対等であるとは  運命と宿命の狭間で

 

一万時間を費やし、膨大な活字・理屈が脳に出入りしたところで、私にとって圧倒的な強者というのは、そして一瞬で目を覚まさせる者それはたとえば「チュンチュン」でしょう。(笑)

 

全てを終わらせる者、ただ今を生きること・在ることのシンプルさに、一切の説教なく議論なく批判なく立ち戻らせる者、それがチュンチュン!

参りました!思考邪気退散!

 

台湾チアガール チュンチュン

 

どのような理屈もシンプルな存在力には及びません。ただそこにあるシンプルなもの、それが世界を動かすのです。「正しさ」の理屈では一ミリも動かないことは日常においても多いんですね。

 

対等であるとは

たとえば、「○○と合わない」が対等な関係性であるなら、「合わない」は「ただ合わない」で終わり、相手が間違っている、相手は劣っている、の優劣の比較にはならないわけです。

 

前者は「合わない他者」の主体性を認めている、という前提ありますが、後者は「合わない他者」を対等だとは思っていないゆえに「自分に合うように変えたい」、あるいはそうできないから否定し排除するわけです。

 

まずは存在を肯定する、とそこから入れないのは「対等な関係性」ではないからです。

 

しかし、個々の能力や相対評価、絶対評価、役割上の権限や属性は同等ではありません。その差異に応じた承認を受け、対価 報酬の差異を含む「合理的区別」が生じますが、それは「公平さ」「相対的平等」です。

 

よって「全てが同等という意味での対等」は、個の差異や相対的な関係性の優劣が生じる社会の構造上存在しません。絶対的平等は元々存在しないのです。

 

ここでいう対等というのは実質的平等(結果平等)の意味ではなく、「人間は元々平等なんかではない」という事実を踏まえた上で、だからこそ形式的平等という前提で存在に接するという「姿勢」なんですね。

 

人間は社会で生きている以上社会的な責任は逃れられませんが、根本的な責任など存在にはないんです。先天的な偶然、個人にはどうしようもない宿命を背負って社会的な不平等さからスタートする。

 

宿命を背負うことに個人の責任や非はなく、ヒトはその根底においては同じ存在、ゆえに平等、しかし社会の中では「合理的区別」をされ、ニンゲンとして生きるしかない宿命を持つ生き物でもある、ということです。

 

前提としての「個人の主体性と自己責任」 より引用抜粋

選択理論的では、「相手を変えることはできない」とされるが、その理由として、「人の脳の働きと行動のシステム」から考えると「人は自分の行動を、自分でコントロールしている」、

だから、「人は、他者の行動をコントロールすることはできない」、「自分の行動をコントロールできるのは自分だけである」という考え方になる。

私たちは、自分の子、部下、生徒など、身近な人に対して、「自分の所有物」と見てしまいがちなところがあり、相手を自分の思いどおりにコントロールしようとする。

そして、このときには、意識しているか、していないか、はともかく、「相手を思い通りにコントロールしたい」、「相手を思い通りにコントロールできる」という考えが、頭のどこかにあるからこそ、そのように行動するということが言えよう。

そして、「人は、自分の欲求充足のために行動する」が、「自分の欲求充足のために、人を外的コントロールしようとすると、それは、その相手の力の欲求や自由の欲求を阻害するので、両者の関係の悪化を招く」。

従って、「人間関係の悪化を招かない為に(又は人間関係を改善するために)、相手に対して、人間関係の悪化を招くような外的コントロールをしてはならない(やめなければならない)」
(中略)
しかしながら、「相手は、別の人間だから、自分がコントロールすることはできない」ということの前に、相手も自分と同じく、1人の人であり、

1人の人として尊重しなければならない」という「自分の主体性を尊重するのと同様に、相手の主体性を認めよ」ということが来るのではないだろうか。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 前提としての「個人の主体性と自己責任」

 

 

「社会的に対等である」というのは双方が主体性と責任を持つ個人として在る、を前提にしており、例えば、欧米では子供でも「人格を持った個人」として扱う、という一般論がありますが、

