確率的決定論を破るゆらぎ~創造的可能性へ

 

今回は「確率的決定論」「ゆらぎ」「創造的可能性」がテーマで、「個性化」へ向かう生き方の補足となる記事です。

 

ではまず一曲、Taylor Swift「The Man」です♪

 

 

人はみなただ一人しかいない個人であり、人生はひとつしかないものです。

 

そして「他者に再現される自分の身体・人生」など存在しないように、一度きりの生での試行錯誤に基づく成功や幸せは「他者による再現性」はありません。しかし「それをもたらしうる力学」は存在します。

 

その本質的なものがシッカリとあれば、個々の独自性の中でそれを育てていく流れに自然と入っていきます。理由とか動機とか、目的性というのは結果から見た後付けで、最初から理屈に従っても役に立ちません。

 

成功者はおそらく多くの方が、「何故そうなったのか?」なんていう明確な理由なんてないでしょう。それは創造的衝動、その強力なゆらぎに突き動かされた、その結果にそうなっていただけしょう。

 

「既知」「確率的なもの」「確実性(と思い込んでいる)の世界」を破っていくのはそういうものなのです。

 

選択と集中」の問題も同質です。何がどう化けるのか?は最初からわかっているようなものではなく、そんなものしか追わない姿勢ではイノベーションも生まれない。やってみなければわからない、のです。

 

日本の科学研究力 「選択と集中」が招く低迷

 

多くの「無駄」「失敗」「意味があるのか役に立つのかわからない」の中から何かがポンと出てくるんですね。どう結びつくかは未知数。

 

よって計画性も後から生まれます。「必要な方法」も事前に何でも用意なんて出来ないし決まっていません。

 

それぞれに何が必要なのかのは、その過程の中でそれぞれが掴んでいくものだからです。そして理屈で先を読むよりも身体性にその本質があれば、それは忽然と繋がっていくのです。

 

 

最初から頭で予測しうる「再現性のある成功」は「誰かの鋳型」でしかなく、

 

個々の創造性に基づく成功・幸福は、他者による再現性など初めからないわけですが、それゆえに自己実現であり、かけがえのないものです。誰かの鋳型の追体験などとは異なるんですね。

 

「技術的な課題とか目標の達成」というものと自己実現の成功や幸せは質が違うので、そこに再現性を求めることに意味はありません。

 

ただ、その原動力となるものや、シンプルな法則性はあります。大事なことは選択と集中ではなく、「それがうまれやすい環境設定」です。

 

しかしそれがどう辿り着くのかの形はそれぞれに異なり、可能性は未確定なのです。この「遊び」の大きさの中で揺らぎそれ自体が導くのです。

 

結果が最初から予測できる、ゴールが設定されているようなものは可能性を限定し、創造性においてはその前提こそが環境設定として「失敗」であるともいえます。

 

勝ち組・負け組の相対化の中で「その差異」を成功や幸福と「感じる」ような、「飢えと渇きの弱肉強食のゲームは、「同じ鋳型を使った成功の形」をみなが追うパイの奪い合いにしかならないため、延々と競争し続ける以外に道がないのです。

 

「昭和の型」に対してこの型が優位、というのも同様で、ただのシステムの優劣に過ぎず、競争の結果一方が劣位になったり優位になったりする型の問題であり、

 

それは個々の幸福や成功とは直接には結びつかないが、「型に同化するタイプ」は「再現性のある鋳型」にハマって、それに同化することでマジョリティとしての一定の達成感と安定感・安心感は得られるのです。

 

それが平成モデルだろうが令和モデルだろうが本質は同じ。型を比較してどちらが現在に適応的(合理的)かつ有利か?というだけのことでしかなく、「勝でばマジョリティ」でしかないのです。

 

昭和型生存者バイアス~平成型生存者バイアス~、あるいは日本型生存者バイアス~欧米型生存者バイアスに変わっただけで、本質は何も変わらないわけですね。

 

つまり「同じもの」を形だけ変えながら良くなったと感じることを、更新とかアップデートなどと呼んで同じことをやり続ける畜群2.0でしかないのです。

 

「宿命」は先天的なので変えられない、だが「運命」は後天的に変えられる、とはいっても、「宿命の重さ」も不平等であるため、運命も宿命の前提に左右はされるが、これは「確率論的な世界観」であって、

