存在のパラドックス 「存在の虚無」と 自我の恐怖  

 

虚無を生むものpart4です。part1part3までは「自我・思考」が生み出す「虚無」を見てきました。part3でも書きましたが、それが「偽の虚無・偽の闇」です。つまり「自我・思考の虚無」ですね。

 

part3 ⇒「社会的自我」と「ありのまま」の病的な分離が生む「虚無」 

 

理性・思考」というものは存在の一つの機能に過ぎず、存在の部分であり、「存在に優位するもの」ではありません。また「それ自体で独立する実体」でもありません。

 

そして「感情・感性」もまた存在の一つの機能に過ぎず、存在に優位するものではありません。「理性・思考・感性・感情」の全ては存在に必要であり、その働きが過度にアンバランスになる時、様々な病理が生じるのです。

 

今回は、前回の社会自我個の自我の対立的な力学によって生まれる「自我・思考の虚無」だけでなく、「存在の虚無」へと入っていきます。存在の虚無の領域は思考だけでなく感性を含んだ全体性の領域なので、このブログのカテゴリーでの 「禅・瞑想」とも絡んできます。

 

があるからがあり、があるからがあるという存在パラドックスの「それ自体の全容」は、「思考ではとらえられないもの」なのです。

 

 

怖いのは「死の前の想像」か?「死そのもの」か?

 

まだ若い頃、私は無意識の「虚無」そのものと感応した体験があり、それは私が「うつ」と思われる激しい抑うつ状態にあった時期のことです。

 

世間ではよくこう言いますよね、本当は「死そのもの」は怖いものではなく、「死の想像」や「死に至る過程の苦しみが怖いのだ」と。

 

確かに「死の想像」や「死に至る過程の苦しみが怖い」というのは、思考=自我が生み出す反応であり、自我の恐怖反応としては真っ当なことだとは思うのでそれは否定はしません。ですが、自我の恐怖反応を抜きにして、「死そのものは存在にとって怖いものではない」というのは本当でしょうか?

 

 

 

ここで、今回のテーマと関連する十代の頃に書いた文を紹介します。

 

「私」は○○と名付けられており日本人である。ここでもまた「私」と、それにつけられた名称という具合に「私」と「○○(名前)」が切り離され、あたかも「私」が心理的に独立して存在している何かであるように錯覚が継続する。

 

「私」と「私の名称、レッテル、肩書き、知識、経験、感情、反応」は別のものだろうか。まず最初に「私」があり時間的ズレを伴ってそれらのものが付加されたのだとすれば、それらのものをすべて忘却した時、心理的に「私」はすでに意識化されていることになる。

 

しかし「私」は時間とともに強化され蓄積された条件づけに他ならず、そもそも「私」と「時間」は「同時発生し、双方独立したものでない」のではなかろうか。

 

「私」には「過去、現在、未来」があり誕生、成長、老衰、死という過程と経過があり、「私」と「あなた」があり、様々な区別、区分がある。「私」には連続性があり、区切りがある。

 

「○○(名前)」には連続性があり区切りがある。「私」は記憶であり、思考であり、イメージであり、「過去の蓄積の現在への逆流」である。

 

「現在」は常に条件づけられた過去によって全体を知覚されることなく、断片として観念化され、さらにそれらの観念の集大成である「私」による全体の追求、という果てしない運動が続くかぎり、その「ありのままの姿」はとらえられない。

 

「私」は「過去」であり「時間」である。「今この瞬間」、「ありのまま」は定義化され得ない。「定義化」は「過去による現在の断片化」の無限連鎖を生むだけである。

 

 

自我の恐怖と存在の恐怖

 

「死そのものは怖いものではない」というのは本当でしょうか?私は無意識の「虚無」そのものと感応した体験は、「自我が虚空に消えていく」というものであり、自我の死のような体験でしたが、

 

その時「私」が消え、「存在」が「虚無」に感応した瞬間に、自我の思考的・想像的恐怖とは質の異なる「リアルな存在の恐怖」が生じました。

 

自我・思考」の「虚無」は「無=ゼロ」とされますが、「無」は「葉の意味のゼロではない」と感じたのです。そしてそれを感じた瞬間、「虚無というリアル」との感応を避けたのですね。

