感情バイアス 虚無を生むものと「幸福論」
久しぶりのブログ更新です。当ブログは緩やかに新しいテーマに移行している過程ですが、濃いテーマで再び書くことにしました。
「現代の影」にはいろいろな姿があります。その一つが「虚無」です。「虚無を生むもの」をテーマに複数回に分けて記事を書きます。「虚無」というテーマは深いテーマなので、これをどう進めていくかで、少し考えるところがあり、更新が止まっていました。
part1は序章なので本題に深く入ってはいません。まずこのようなテーマを見つめるための補足として、「感情バイアス」を中心に書いています。
昨年までは主にネガティブで病的な現象・心・精神を中心に書いてきましたが、今年は「病的な心理」の検証・分析はゼロではなくたまに書きつつも、現象・心・精神のポジティブな要素・方向性をメインに書いていく流れです。
私は必ずしも「病的」=「悪・劣」という意味だけで捉えてはいません。そういうものが生じる必然性は確かにあり、外的要因を含めて考えてもいるからです。
しかも「病的」というものは「何かが優れているがバランスが悪い場合」にもよく起きることがあり、また「外的要因で病的な内的状態になっただけ」ということもあります。違う環境・人生であればそういう風になっていない、ということもあるでしょう。
『幸福論』と感情バイアス
「三大幸福論」と言えば ヒルティの『幸福論』、ラッセルの『幸福論』、 アランの『幸福論』が有名ですが、極シンプルに要約すると、
ラッセルの『幸福論』は、論理実証主義的で反ロマン主義的な幸福論ですね。ヒルティの『幸福論』はキリスト教倫理観を基礎にした幸福論。そして アランの『幸福論』は楽観主義で身体的行動主義的な幸福論です。
ここでこの三つのうちどれが幸福論として正解とかそういうことを言いたいのではなく、どれにも一理あり、この三つの幸福論を読むことで、「幸福」に対する立体的な捉え方は出来ると思います。
アランの「幸福論」の中で、「悲観主義は気分に属し、楽観主義は意志に属する」という一文が世間ではよく使われますが、その使い方がちょっと短絡的で、私はポジティブ・ネガティブの心理は「どちらか一方が絶対良い」というような、そう短絡的なものではないと感じています。
アランの『幸福論』は人間的でポジティブな内容ですが、「そういう気分になる原因」を無視させて、とにかく意志の力で「肯定」させるというやり方には、場合によっては弊害があるのです。
「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」とアランは言うのですが、内的状態とのギャップがあまりに激しい場合それは「過剰適応」としてのポジティブさの強制であり、場合によってはむしろその方が心・精神が病むこともあります。
なので、アランはやや過剰な楽観バイアスのかかった世界観ですね。アランは「悲観主義の根底は意志を信じないことである。楽観主義は全く意志的である」と言うのですが、悲観主義は何も生まない、何も変えない、ということはないんです。
悲観主義でありながら意志強く行動的であることは実際多々あり、楽観主義でありながら意志弱く非行動的であることも実際多々あります。
○○主義云々より、どんなバイアスか
虚無主義や実存主義などという区分けだってそうですね。何々主義は絶対こうなる、何々主義だから絶対こうだろう、というような論理に完全に当てはまるほど人間は画一的で単純なものではありません。
思想や哲学の学問上の区分け・分類としてはそれが役立ち必要でも、「○○主義者」という人への区分けが、その人の本質・全体性をどれだけ表現し得るのか?と言えば、ほとんど表現し得えないと思うわけですね。
なので「何々主義者は云々..」というのではなく、ある現象・物事を見るときにどのようなバイアスがかかってるか?というところをより中心に書いているわけです。
楽観バイアスとは逆に、過剰に否定的なバイアスがかかれば、現実の多面性が省略され、現実は一面的なネガティブ心象に置き換えられるので、これはこれで多くの弊害があるのです。
楽観・否定のバイアスに関連する過去記事があるので紹介しておきますね。⇒ 「気持ち」と「体」と「技術」 「技術」対「精神力」「ネガティブ」対「ポジティブ」
そして感情バイアスには「 正常性バイアス」というものもあります。これは、人が日常生活で生じる変化や出来事に過剰に反応するとそれを不安・ストレスに感じて疲弊してしまうために、
異常をそのまま異常と感じるのではなく、日常性を保護しようとして心を平静に保ち、心理パニックを抑制する働きとなるのですが、あまり過剰になると、「危機」が「危機」「異常」が「異常」と感じれないことで逃げ遅れたり手遅れになったりすることもあります。
災害心理ではよく使われる「 正常性バイアス」なのですが、「多数派同調バイアス」+「 正常性バイアス」の生む「平和ボケ」「過剰な同調圧力」、「多数派同調バイアス」-「 正常性バイアス」の生む「イジメ」「集団ヒステリー」などの方が、より日常的なバイアスの否定作用ですね。
昨日よりサイトを拝見させていただいて居るものです。
大変に、勉強になります。と、いうか?自分を省みます。
此処で言えば、自分のバイアスがどのように掛かっていたのかなど?を、省みることが出来ました。
「深く絶望した無気力化した存在」に成る事への同調圧力への反発と、ルサンチマンからカタルシスを求めるが故の葛藤が自身のバイアスとして大きな力と成っていた事に気が付けます。