 

確率論的な確実性の生は、安心を求めるタイプには安定した達成を得られるように「見える」が、逆に「確率論的な運命に捕捉され可能性を失う」ことにも繋がるパラドックス構造であり、

 

「絶対にそうとは決まってはいない」という「ゆらぎ」に「可能性」が宿る、そこを突破していくのはリスクを引き受ける生命のダイナミズムであり、創造性はその中で活性化され、それが「破る力」になるのです。

 

その「破れ」が可能性に繋がるのです。

 

その時、存在には「運」とは異なる「力」が与えられる。負の状況から運命を突破していく際は、宿命論と確率論的な人生観をむしろ捨てることでそれを破っていく。

 

確率論的な確実性が不確実性によって破られる時というのは、「運」だけではなくそこに別の合理性、別の力が働いているのです。

 

当事者意識の最も根本は自分の人生の当事者となることだ。自分の人生の当事者となることは誰かのせいにしないことで、過去の感情に引きずられる人は、出来事の責任を他者に求めている。素直な人間が無邪気に見えるのは、過去の感情に引きずられないからで、だから今ここでこだわりなく開くことができる

— Dai Tamesue (為末大) (@daijapan) February 19, 2020

 

「再現性のない個々の成功」は、マジョリティ型の幸福感や他者との比較や競争とは無関係な、自身の生の探求であるため、マイノリティとしての自身の人生そのものを個性化していく。

 

再現性がないので模倣ができない。模倣ができないので「みんなの型」にならない、また個々に違うので、他者との比較よりも「違い」を楽しむ方向にシフトする価値多様性モデルなのですね。

 

乙武さんも個性化の人ですね、ただそれを楽しみ可能性を追及しているだけであって、障碍者はかく在れ的な鋳型にハメようとはしていない。

 

むしろそうしているのは、「みなと同じでない」という「個性化の道、価値多様性を快く承認できない側」の方なのです。

 

 

「生きれば生きるほどその個々の型は味が深くなっていく」そういうものを個々が持つ、それが創造的な生であり個性化の成功である。

 

 

私はこうしかできない、全ては環境と運だ!で片づける人

 

ルサンチマンが過剰になると何故おかしくなるか?因果関係のないものや意志・責任の範囲ではないものにまで損か得かの不満感情を結び付け、

 

道徳的な優劣の価値などを付加して責任を負わせたり、自身にも相手にも全くプラスにならない否定を行って、相手を引きずり落としたりするからおかしくなるのです。

 

ルサンチマンは、「弱者」と「強者」のような単純な類型に自他を当てはめることで、他者との比較によって社会的比較バイアス を強めます。

 

社会的比較バイアス (Social comparison bias)

自分よりも精神的、或いは肉体的に優れているように見える者に対して敵意を持つ傾向。

引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html

 

自身より優れている対象への敵意を強め、敵意に正当性を与えるために合理化したり、相手を無価値化するために合理化したりします。

 

そしてルサンチマンは「ゼロサムヒューリスティック」と呼ばれるバイアスも強化します。「あいつはずるい」の矛先がどんどん多元化していくんですね。

 

ゼロサムヒューリスティック (Zero-sum heuristic)

誰かが利益を得れば、誰かが損をすると考える傾向。

引用 ⇒ http://lelang.sites-hosting.com/naklang/method.html

 

ico05-005 人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで最善をつくすべきだ。 by スティーヴン・ホーキング

 

生得的な環境と「運」の結果でしかないのであれば、ルサンチマンでそう言っている人の不遇だって、「誰のせいでもない」というそれは「強者と等価である」ことを見ず、

 

「運」であるなら結果のランダムさは当然で、「人為の及ばない単純な事実性が不満で我慢ができないだけ」ということになる。そしてこれをもっと掘り下げるとどんどん矛盾していきます。

 

努力できるのも運、才能があるのも運、結果も運、貧乏も運であって、「生得的なもの、あるいは人為を超えた運で全て決まっている」とするなら、弱者にも強者にも「自由意志はない」ということになります。

 

決定論と自由意志

 

「今起きている結果はもうどっちも仕方のないこと」で、「そうなると決まっていた」との決定論なので、

 