 

自我・思考」は相互依存的には存在しますが、「それ自体」では存在しません。なので「自我・思考の完全消失=「無は「ゼロ」なのです。

 

ですが自我が消えても「存在」は有るのです。「自我・思考」が創造した「無」は偽の無であり、それは存在しないのです。

 

自我・思考=リアル(現実)とするがゆえにリアルはマーヤ(幻影)とするのがインド哲学の主流ですが、そもそも自我は「それ自体で存在いも」であり、

 

思考がリアルに投影され、リアルが断片化され記号化された「仮象」が「リアルそれ自体」と同一視されるゆえに、「リアルはマーヤ(幻影)いう錯覚が生じる」のであり、リアルはマーヤ(幻影)ではなく、自我・思考=マーヤ(幻影)であるのです。

 

「リアル・存在」は記号化・概念化・印象化され得ない「それ自体で存在する何か」であり、その全体性それ自体は「非幻影」ですね。「非幻影」でありながらそれ自体が思考では捉えられないので「現在」は常に見落とされ「過去の投影」とされるのです。

 

無から有が生じ、有から無が生じる

 

何故今、私たちはここにいるのでしょう。「親が生んだから」。では何故、地球に存在する無数の生命の中で、その種・その国・その親の元で、「有」として表現されたのでしょう?

 

私たち現代人はよくこう言います。死ねば「無」になる。「無」になれば「有」はないのだから、それで終わりだ、と。

 

ですが、こうはいいません。無から有が生じる、だから今存在は「ここ」有る無は有ではなく有は無ではないが、無から有が生じ、ら無生じるのだ とはいいません。

 

宇宙・存在の真実が「無=ゼロ」であるのであれば、私たちは「今ここ」に存在出来ないんですね。それが思考による存在分析のパラドックスなのです。「虚無」に「観念から派生する思考の運動」が投影された場合、それは既に「虚無そのもの」ではありません。

 

「生」という全体性なるものに思考・観念が投影された場合、それは既に「生の全体性そのもののリアル」と異なる「記号化・概念化された生の断片のイメージなのです。なので「私」たちはまだ「生」「虚無」を共に知らないままなのです。

 

 

 

記事の最後に、今回のテーマと関連する十代の頃に書いた文をもうひとつ紹介します。

 

「科学」という「観察者による観察されるものの構造の論理化及び検証による仮説の実証」なる対象認識方法は、「それそのもの」の直接知覚ではなく、定義されることで断片化していく「事実」の果てしない再定義のプロセスである。

 

何かを名称化し、言語化することで「観察されるもの全体」の知覚を失う。「私」はそれを見失ったとき現れる。それゆえ「私」は常に探し、それを得ようと努力する。

 

「私」の試みは「科学」となり「宗教」となり、「外面」に「内面」に、「物質」に「精神」に果てしない追求を繰り広げてきた。しかし「観察されるもの」は「観察者たる私」と異ならないというパラドックスが「私」には見えない。

 

「私」のものではない知覚によってしか「ありのまま」は理解し得ない。原因の原因さらにその原因と、延々と「私」は追求する。「私」はまさにその過程によって維持され、「私」の維持と共に「問題」も同時に維持される。

 

「私」は「過程」であり、「私」は「問題」そのものである。「私」は「発見」することはなく、「私」は「悟る」ことはなく、「私」があるとき常に「問題」と「真実それそのものとの分離」がある。「私」は「真実それそのものとの分離」である。 

 

存在と虚無  月の光と「影の詩」
自我と現実   主観と客観のパラドックス
「私・自己」と「存在」の違い 「人格の統合」と「内的な自然破壊」

 

 

存在のパラドックス 「存在の虚無」と 自我の恐怖  ” に対して1件のコメントがあります。

  1. ノムラマサカツ より:

    ≫私は真実そのものとの分離である。
    なんというか?僕も同じように感じることが多いです。
    観察者たる「私」では、「私」は捕らえきれず、しかし無ではない。
    捕らえられない。と、言う事が或いは生きている。と、言う事なのでしょうか?
    記号化された過去のモノを以て私とするしか無い。と、

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