「社会的自我」と「ありのまま」の病的な分離が生む「虚無」 

 

虚無を生むものpart3」です。「虚無」というものを深く見ると、さらにその奥があります。前回までは、主に「社会の中に置かれた個の自我意識に生じる虚無の背景にある力学」を見てきました。

 

part2の記事⇒   ルサンチマンと虚無社会  ニーチェとフロム

 

今回は「社会的自我」と「ありのまま」の病的な分離が生む「虚無」、という角度からの考察です。

 

個の自我意識」とは何でしょうか? 以前にも「自我」に関するテーマを含む記事は幾つか書いていますが、今回は使用する言葉が少し違うのと、考察の角度が少し違います。

 

 

「自然自我」と「社会的な自我」

 

赤ちゃんの頃には「自然自我」という原初的な生物学的な自我が人間に元々あり、「自然自我」は原初的な観念(元型)に枠組まれ、「原初的な観念イメージ」を通して外界の現実と内界の状態をすり合わせしながら、

 

発達過程における内界の変化外界の干渉による「内外差異」で生じる葛藤によって、自然自我を「社会的な自我」へと変容していく、つまり、社会化していく、というような意味のことを過去にも書きました。

 

「自然自我」がハードに付随するものであるとするなら、「社会的な自我」はソフトに付随するもの、とも言えるでしょう。それは共存と適応のために「形成せざるを得なかったからそうなった」のであり、それが人間という社会的動物の意識の特殊性のひとつですね。

 

 

自然自我と社会的自我の不調和が生む病的な「虚無」

 

自然自我と社会的な自我の不調和状態、例えばどちらか一方が過剰になり過ぎたり、両者が内的に激しく分裂し戦うような状態になる時、様々な病理が生まれます。

 

自然自我のままを否定された唯一の動物」である人間は、「ただ在る」だけでは自己充足感自己効力感も得られないため、

 

自己充足感と自己効力感を得るために「獲得」へと向かう方向性へと導かれるのは、「活力の自然な流れ」なわけですが、自然自我と社会的自我が不調和・機能不全化して内的分裂・対立することによって、「活力の自然な流れ」を自ら否定した場合、

 

それは「自我(部分であり非実体)によって存在(全体であり実体)全否定してしまうような矛盾状態」であり、その結果、「罪人的な生の重荷を背負わされた不遇の生命体」とでも表現できるような、行き場のない窒息した思いが、意識内に蓄積されていくわけです。

 

そこから「生の全否定」という病的な虚無の意識が生じてくるわけです。ですがこの場合の病的な「虚無の意識」は「偽の闇」の一部です。

 

偽の光」としてヒトには神・宗教が必要だったのも、ひとつはこういう「自我・思考の生じさせる闇」への対策でもあったわけです。偽の闇には偽の光が必要なわけです。ですがそれを「偽」だからというだけで「無意味だ」と、ぶっ壊してしまったので、偽の虚無が世に蔓延り、

 

その様子を見て「超人」というニーチェ的なマッチョな虚無対策が新たに創造されたり、逆に虚無意識の人をかき集めて暴走するカルト的思想・組織やらも、姿形を変えて次々と登場してくるわけです。

 

「偽の虚無と偽の光の関係」は、次回にまた詳細に書きます。

 

G.H.ミード『社会的自我』

 

もし自分が自分自身であろうとするならば、他者にならなければなない。G.H.ミードは言います。 『社会的自我』として生きる人間の姿をよく言い表していると思いますね。

 

「ジョージ・ハーバート・ミードの著書より 『社会的自我』(船津衛、徳川直人 編訳)」より引用抜粋

すべての自己意識的行為を伴う観察するもの(observer)は、…それ自体の特性(propria persona)において、自己意識的行為を生み出すような実際上の「主我」ではない。

むしろ、それは自分自身の行為に対してなされる反応なのである。われわれが他者に対して与える社会的刺激にもとづいて起こるこの反応と、行為の主体と考えられるものとを混同してしまうことが、

自我は、働きかけ、働きかけられるものとして、それ自体を直接的に意識できるものだとする考え方の心理学的根拠となっている。

他者に意識的に対峙する自我は、…自分が話すことを自分で聞き、自分がそれに対して答えるという事実、まさにこの事実によって、自分自身にとってひとつの対象、ひとりの他者となる。
(中略)
自我は、行為において、個体が経験における自分自身の社会的対象となったときに、現われてくるようになる
(中略)
もし自分が自分自身であろうとするならば、他者にならなければならない。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ ジョージ・ハーバート・ミードの著書より『社会的自我』(船津衛、徳川直人 編訳)

 

◇ G.H.ミード

G.H.ミードは1894年から1931年の死まで、シカゴ大学の教授をつとめ、デューイ(John Dewey 1859~1931)らとともにプラグマティズムを担ったアメリカの社会哲学者である。また、社会心理学及びシカゴ学派の社会学の草分けの一人として多くの研究者を育て、今日の象徴的相互作用論の源流となった。

引用元⇒ http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Mead.htm

 

虚無を生むものpart5 ⇒理性・知能至上主義と過剰な合理主義の生む「現代の虚無」

虚無を生むものpart4 ⇒ 存在のパラドックス「存在の虚無」と 自我の恐怖

〇 自我は弱めるべき? 強めるべき? なくすべき?

 自我と現実   主観と客観のパラドックス

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*