どちら側にとっても「差」に責任や負い目を感じる必要もないし、人に意志はないのだからそれぞれの結果は精神とは全くの無関係になります。「起きているままにただそうだからそうだ」で全部を承認するしかない。

 

政治家があんな風なのも運、環境で元々決まっているのだから、意志や努力ではどうすることもできないのだから仕方ない、となるわけです。

 

そして犯罪者だって、通り魔だって、強姦魔だって、みな人為を超えた「運」と「生得的な環境」の結果であり、人に自由意志はないのだから仕方ない。

 

ここには何が足りないか?つまり「確率論的な世界観」は、絶対でもないのに、決定論的に生き物としての人間を見てしまう、その結果は、

 

その見つめ方で仮に「己の人生の結果」の「責任」から逃れたとしても、その見つめ方によって自らの生命力とゆらぎを失い、「本当にそれしかできなくなっていく」、という脆弱化のパラドックスなんですね。意志や可能性を個の命(イキモノ)から奪うんです。

 

以下↓も、「個性化と可能性の追求」と「特定の属性をひとまとまり前提で限界設定することで、社会的に保護する作用」のパラドックスです。

 

 

ただ私はよく思うのですが、個人には「限界」があります。そして宿命もそうですが抜け出せない負のループは存在します。それを変えてくれるキッカケになるのはやはり「他者」の存在、「出逢い」なのです。

 

しかし、「他者」に対する否定感情が強いと、他者と出会えない。いや仮に「他者」と出会っても生かせないのです。そしてただ不満を共有するだけの似た者同士で固まってしまいます。

 

「前提」を引き裂く力、狂気と野生のダイナミズムを存在から奪ってしま魂の去勢を、「心の傷から守る」などという言葉に置き換えて。

 

しかし創造性というものは不思議なもので、時、場、人を選ばないのです。それは時に「運」を超える力学にもなり、また誰か一部の人が所有しているようなものではなく、ヒトに宿っている根源的な力なんですね。

 

それが自然と引き出されるなら確率論的な世界観は殆ど意味がないし、またそれを存在は超えていきます。

 

「相手と同じものを持つ」「同じ状況を得る」ことだけが成功ではなく、幸せでもありません。成功も幸せも多元的なものなのです。「個性化した自立した個人」において成功・幸せは人の数だけ存在し、自己実現も同様なのです。

 

以下に紹介の外部サイト記事は、「ルサンチマン」と「社会的比較バイアス」「ゼロサムヒューリスティック」の全部が入った実例ですね。

 

「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く より引用抜粋

自分以外の人が利益を受けているのが不快という感情。「他人の得が許せない」人が増えている。

●出席せずにいい成績「それ、ずるくないですか」

都内の女子大に勤める男性准教授(44)は、一昨年に経験した学生とのやり取りが今も忘れられない。9月中旬、ため息を大きくついた後、筆者にこうはき出した。

「本当にあきれかえるしかありませんでしたよ。付き合うのも面倒だから、叱ったりしませんでしたけど。あぜんとするっていうのは、こういうことなんだと思い知らされましたね」
(中略)
「授業に出てこないのにテストで良い点を取って、いい成績を取る子がいるんです。ずるくないですか?」

体中の力が抜ける思いがした。そんな発想をするのか、と。

「そういう学生が仮にいたとしても、事情があって授業に出られないだけかもしれないでしょう。ずるをしているのではなく、損をしながら頑張っているのかもしれないよ」

准教授はこう諭してみたが、学生には伝わらなかった。それどころか、「出欠を取るのは当たり前だ」と、食い下がってくる。最後は納得しないまま、学生は立ち去った。
(中略)
大嶋さんは特に、そういう人たちが他者に攻撃的な言動をとってしまうケースは「『ルサンチマン』という言葉で説明がつく」という。ルサンチマンとは、「強者に対する弱者のねたみや恨み」という意味だ。

准教授が経験した例では、授業をきちんと受けながらも成績が心配される学生が弱者で、授業を受けなくても成績が良い方が強者と言えるだろう。

大嶋さんは「多くのケースで、『弱者がすることは正しい』と思い込んでしまう傾向があります」とも指摘する。

– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)

引用元⇒「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く

 

