理性・知能至上主義と過剰な合理主義の生む「現代の虚無」

 

虚無を生むものpart5です。part1part3までは「自我・思考」が生み出す「虚無」を見てきましたが、part4では「存在の虚無」へと入っていきました。

 

存在の虚無」の続きは次回でするとして、今回は「自我・思考」が生み出す「虚無」の補足として理性・知能至上主義と過剰な合理主義が生む現代の虚無と「思考の輪廻」をテーマに書きます。

 

今回の記事と特に関連する「虚無」がテーマの過去記事を二つ紹介しておきます。

 

◇  「社会的自我」と「ありのまま」の病的な分離が生む「虚無」

◇  ルサンチマンと虚無社会  ニーチェとフロム

 

劣等で単純な生物 優等で複雑な生物という「連続した縦方向のラインの進化のイメージ」では、弱い動物が滅び強い動物へと直線的に上昇していったような間違った捉え方をされていることが多くあります。

 

そして本能感情知性というものが、この縦方向のラインの進化のイメージに短絡的に重ねられることで、「知性・理性が最上・優等で、「本能・感情は克服すべき淘汰すべき劣等要素、というような「知的錯覚」が生じることがよくあるのです。

 

これに関連する内容の過去記事があるので以下に紹介しておきます。

発達心理と進化の矛盾と錯覚

 

また、過剰な理性至上主義・合理主義によって、現代社会は「IQ重視知能至上主義的な発達観」が長らく蔓延し、その単純な価値基準で人の優劣を分けてきたため、立体的な人間観を失い「知能・能力の多様性と全体性としての人間」を見ることが少なくなったんですね。

 

知能・知性・能力の全体性」を見失い、その結果「理解の全体性」を見失っているわけですね。

 

「知能」には大きくわけると「IQ  EQ SQ HQ」という4種類の質・能力の種類の異なる機能があり、これに関しては以下の過去記事でまとめています。

 

人間の知能・能力の4つの基準 IQ  EQ SQ HQ  心・精神の病や豊かさと関係が深いものは?

 

そして「多重知能( MI)理論」では「知能の多様性」をさらに詳細に分け、その質・能力の種類は以下の10種類に及びます。

 

①言語的知能   ②理論数学的知能   ③音楽的知能   ④身体運動知能 ⑤空間的知能    ⑥博物的知能    ⑦対人的知能    ⑧内省的知能 ⑨霊的知能 ⑩実存的知能

 

これに関しては以下の過去記事でまとめています。

 

自己と知能の発達 自我の病理を超えて 10種類の知能と可能性

 

「知能・能力の多様性」への理解のなさ、そして部分的な知性・知能だけが重視されたことにより、「理性」が「他の知能・能力及びそれと連動して機能する本能・」を過剰に否定・抑圧する、という偏った「成長・進化の知的錯覚」が生じ、

 

存在そのものが過剰に分離的・分裂的なものとなって機能不全化していった、というわけです。

 

現代社会が生み出した「理性と思考に偏った機能不全化した自己完結存在」は、IQ的な知性で判断される世界認識の中で閉じたまま同一化し、

 

そこに「ルサンチマンと自我の恐怖が生む虚無」が合わさることで、「生は醜く卑しく無意味で空しいだけ」という「生の全否定」が生じ、その「偽の虚無」への「信念」から一歩も出れないまま無限思考ルーしているような人々を社会は量産しているわけです。

 

IQ的な知性、言語的知能理論数学的知能だけが過剰に「知能・知性」とされ、他の知能・知性の質が見落とされているわけです。

 

 

思考の適切な機能領域

 

何かを名称化、言語化、記号化、定義化、分析・結論することは、思考機能の役割であり、思考には適切な機能領域があります。

 

思考それ自体の必要性はいうまでもないですが、思考は決して「全体性それ自体」を感じないのです。なので思考が不適切に使われるのであれば思考の輪廻・無限ループが生じるか、逆に理解の断絶・分が生じます。

 

理性・知能至上主義の現代では、感性・感覚の深みは失われつつありますが、感性は、思考では捉えられないものを独自のやり方で捉えるのです。

 

例えば一流のプロの料理人の鋭い味覚は、通常の人の味覚では捉えられない食べ物の味を精妙に捉えます。ですが「味覚」を考察し論理で追及しても、思考では食べ物の味を捉えることは出来ないのです。

 

そして感性は五感の感覚だけではないのです。感性=センスは、様々な意識の層と関連していて、それはどれだけ情報を集めようが、どれだけ知性を高めようが、思考が代理することはできないのです。

 

そして理性・知能至上主義の現代では、思考が不適切に過剰に使用され、思考機能の領域外にまで適応される、という誤作動が生じやすく、

 

思考で分析し論理的に結論することが「全ての理解に置き換えられてしまう」ことで、逆に「全体性が見過ごされたまま理解が分離・断片化されてしまう」ということが多々起きているのです。

 

その対象が思考では捉えられない質を持っていながら、分離・断片化された部分に、本来以上の意味や価値を与え、それが深く記憶に根付いた瞬間、その質は理解されないまま見過ごされるのです。

 

そうやって「観察されるもの全体」との直接の対面を失い、「存在の全機能」が調和して対象と向き合う姿勢・取り組む姿勢を喪失しているために、複雑化・不調和・機能不全が引き起こされるのです。

 

「知覚とありのままの姿を、分離してしまう偏った生き方」は「澄んだ感受性」を失い、その結果「理解力の全体性」を見失う。それによって思考の輪廻が生じ、そして様々な質の見落としによって「現代の虚無」が生じるわけです。

 

自我は弱めるべき? 強めるべき? なくすべき?

 

 

 

理性・知能至上主義と過剰な合理主義の生む「現代の虚無」” に対して1件のコメントがあります。

  1. ノムラマサカツ より:

    此処まで考えたことがなかった。
    しかし、、、仰るとおりだと思います。

    我々は解りやすいモノを矢張り求める。

    先程考えたことはなかったと、書いていますが、
    気づいたことが無かったわけではなく、
    ただ見て見ぬ振りを矢張りしていた。

    その理由は、自分を動かすため、
    そして、自分に何らかのバイアスが掛かっており、
    其れを肯定するため。

    それに気が付かされます。

    この事を心の隅に留めて於こうと思います。

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