 

これは互いが自律した個人として接するという意味では「対等」ではありますが、同時にそれは「個人が自らの意志で行動・選択し、自身の人生に主体性と責任を持つ」ということの裏返しでもあり、

 

それゆえの自由であって、逆に「責任を引き受けず受動的で依存的な自由」という在り方に対しては厳しい環境であるわけです。

 

 

日本ではよく「自己責任が~」といいますが、欧米の方がずっと「個による責任」の社会なのです。とはいえこれは日本の自己責任論とは異なります。

 

「責任」という概念の捉え方が異なるんですね。

 

「「自己責任」を問う前に重要なこと responsibilityを理解する」 より引用抜粋

(前略)
「自己責任」に関して、今「自己だけが責任を負うべきか否か」だけに限定して議論しているのでは、本来のself-responsibilityが持つ意味とも異なるので、そもそも論点がずれていることになります。
(中略)
グローバル化によって人々の考えが変容することは自然なことです。

しかし、人々が今、考えなくてはならないのは、真の欧米的な考え方ではなく、欧米式の考え方が、日本の風土や風土が形成してきた文化や概念に合致するかということです。

これまで「和」を重んじてきた国民性が「自己責任」という名の下で、人と人との「和」も、国と人との「和」も断たれてしまうことに対して、筆者は寂しさと恐ろしさ、不安を感じるのです。

真のグローバル化とは、それぞれの文化が重んじられることを言います。欧米「式」一辺倒の考え方が「善」ではないのです。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒ 「自己責任」を問う前に重要なこと responsibilityを理解する

 

「責任」という概念は、はるか昔から随分と深い考察がされています。現在での日常的な使われ方の方がむしろ浅いくらいです。

 

たとえばイギリスの哲学者のジョンロックの責任論は古典的ながら、それでも現代の一般的な捉え方よりは複雑な考察ですね。⇒  ジョン・ロックの責任論

 

「主体性」と自由があるゆえに責任という条件が課せられるわけですが、欧米文化の基層文化のひとつであるキリスト教的ミームは父性原理優位なんですね。個の主体性とか個の責任とかそういうもの自体が父性原理的なものです。

 

日本は母性原理が基層に働いています。子は「人格を持った個人」というより、人格や責任の問題を一部免除される「非個人」であり、連帯責任で、主体性は責任を多く負う親・保護者側にあり、

 

対等ではないが、責任を負うことや受動的な依存性を許されることも多いんですね。なので厳しさという点では欧米の方が厳しいわけですが、

 

日本は子供を「人格を持った責任の主体である個人」としてみないが、それは同時に責任を一部免除され、代わりに「連帯責任」として「責任者としての大人」がそれを負ってくれるわけです。

 

この傾向は家庭やこどもの時期だけでなく、家庭外、そして成人後組織に入っても「連帯責任」という形が残存しています。

 

日本の「迷惑をかけてはいけない」の心理効果は、欧米よりも遥かに強いでしょう。個の行為の責任が連帯責任で他者を巻き込む形式になっているからです。

 

主体性を持った個の行為が単に和を乱すとかだけでなく、時として責任が絡んだ問題に巻き込むから個の凹凸が抑えられてしまう構造なんですね。

 

この「和」が相互監視のように機能して「」が抑えられるという「治安や秩序の維持」、「とりあえずまとまって集団行動」、という長所がある反面、

 

」も叩かれるので出る杭が叩かれて、「平たい民族による空気と建前の調和」=硬直した和 になってしまうわけです。

 

メインの責任者が親であるから親は当然権威になり、「責任を免除されている受動的で依存的な個人」と対等ではなく、「上」であり「強者」にもなります。子供の方が弱者なわけです。

 

このような「受動的な個人」と「主体性と責任を負う者」の母性原理社会なのです。「自分の人生、行動、選択なのに、その責任を別の誰かが負ってくれているうちは、まだ主体的に生きてはいない弱者」なのです。

 

臨床心理学者の東畑 開人 氏の『居るのはつらいよ』で、ケアとセピーの違いが語られています。

 