会社のPCメモリを4GB→8GBにしようとしたら、激しく抵抗する人たちが…抵抗する理由が信じられない「意味わからん」

 

 

 

団塊の世代というのは、ザ・しがらみの世界です。そして闘争心が過剰で肉体的にも精神的にも暴力的な時代であり、体罰も激しくパワハラも酷く、鈍感な力の世界、そういう負の一面があります。

 

この世代に強く作用している「通俗道徳」は、明治から引き継がれたものといわれていますが、このミームは一旦影を潜めつつも形を変えて生き残り、平成になって「自己責任」という形でぶり返してきています。

 

団塊世代は経済の面だけでみるとそこだけは豊かに見えても、負の面を見ると苦しみも多い世代です。このブログでは団塊の世代の負の面を批判したこともありましたが、

 

その時代を生きていない私が仮に団塊の人々と同じ時代を生きたとしたら、あのしがらみの強さを超えられるのか?あの鈍感さに耐えられるか?といえば、出来たとしてもかなり苦痛だったのではないか、と思います。

 

どの世代にもどの時代にも特徴的な傾向性や負の問題はあり、それに対しての批判的な考察・改善や対策も必要なんでしょうけど、

 

あまり過剰に全否定し過ぎると結局、最近の「一部の社会運動の先鋭化」と同じような、「外集団」に対する他罰意識を高めカルト化するわけです。

 

「団塊世代は逃げ切り世代」「団塊ジュニアは貧乏くじ世代」は本当か

「#老害」に潜む世代間憎悪 リア充のまま死んでいく高齢世代への拒絶

 

「ルサンチマン」が「正義」を前面に掲げ、「内集団・外集団バイアス」と結びつき先鋭化すると、

 

それは時に植松被告のように、「迷惑な存在・生産性のない人間」=「無価値な在・役に立たない人間」は死ねばいいという極端な排除に向かう場合もあります。

 

植松被告に関しては過去に記事を書きましたが、彼の場合は他力学もいろいろと作用しているためこの構造性だけではないです。)

 

例えば↓以下のようなケースも(まだ初期的ですが)同じ構造性はもっていますね。

 

 

「抹殺対象」が異なるだけで構造は同じなんですね。「排除したい属性」が丸ごと外集団となり「敵」とされる、ということですが、

 

こうなってしまうと、結局カルトと同じ穴の狢になるでしょう。「カルト」の始まりはいつも「無自覚さ」から始まるものです。

 

「偏狭で固定観念の強い高齢者」も確かに存在しますが、カルトの最盛期、そしてテロは「若者」が多いんですね。

欧米で摘発されたテロ関連事件における容疑者の特徴点

 

話を戻しますが、金や経済的な豊かさの運だけがその世代に相対的に多くあったとしても、暴力的な空間でかつ雁字搦め状態であるその世代には、人生の多くの割合において自由感・解放感はない、なかったのです。

 

徐々に脱しがらみ化したその後の世代もプラスもあればマイナスもあり、他の世代の苦しみは減った分、他の世代にはない別の苦しみがあるわけです。いつの世も完全な時代などないんですね。

 

「脱コード化」「脱領土化」の先に新しい完全な自由世界があるか?といえば「ない」のです。むしろ今までにはなかった新たな苦しみが生じるでしょう。あるものを得る代わりにあるものを失うのです。

 

人間個人も同じです。完全に正しい人などいないんですね。正もあれば負もある、それが人間、人生、社会、国、時代、世界、です。

 

しかし人は「ないものねだり」をして、「自分にないものを持っている他者」はよくみえるものですが、外側からだけ見ていればわからないその他者も、また別の何かを持っていないこともよくあり、そしてそれは「あなたにはあるもの」だったりします。

 

マクロが個人に完全フィットする、ということはあり得ないんですね。仮に暴力的な独裁者が自分だけに気持ちいい国を作れば、「その人だけ」はマクロが個人に合うように完全フィットするんでしょうが、

 

民主主義で多様性でかつ競争社会の中で、何もせずに社会が個人に全的に合わせてくる、なんていうことはないのです。

 

個人の方からの働きかけ、主体的な適応や試行錯誤で微調整していくことで、初めて個人と世界はマッチングし、個々に動的にバランスするわけですね。