科学的合理性と社会的合理性 合理性と適材適所
今回は「科学的合理性と社会的合理性」をテーマに、前半が「合理性と適材適所」、後半は「科学・エビデンス・専門家」以外のものをテーマに書いています。
科学的合理性と社会的合理性
3/19 追加更新で動画の紹介です。現在、世界はコロナの話題ばっかりですが、以下の動画はとてもわかりやすくお勧めです。堀江氏の質問も的確で、専門家である峰宗太郎先生の説明もわかりやすくて良いです。
「科学的合理性」と「社会的合理性」、「事実判断」と「価値判断」に関しては過去にも少し書きましたが、「事実」と「価値」は異なり、そして「合理性」は多元性があります。岩田健太郎 氏のような専門家の事実判断はちゃんと聞くべきでしょう、「感染症」に関しては。
〇 専門医は軒並み反対なのに……「希望者全員にPCR検査を」と煽るのはなぜ間違いか? 「感染症に詳しい」医師と、「感染症専門医」はまったく違います – 鳥集 徹
専門家、科学者とは言っても「何を専門にしているか」で全く異なりますね、たとえば医者だっていろいろな科があるように、そして生物学者と感染症専門医は違うように、
「感染症」に関しては感染症専門の人に聞く、事実判断の精度はそれが一番高い、ということです。
客観的に明確に定義可能で実証されている科学的な事実判断というのは絶対(に近い)です。ただ科学者なら全て正しいという意味ではないし、正解といっても数学的正解と医学的な正しさは異なります。
また科学とはいっても分野や何を対象にしているかによっても異なり、たとえば、自然科学(化学,生物学,天文学,地質学,工学,農学,医学など)と社会科学は質が異なります。
そして科学者=科学ということではなく科学者もただの人間であり、個人的感情もあれば価値判断も有する多元的複合体です。しかし「科学」は「ある価値基準からみた社会的合理性による正しさ」ではありません。
そして感染症の科学的な事実判断が正しくても、「経済危機」がもたらす負の作用もウイルスが生命を奪うのとは違う形で深刻です。
失業率と自殺率は相関し、失業率1%の上昇でも大きな影響があります、まして世界恐慌レベルの状態になればその影響は巨大になるでしょう。
「失業率とシンクロする自殺率の推移」 より引用抜粋
65年間の経験的事実(データ)をもとに、失業率(X)と自殺率(Y)の関連を定式化してみる。多項式にすれば精度はやや上がるが、話を分かりやすくするために単純な一次式を用いる。■Y=1.949X+14.345
この式の係数から、失業率(X)が1%上がると、自殺率(Y)は1.949上がると推計できる。人口を1億2000万人と仮定すると、実数でみて年間の自殺者が2339人増える計算になる。
– 引用ここまで- (続きは下記リンクより)
引用元⇒ 失業率とシンクロする自殺率の推移
専門家は、専門バカでいいんですよ。感染症の専門家が「大規模イベントは中止すべき」といい、経済の専門家が「そんなことをしたら経済が死ぬ」という。その二つを天秤にかけて、どうするかを決断し、その結果に責任を負うのが政治家の仕事。
— 近藤 弘幸 (@TGU_Kondo) March 19, 2020
とはいえ、感染症への対処と経済危機への対処、この二つの危機に対する判断とタイミングを間違えばイタリアの二の舞になりかねません。
〇 イタリアが「パンデミックの震源地」と成り果てたシンプルな理由
〇 新型コロナウィルスについて⑥:4月第2週の首都封鎖 – ロックダウンへのカウントダウン-
思想やイデオロギー、善悪・倫理・道徳、政治的な価値判断・意思決定は科学的正しさとは質が異なります。
「理論合理性」、「目的合理性」、「価値合理性」、「経済的合理性」などと「科学的合理性」は質的に異なるわけですね。そして個々の人生観とか、「どう生きるか?」という問いも科学とは異なるものです。これは「実践合理性」がメインです。
「合理性」というのは前提となるものの領域によって質が異なり多元的なものなのです。
〇 形式合理性・理論合理性・実質合理性・非合理性・実践合理性・超合理性。
そして複雑な力学で構造化している現象は、ひとつの概念や思想からのみ説明できるものではなく、多元的なものです。
〇 マルクス『資本論』は何を間違えた?~商品の価値を決めるのは労働量ではない~
合理性の適材適所
日本の問題点は、事実判断の精度が必要不可欠な領域で重大な意思決定・判断を行うポジションに優秀な専門家が配置されていない、
さらに専門家も能力・知識のレベルは様々で一枚岩ではなく、その上「様々な派閥意識や個々の価値基準の差異などで対立する相手・合わない相手」に対し、過剰に否定し、蹴落とし合うなどの負の状況も散見され、
その過程で余計にいろんなものを巻き込んで、あちこちで報復合戦みたいな不毛で複雑な敵対化と分断が生じてしてしまい、つまらない言い合いにエネルギー・時間を使いすぎ、
大事なことはまったくまとまらずに問題解決がさらに遠のく、という不毛なところですが、
