元凶とし、だから反対に自分は道徳的に優れていると主張する。「彼らは悪人だ、従ってわれわれは善人だ」ということになる。
(中略)
さらに、そのルサンチマンの敵が拡大すると、対象が社会全体になる。「世界はどうしようもなく悪によって支配されている。したがってわれわれのほうが世界より優れている」と拡大解釈されるようにもなる。このような状況に至ると人は陰謀論や急進主義、刹那主義を受け入れ易い心理に陥る。
また、人によってはそうした不満以上に「この世界では(自分は)報われない」という厭世観や自己の無力感を持つようになり、放蕩や自殺に至る場合もある。
引用元⇒ ルサンチマン – ウィキペディア
そして「虚無主義」と言えば必ず登場するのがニーチェです。ニーチェは私が十代の頃に読んだので、 もうかなり昔です。ショーペンハウアーよりもニーチェの方が面白かったですね。
初心者の方でもポイントがシンプルにわかるよう簡潔にまとめられているサイトがあったので、そこから引用文を紹介します。サイトの方も下記リンクより参考にどうぞ。
ニーチェの虚無主義
「D ニーチェ」より引用抜粋
【ルサンチマン (怨恨)ressentiment】(『道徳の系譜』)
道徳の根底には、生あるものすべてにある〈権力への意志〉があるが、これは創造のための破壊を伴う必要がある。
弱者はこの力の不足のゆえに主人となれないために内的創造へと向かい、強者の優良と劣悪とからなる〈君主道徳 Herrenmoral〉に対して、道徳的価値概念を作り換えて、
[弱者こそ正しい]という、徳善と罪悪とからなる〈奴隷道徳 Sklavenmoral〉を成立させるが、しかし、それは、弱者の強者・現実に対する〈怨恨〉にすぎないのである。
【虚無主義(ニヒリズム) nihilism】
(中略)すなわち、現実に幻滅した人々は怨恨から理想にすがってペシミズム(厭世感)=《弱きニヒリズム》を抱き、偽善に満ちた奴隷道徳を社会に押しつけるが、これこそ文化を退廃させ、神を殺す仕業なのであり、もはやすがるべき理想もすりきれて「神の死」に至り、時代は、現実にも理想にも幻滅してしまっている。だが、理想をでっちあげるこのプラトン・キリスト教的価値観こそ、そもそも《強きニヒリズム》によってむしろ否定されるべきものなのである。
つまり、《ニヒリズム》とは、最高の価値が価値たることを失うことである。目標が欠けており、「何のために」という問いに対する答えが欠けていることである。
それどころか、むしろその答え以前に、「何のために」という問いそのものが否定されるべきなのであり、ここではもはや[現実以外に何もない]のだ。
そして、この現実への力強きひらきなおりにおいては、人間それぞれが自分自身で決断し、行動していかなければならないのである。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ D ニーチェ
現代社会にも昔の社会にも「虚無」は存在しました。虚無主義(ニヒリズム)というものは、世界と人間の存在には意味はなく、生きる目的や絶対的真理などなく、本質において価値はない、という思想です。
ですが現代社会の虚無主義(ニヒリズム)は、「ルサンチマン」だけでしょうか? それがメインの心理的力学でそうなっている人も実際多いでしょうが、
「近代社会の中で排除されてきたもの」の本質は何でしょうか。その力学は単純に弱者の強者へのアンチテーゼだけでしょうか?