ケア: ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。

セラピー: セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために介入し、自立を目指す。すると、人は非日常の中で葛藤し、そして成長する。

 

この捉え方は別の言い方で言えば母性原理と父性原理の違いであって、ミームとしてもともとあるものを現代的・専門的に言い換えているわけですが、

 

慈悲」は母性原理ですね、包摂する愛で依存が前提です。ケアに繋がる精神ですが、セラピーは父性原理ですね、本人が自立するため、主体性を持つためであり、鍛える愛です。

 

これはどちらも必要なのです。父性原理の働かない母性原理一辺倒では、相手をさらにダメにします。

 

特に「依存」の心理が、相手及び双方に強い状態で慢性化してしまうとなおさらダメになります。逆に父性原理一辺倒でもダメなんです。それでは弱者は潰れてしまいます。

 

父性原理と母性原理が動的に調和的であることが大事です。固定的で静的だと時に自他に害をなす力学にもなってしまうのです。

 

そして最近は、責任は負いたくないが「人格を持った個人」とし認めてほしい、というような無責任で主体性のない個人主義が成人後にも蔓延しています。父性原理が欠如しているのです。

 

「母性原理に優しく包まれて受動的で依存的でいたい子供のまま」なのです。しかし現代社会は基本的に父性原理で動いています。

 

よって大人になるまでに成熟していない場合、そのズレが可視化されてくるわけですね。そして父性原理を内面化できない個人は、外部のパターナリズムに取り込まれ依存します。

 

日本の個人主義と欧米の個人主義の違いを理解しないと誤解を招く?!

 

一方は自身の人生に行動や選択に責任を持たなくていい、とか、一方は主体性を認められない、持たない、というのは社会的に対等な関係性ではないんですね。

 

弱者であるゆえに強者(非弱者)の責任からは一部免除される、という配慮は「弱者である」から受けられるものであり、それは同時に「強者とは同等の力関係ではない」ことを受け入れることでもあります。

 

それを受け入れたくないのであれば、「強者と全てに対等」で在りたければ、弱者故に一部免除されていた責任を自ら引き受け、主体性を確立し「弱者」という土俵から本人が出なければなりません。

 

それは強者だって、「弱者にはある配慮を強者は得られない」ことを受け入れているわけで、その土俵で個々が対等に主体的に在るわけだから。

 

対等な関係性に向かいたいのであれば、弱者のままで全てを手にしたい、は過剰な要求であり、まず弱者故の配慮を放棄する、そして責任を引き受け相手と同じ土俵で主体的に生きる、ということ。

 

そしてイチロー先生が語るように、今は「弱者」の方が強い(全てではないが昔に比べてそんな一面がある)時代です。それはかつての強者/弱者の関係性の中に含まれていた長所・短所をどちらも放棄し、「個々の自由」を選んだゆえです。

 

父性原理の役割を外部の他者が責任を持って引き受けてくれていた」、それをこれからは「自身に父性原理を内面化し、自身で主体性と責任を持って生きなければならない」ということであり、

 

強者から特別な力(権限)・支配力を削ったその次は、「自分で自分を導きコントロールしてかなければならない」ということです。パターナリズムを解体していくということは、「自己責任」の拡大に繋がっているわけですね。

 

 

イチロー 最後の表彰式の「ことば」

先生よりも、どうやら生徒のほうが、力関係が強くなってしまっている、というような状況があるみたいで。このことに僕は今、心配しているというか、どうやって教育するんだろうと、よく考えることがあります。

 

時代の流れなんでしょうけれど、先生から教わる大切なことはたくさんあります。謙虚な気持ちで受け止めてほしい。厳しく教育するのが難しくなっているらしい中学校、高校、大学。

 

社会人になる前に経験する時間、そこで自分自身を自分で鍛えてほしいというふうに今、そのことがすごく大事な事だと思います。

 

厳しく教えることが難しい時代に、じゃあだれが教育をするのかというと、最終的には“自分で自分のことを教育しなくてはいけない”。そういう時代に入ってきたんだなというふうに思います。