「今からどうするか、互いに何ができるか」の建設的な議論、相互に敬意をもった大人の議論ができないからスタート地点にすら立てない。せいぜい「表面的な和か、無関心か」くらいが関の山でしょう。
迎合的に「和」するのでもなく敵対的に「分断」するのでもなく、「自立した主体性を持つ個人」として、「私」と「あなた」が対等に話すということができないからすぐ興奮し排除するのです。
これは「自己統合」に関してこのブログで書いている捉え方とも共通しますが、
「静的な硬直した統合状態」というのは、形骸化した「和の精神」です。「動的で調和した統合状態」というのは、相互補完的な協力の状態が個と全体を共に生かす形で機能している状態です。
互いに自立しておらず自他境界が曖昧だから、相手を変えたがり、怒りや不機嫌さでコントロールしたがる人が多い。そしてそれが日本の同調圧力の元とも知らずに、「日本は同調圧力が~」と「自身は除外」で思い込むんです。
日本人的な人ほど同族嫌悪で日本人を嫌うことがあります。(「同族だから必ず嫌う」と決まっているわけではないが)本当にそういう部分がメタ認知出来てかつ解放されると、良いところもちゃんと見え承認できます。
そして海外であれ国内であれ、人間の普遍的な問題は変わらず、社会・文化の差異による長所・短所はそれぞれに異なっていても、完全なものなどどこにもないんですね、人にも国にも。たいして変わらないんです人間のデフォルトというものは。
NHKラジオ聴いてたら、1920年にスペイン風邪が大流行したときの新聞を紹介していた。曰く「予防には人込みを避け、マスクをして、咳をする人には近づかないこと。悪徳商人がマスクを不当な値段で売っているから注意」とのこと。100年前と人間社会が変わっていないことに苦笑を禁じ得ない…
— 前田将多 (@monthly_shota) March 25, 2020
そして専門家だけでなく「権限や影響力だけはある非専門家」が、己が価値判断や立場での合理性を混入させ事実を歪めて複雑化させてしまう点も問題です。
またその逆に、感性的な個々の多元的な価値の複雑系の領域に対し、専門家が「平均化され単純化された事実判断」だけで口を出し過ぎる現象もありますが、
それは非専門的な権威者が「事実判断と価値判断を両方仕切ってコントロールしている政治的状況」への反動からそうなる、ともいえます。
社会的合理性や政治的合理性での同調圧力が強すぎるため、「専門的な合理性」が過度に否定され、「他の合理性」によって捻じ曲げられることへの反動が起きるのです。
本来最も真摯にエネルギーを注ぐべき重大な事柄で、最もそれにふさわしい合理性が本領発揮できないから、役割・仕事の方向性が行き場を失ってしまい、領域外へと拡散し別の合理性に干渉し始める、ということです。
余剰のエネルギーが本来どうでもいいような些末な細かいことへ向かってしまうわけですね。
しかし本来の適材適所にちゃんと配置されて役割を果たせているなら、もっと自身の専門領域に特化・集中した仕事が建設的にでき、合理性によってどんどん改善できるはずが、
まだその段階にすら至っていないために、まずはそれを阻害している者達や、同調圧力をかけてくる他の合理性をどうにかしないことには前に進めない、でヒートアップしてしまう、まぁ仕方ない一面もあるでしょう。
天才にちゃんと役割を与えることができた国と、長老政治の国との違いが明らかに
新型コロナ“神対応”連発で支持率爆上げの台湾 IQ180の38歳天才大臣の対策に世界が注目https://t.co/2CTxHh9d46— Dai Tamesue 爲末大 (@daijapan) February 28, 2020
台湾のIT大臣:IQ180の天才でPerl6開発者
日本のIT大臣:スマホでSNS投稿ができる— ラッコ社長🦦金曜日のジャックナイフ (@RaccoClub) March 9, 2020
天才や個人に頼りすぎるのもまた危険ですが、多数の優秀な専門家をきちんと適材適所でその専門的な能力を発揮させる、ということです。
確かに台湾のIQ180のIT大臣はすごいだけど(自分も大ファン)、でも台湾の感染症対策センターで毎日記者会見を開き、迅速に対応、対策、情報公開をしっかり打っていく厚生大臣を始めとした各担当が今回の一番の功労者だと思う。それにほぼ感染症専門家。 pic.twitter.com/CLGKGu2niF
— めいほう (@guidemeihou) March 9, 2020
仮にもし専門家がきちんと用いられ、主体的に建設的に意思決定できる状況ならば、事実判断も価値判断も相互補完的にそれぞれの領域の長所と合理性を生かし、短所を補って協力できる方向性へ向かうでしょう。
日本はもうだめだ、とか終わっているとか、断定的に決定論的にいってただ蔑むだけで、自身は何も創造的に行動せずできもしない人も結構いますが、
今この状況の中で日本という現場で創造的に取り組んでいる人、しっかりと取り組める人を応援し協力できる人だけで議論していけばいいでしょう。