全体主義「的」な虚無社会
“本当の悪は, 平凡な人間が行う悪です.これを,悪の凡庸さと名付けました“
参考PDF ⇒ トータリズム(全体主義)としてのグローバリズム Globalism as Totalitarianism
フロムは思考・感情を含めた「人間の全体性」としての在方の喪失を指摘します。ここには私も深く共感するんですね。
電子技術社会では、人間は本来のありかたを見失う。たとえば、感情と理性が協力して働くことが人間に本来のありかたなのに、電子技術社会では、思考と感情の分離が進む。その結果、思考も感情も正常な機能を失うのだ。
とフロムは語ります。そしてよく引用される文なので知っている方も多いでしょうが、フロムは『愛するということ』の中で、以下のように書いています。
(以下 引用文)
現代資本主義はどんな人間を必要としているだろうか。それは、大人数で円滑に協力しあう人間、飽(あ)くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、ほかからの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。
また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・良心にも服従せず、それでいて命令にはすすんで従い、期待に沿うように行動し、摩擦を起こすことなく社会という機械に自分をすすんではめこむような人間である。
見事なまでの描写です。まるで「社畜」「ハケン」の姿そのものですね。そしてこの 「虚無社会」を「虚無」だと痛感させないための「刺激と麻痺のループのような日常」の描写をしている以下の文も秀逸です。
商品、映像、料理、酒、タバコ、人間、講義、本、映画などを、人びとはかたっぱしから呑(の)みこみ、消費する。世界は、私たちの消費欲を満たすための一つの大きな物体だ。
大きなリンゴ、大きな酒瓶、大きな乳房なのだ。私たちはその乳房にしゃぶりつき、限りない期待を抱き、希望を失わず、それでいて永遠に失望している。
まとめると、「虚無社会」の本質的な機能不全がもたらす、「人間の全体性」としての在り方の喪失をベースに、そして「刺激と麻痺のループのような日常」の中で、無意識化されている「見えない悪」によって抑え込まれた「深く絶望し無気力化した存在」の内奥からの拒絶反応、ということですね。
ですがこれが本質・これが全てという結論なのではありませんし、私はフロムもニーチェも何もかも肯定しているわけではないんです。以下のサイトの記事は今回のテーマに関連が深く、考察も鋭く共感する部分も多いので、ここで引用文を紹介します。
「「自由からの逃走」E・フロム(4)」 より引用抜粋
「Ⅳ.近代人における自由の二面性」
近代人が行動するとき(つまり利己的に)、その関心のもととなっている自我は、「社会的自我(ミード」である。社会的自我は、本質的には個人に対して外から予想される役割によって構成されており、
実際には社会に置かれた人間の社会的機能を、主観的に偽装したものに過ぎない。近代的利己主義とは、真の自我の欲求不満に基づいた「貪欲」であり、その対象は社会的自我である。
近代人は、自我の極端な主張を特徴としているように見えながら、実際には彼の自我は弱められ、全体的自我の一部分に過ぎない知性や意思力によって、他の部分を締め出す結果となっている(→機械的画一化)。
近代人の孤独感,無力感にはさらに拍車が掛かってくる。個人と個人との関係は、直接的な人間的性質を失い、駆け引きと手段の性質を帯びる。競争者同士の関係は相互の人間的な無関心に基づかなければならない。
(中略)
マルクスもフロムも、資本主義の舞台である市場経済を否定する。マルクスは、労働者は失われる物は鉄鎖以外にない、そして賃労働は労働の意義を体験させないから、労働者は自らの労働からも疎外されている、とした。
フロムもこれを受け継ぐ。フロムの思想的背景は、精神分析学を除けば、現象学(あるいわ実存主義)とマルクスの疎外論である。現象学では人間を直感的に、人間を取り巻く付帯的条件をすべて剥ぎ取って、見ようとする。
マルクス主義では、人間は環境の産物であるように言いつつ、その環境の意味をすべて否定的に評価するので結局、無媒介な人間主義になりやすい。(でなければ独裁制になる)
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)引用元⇒ Ⅳ.近代人における自由の二面性
⇒ 虚無を生むものpart3 「社会的自我」と「ありの まま」の病的な分離が生む「虚無」
⇒ 虚無を生むものpart5 理性・知能至上主義と過剰な合理主義の生む「現代の虚無」
全て解したわけではない。
けれども、、、この文面に、自身のルサンチマンからの、反発である、思考を省みることができる。
そして、、、『「深く絶望した無気力な存在」の内奥からの拒絶反応』が、自身の心に住み、そして其処から、の、葛藤、、、と、感情の回復のための ルサンチマン からの思考が自身の中で、肥大化して行かざるをえなかった。と、気が付かされます。
読み返して、自分が抗って来たもの、の、正体が、見えてくる?
名前を付けることが出来る、だけかもしれませんが、腑に落ち、その距離を調節できる今、虚無を脱し、関わりを作り上げていかなければならない事に気が付かされます。