日本は優れた人材は沢山いますし、また特別に優れてなくても真面目で協力的な人も沢山溢れています。そして創造的な変人も結構彼方此方に潜んでいます。
外国にできるだけ出たほうが良い。それはもちろん外国を知るためでもあるんですが、なによりも日本という国がいかにたくさんの素晴らしい面を持っているか、それが貴重なことなのかというのを実感するためです。
— 山口周 (@shu_yamaguchi) January 9, 2020
日本は沢山の長所を持つ国ですが、そしてそれらを生かすことができれば十分に豊かになりえます。
ただそれらの多元性を全然生かしきれていない、バラバラで相殺し合っているような構造がありますね。だから建設的な議論どころか、ただ互いの短所だけが妙に目立つ感じになっています。
「本質が非合理的」なのではなく、各々の合理性がふさわしい場所で十全に機能していない、「質の異なる合理性が適材適所で機能しないから、非合理的・非効率的な機能・作用になる」わけです。
そうなると邪魔・妨害的なものになり悪い点だけ目立つので、互いの質の異なる力や能力が生かせず、敵対関係になって協力もできずさらに分断化してしまいます。
専門家だけが物事の是非を決定選択できるわけではない
世の中は科学者や専門家だけいればいいわけではなく、いろんなタイプの人が必要で価値や能力は多元的なものです、それが調和的に生かされていない相殺し合うような構造性に問題があるのです。
価値や意味はエビデンス由来ではありません。意志も情熱もエビデンスではありません。
好きとか嫌いとか楽しいとか幸福とか、人生をどう生きたいかとか、自身にとって何が最も価値のあることか?とか、日常の喜怒哀楽は、別にエビデンスに基づいて行っているのでも決めているわけでもありません。
「科学でない領域」が「科学」に境界侵犯して事実を歪めたり、不適切な形で過干渉するのがマズいのと同様に、「科学」が「科学ではない領域」に境界侵犯して、「価値」の領域に過干渉することもマズいのです。
エビデンスに基づいて機能しているもの、とそうでない原理で動いているもの、をごっちゃにしないことです。
「事実」と「感情」は異なります。理性と感性は異なります。感情はエビデンスではありませんが、人間には理性・論理性:客観性だけでなく感性も主観性も必要なように、
お気持ち感度・特異度は、全く別の原理で陰性や陽性をはじき出し、それは科学のような専門的な知的前提が基準ではないんです。
事実に感情が過干渉してそれを歪めるようになると問題が起きるように、感情・感性・主観の領域に理性・論理性・客観性が過干渉しすぎると、今度は別の問題が起きるのです。
人生の多くはエビデンス以前、あるいはそれ以外からもたらされるものであり、「科学でないもの」が日常の多くを占めています。
それらは科学的なひとつの正解があるようなものではなく、絶対(に近い)正解というような科学的実証もできないのです。
「ある価値基準での正しさ」は科学的事実判断のように「正解」が先にあるのではなく、「何が正しさなのか」はまだ相対的にしか決まっていないのです。
それが社会的に合意形成された後に、普遍的な価値のひとつだと承認されて受け入れられていくのです。なので「絶対的正解」を押し付けるような態度ではそもそもダメなんですね。
そういうものは基本的に相対的なものです。しかし全てを無制限に相対化すると何でもありになるため、たとえば法律のように明確な一線を作り、ここから先はダメ、というような基準を社会は作っているだけです。
科学的真実とは異なりその絶対性は異なる質のものですが「法」は普遍化された価値基準であり、「法」と「私の価値観・思想」は違うものです。
しかし「科学的正しさ」を述べている岩田健太郎 氏への賛否両論と、自らの価値判断の「正しさ」への賛否両論を同一視し、混同している方々もいます。
そして「正しさ」のために戦うんだ!的に結び付ける短絡な思考も見られますが、岩田健太郎 氏の「正しさ」は、「明確な科学的事実判断」から見た「間違っていること」に対して否定する姿勢なので応援しますが、
しかし、個々の思想・価値判断というのは必ずしもそれが「正解」とは決まっていません。その定義、前提によっては様々な捉え方の角度で正しさが変わってしまう価値多様性の領域です。
専門的な事実判断に関しては、その道のシッカリした専門家の話を素人は聞いていればいいのですが、
「ある価値基準での正しさを絶対化(普遍化)する」ためには、権威とか専門家とか特定の誰かが「それは絶対的な価値だ!」と言うだけではダメで、
合意形成と正しい手続きによってその価値が社会に承認されない限りは、普遍的・絶対的(それに近い)な価値にはならないのです。
それをすっ飛ばし、「科学的なものでもなく法でもない相対的な価値基準」を、科学的事実判断や「普遍的な法」の類と同一視し、「絶対的な正しさ」のように振舞うのであれば、応援も協力もしません。